電音部の世界は絶対に私が死ぬなって話
実を言うと、このタイトルは正しくない。正確には「電音部の世界に転移したとしても、私は死ぬだろうなぁ」という話である。同じじゃないかって? 残念ながら、この二つの間には絶望的なほどに大きな差がある……と、私は思っている。そしてそれこそが「死ぬだろうなぁ」と考えるに至る理由なのである。
電音部の世界ってなんぞ?
(「そんなの知っとるわ」って方は飛ばしてくださいな。なお、これはあくまで私の解釈であり、実際のあの世界がどうなっているかを保証するものではありません。念のため)
生放送で出された設定に曰く、
AIによるシンギュラリティ(技術的特異点)が発生した後の世界。
AIが人類の代わりに、文明を進歩させる(中略)
その結果、人々は意思決定やクリエイティブな作業に、より多くの時間を費やせるようになり、社会制度もそれに合わせた形へと変化した。
とのこと。おそらくは労働をロボット(AI)が代わりに行い、人間は賃金ではなく国家(ないしはそれに類する存在)によって支給される生活費で生活を送るような世界であろう。SF脳な方々(私含む)が「AIの反抗が……」とか考えてしまうタイプの。
日がな一日「働きたくない」「5000兆円欲しい!」「国会は早く私に毎月50万支給する法律を通せ」と考えている私だ。もちろん心の底から喜んで、「さっさとこの世界に転生させろや神様」「早くしねえとニーチェ先生呼ぶぞコラ」と恫喝を繰り返した。
みんなだってそう思ったでしょ?(質問) 思ったよね?(確認) 思ったって言って?(恫喝)
とまぁ、こんな茶番を挟まなくとも、よっぽど仕事が……いや、資本家に剰余価値を搾取されること(唐突な共産主義)が大好きなマゾヒスト以外は「労働が消滅」に諸手を上げて賛成するに違いない。何が勤労の義務だこの野郎。紙切れごときが主権者たる国民様に盾突いてんじゃねえぞこの野郎。
つまり、端的に言えば、電音部の世界は私達にとって理想郷なのだ。理想郷であるはずなのだ。びっくりするほどユートピアであるはずなのだ。いやびっくりするほどユートピア(https://dic.nicovideo.jp/id/4143038)ではないな。
理想郷は、ここにあったんだ……!
何を言ってるんだ? とお思いのあなた。まぁまずは聴いて欲しい。
私達の社会にもあるではないか。生活保護とやらが。https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/hukushi_kaigo/seikatsuhogo/seikatuhogo/index.html
上記のリンクは厚労省のものなのだが、そこの「制度の趣旨」では一丁前に
自立を助長することを目的としています
なんて言ってはいるものの、「健康で文化的な最低限度の生活」は近現代市民の最強の盾たる憲法様が御保障なさっていらっしゃるものなのだ。おう公僕風情が憲法様に盾突いてんじゃねえぞコラ。盾も殴りゃあ立派な武器やぞコラ(このnoteは生活保護の不正受給を推進するものではありません)。
実際問題、生活保護は「受給させてもらえない」なんてよく言われるが、申請してしまえばだいたいはこっちのものである。追っ払われるのは相談窓口の話であって、条件に該当する人間に申請されたものを突っぱねるのは(不可能ではないが)なかなかに難しい。
なお、条件については、基本的には「資産」「能力(労働)」「扶養」の三つが主である。
売れば人生を働かずに暮らせるような資産を持っている人間は、それで暮らせるだろう。生活保護にブルジョワはお呼びではない。けえれけえれ。
働かずに暮らすのだから、当然労働の項目は問題ない。なお、先ほど挙げた「勤労の義務」は国家その他が個人を強制的に労働させられるという意味ではない(という憲法の解釈がなされている)ので、これも問題ない。(ただし、「働け」という圧力は受けるかもしれないが)
最後に扶養だが、これも、もし扶養してもらえる親族がいるのであればそれで暮らせばよい。親族が誰も扶養してくれない? 一応はお金を出してくれても(最低生活費に)足りない? ご安心を。それは生活保護受給対象です。
おや、まぁ。なんということでしょう。既に働かずに暮らせる環境が存在するではありませんか! なぜあなたや私は働かずに暮らさないのですか?
いろいろな理由があるだろう。しかし、実際に最低生活費は誰にでも、扶養であれ生活保護であれ、貰えるのである。そして、最低生活費と銘打っただけあって、それさえあれば少なくとも生き長らえることはできるのである。
理想郷はだいたい幻想
生活保護や親族の扶養で生活できる。そんなことはわかっている。それでも嫌だ。そうお思いになった方は多いだろう。私もそうである。
「嫌」な理由はなんだろうか。到底足りない。親族に迷惑をかける。納税者に迷惑をかける。今でさえギリギリなのに、これ以上低い生活保護額では生きてゆけない。おおむねこんなところではないだろうか。
だが、「最低生活費」の名の通り、「生きてゆくこと」は可能なのだ。その600円のコンビニ弁当を100円の菓子パンや塩おむすびにかえ、500mLで150円のジュースを580Lで100円の水道水にし、3000円のイタリア料理を200円のチルドピザで代用すれば。あるいは3万円のブランドバッグを980円のリュックサックに持ち替え、服はユ○クロで。化粧やネイル、肌の保湿はそもそも生きるのに必要なわけがない。
かつて、かの有名なケインズは、1930年に「我々の孫たちの経済可能性」という論説を行った。それによれば、急速に経済を発展させた21世紀の私達は、人間の物質的な欲求をすべて満たし、芸術や娯楽により多くの時間を費やす娯楽社会へと移るのだという。
あのケインズである。経済は実際にこの「予言」通り発展した。当のアメリカを例に出せば、1930年に比べてGDP(国内総生産)は約7倍にもなっている。当時が世界恐慌の真っ只中であったことを加味しても、相当な伸び率である。現代の私達が、当時の人々に比べて7倍もの量を食べないと生活して行けないような体にでもならない限り、予言は当たりそうなものだ。
しかし、私達には知っての通り、現代は娯楽社会などと呼べるものではないし、これからもそうなりそうもない。こと労働に関しては顕著だ。過労死ラインを越えた越えないでの議論が行われていることじたい、いっそ狂気的ですらある。
なぜこの「予言」は当たらなかったのか? 私達が7倍もの量を食べるようになったとでもいうのか?
ある意味では、そうなのだ。
もちろんカロリー量としては(いくら肥満が問題化しているとはいえ)それほど増えたわけではない。しかし、私達はかつての何倍もの消費をしていることもまた、事実である。いったいなぜ? その答えは「衒示的消費」にある。
衒示的消費と競争
大辞林には「衒示」の項にたった一行「見せびらかすこと。」とある。
つまり、「見せびらかす消費」だ。とはいえ、衒示的消費は必ずしも誰かに見てもらう必要はない。たった一人で食べるイタリアンにさえ、大抵は(食欲を満たすだけでなく)衒示的な要素が伴う。よそゆきの服なら猶更だ。服としての機能なら一番安い服も十分満たしている。それだのに、機能が一切変わらないにもかかわらず、あるいは服としての機能を外れた余計なものをつけてまで、高いものを買おうとするではないか。
無論、私達が常に「これは衒示的消費だ」と意識しているわけではない。なにせ、先に上げた「生きてゆくこと」で排除したほとんどは衒示的消費に近い物である。あなたは「そんな生活は送れるか!」と言うための理由に、衒示的消費をあげただろうか? そうではないだろう。
たとえば服であれば、「こんな値段の服で行ったら失礼」だとか「おしゃれをしたい」だとかの理由がつく。だからこそこの衒示的消費は厄介なのだ。
衒示的消費の理由は競争が大部分を占める。衒示的消費を怠れば、競争に負けてしまうのだ。この競争は、社会的地位を争う競争であったり、恋愛のような競争であったり、あるいは様々な要素がもっと複雑に絡み合った競争であったりもする。しかし、共通するのは衒示的消費の大切さである。
たとえば、飛び込み営業の人間がとても前衛的な服だったら、その時点でお帰り願うだろう。あるいは、社員がまともな食事をとらずに、塩おむすびと水道水だけで過ごすような会社に入りたいだろうか。
恋愛を例に出せば、化粧はせず、肌は荒れに荒れている人間を恋人の候補にすることはまずない。一方で、デートに安いことで有名なファミレスを選ぶ人間を、収入が不十分な人間だとみなさないだろうか。
私の例が不十分かもしれないが、ともかく、私達は衒示的消費と、競争からは逃れられない。「見せびらかす消費」は、時として「必要な消費」にもなる。動機がもう少し違うところにあったとしても、衒示的消費は間違いなく競争に役立つのだ。
競争に負けるということ
では、もし衒示的消費を怠ったことで(他の理由でもいいが)競争に負けたとする。これは人間にとっておそろしいことだ。あなたは競争に負けた経験があるだろうか? ない、と答える人間はほとんどいないだろう。
そして、受験競争に敗れれば、よりレベルの低い教育を受け、その学校を学歴として持たなければならなくなる。就活の競争に敗れれば、収入は減り、時には社会的地位の低さを甘んじて受け入れる必要に迫られる。会社での競争に敗れれば、出世の道は閉ざされる。恋愛の競争に敗れれば、すなわち失恋である。ずっと負け続けてしまえば、今度は子孫を残すことも難しくなるだろう。
もちろん、現代の多様性に寛容な社会は、上記を無条件には悲劇と呼ばないかもしれない。しかし、自分がそんな目にあうことを想像すれば、多くの人は嫌なことだと考えるだろう。その「嫌」こそがあなたや私を競争に駆り立てている原因の一つだ。
理想郷はなぜ理想郷ではないのか
もはや、多くの人々が生活保護の生活を送りたくない理由は十分に説明し終わっただろう。競争に負けるのである。
競争は常に人間社会について回る。それはどの時代のどの社会でも、規範で厳しく禁止した場合を除いて存在した(もっと言えば、「規範を守る」という行為は競争の形態の一つともみなせる)。
きっと労働が消滅した世界でも、そう、電音部の世界でも一緒だろう。
再び同じ部分から引用するが、
社会制度もそれに合わせた形へと変化した
とあるのだ。
社会制度が変わるということは、人々の意識も変わるということでもある。「どちらが先か」という話は鶏と卵になってしまうので避けるが、少なくとも電音部の世界ではこの人々の意識が変わっているとみなしてよいだろう。
現代において、最も競争が激しく行われる労働が消滅したら、それの受け皿はどこになるだろうか?
「意思決定やクリエイティブな作業」に他ならないのではないか?
あまりにも残酷な話である。軽率な意思決定をする者や、クリエイティブな作業ができない者は、現代における失敗者と同じ扱いをされることになるのだろう。積分のかわりに一点透視を習い、徳川将軍のかわりに和音を覚え、パワーポイントのかわりに配色を考え、excelのかわりにコード進行を打ち込み、プログラミングのかわりにDJ技術を試行錯誤する……これらのどれもできない人間が、社会でいったいどのような扱いをされるだろうか? 特に、もう私やあなたの歳になるまで何も勉強していない人間が、である。
それに、もしもクリエイティブな作業によって更なる収入が得られるのだとしたら、どうなるだろうか? その分を衒示的消費にあてられる人間と、国ないしはそれに類するものからの支給しか使えない人間の差は、現代における労働者と生活保護受給者と同じようなものになるのではないか?
「生活保護での暮らすのは嫌」と思った私達が、電音部の世界に行ったとして、同じような目で見られる存在になることに耐えられるのだろうか?
(もちろん、生活保護を否定するわけではないし、私個人としてはとても大切なシステムだと思っているが、そういう話ではない)
これが、急激に労働がAIに移ったばかりであれば、話は違っただろう。社会の競争意識はあくまで労働が前提で、それがなくなってしまえば一時的に競争のないユートピアが訪れるのかもしれない。しかし、既に社会制度も人々の意識も移り変わった社会において、競争意識が消えたままでいられるとは到底思えない。
つまりは
こんなnoteを書いてしまうほどに意思決定が軽率で、こんな駄文を書いてしまうほどクリエイティブな作業ができない人間は、まぁ間違いなく電音部の世界に行ったとしても社会的に死ぬだろうなぁ。なにかあればそのまま自殺してしまうんじゃなかろうか、という話でした。ちゃんちゃん。
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