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”痛みにあふれた愛”のムーブメント”~黒人解放の神学とBLM(ブラック・ライヴズ・マター)運動

「ブラックカルチャーを探して」の連載6回目は、アメリカ南部のノースカロライナ大学チャペルヒル校の博士課程に在学中の榎本 空さん。黒人解放神学の拠点のひとつであるユニオン神学校に留学し、そこで教えを受けたジェイムズ・コーンと現在のブラック・ライヴズ・マター運動とのゆるぎないつながりについて、そして抗議活動を「愛のムーブメント」と表現することの背景などについて、教えていただきました。苦しみの中から生まれた愛と継承、そしてその結果としての小説や音楽などの文化……ブラックカルチャーの精神的なルーツの一端に触れてみてください。


400年にわたり受け継がれた不屈の霊性の体現者、ジェイムズ・コーン


 黒人解放の神学とブラック・ライヴズ・マター運動(以下BLM運動)、そんな言葉を前に急いでページを閉じないで欲しい。難しい議論をするつもりはないし、神について大それたことを何か語れるわけでもない。でも例えばこんな話はどうだろう。BLM運動の創設者のひとり、オパール・トメティさんは自らを「解放の神学の学徒」であると公言している(*1) 。また、タイムズ誌の「世界で最も影響力のある100人」のひとりに選ばれた黒人の歴史家、イブラム・X・ケンディ(a)は、その主著『How to be an Antiracist』の序文で、彼の両親について書いている。彼らにとって、黒人解放の神学の父であるジェイムズ・H・コーン(b)の教えがいかに重要であったかと(*2)。

 ジェイムズ・コーンの思想は、現在のBLM世代の黒人に少なからず影響を与えている。なぜだろうか。そんな問いに答えるために、私はBLM運動を『フライデー・ブラック』のナナ・クワメ・アジェイ=ブレニヤーさんに倣って「愛のムーブメント」(*3) として考えてみたいと思う。確かに、BLMは警察の改革を訴える社会運動であるし、白人優越主義、資本主義、男性優位主義、異性愛主義、その他諸々の構造的な暴力と創造的に闘っている。しかし同時にそれは、「400年にわたって憎しみを受け続け、それでもなお世界に向かって、愛を、愛し方をこれほどまでに教えた人々の伝統」(*4、c ) に根を張る愛のムーブメントなのである。BLM運動に学ぶ私たちは、彼らの政治的主張や組織のあり方だけでなく、彼らの勇気や愛、不屈であること、誠実さ、死者を悼むことなど、400年の米国における黒人史の中で脈々と受け継がれてきた霊性をも、知らなければならないと思う。ジェイムズ・コーンは、黒人キリスト教の立場から、そんな霊性に声を与えてきた。

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2009年、ニューヨーク市のユニオン神学校でのジェイムズ・H・コーン by Coolhappysteve CC BY-SA 3.0 https://en.wikipedia.org/wiki/James_H._Cone


 私がジェイムズ・コーンと出会ったのは2015年のこと。彼に学ぶために、ニューヨークのハーレムに位置するユニオン神学校に、私は留学した。初めて彼の教室に入った時のことをよく覚えている。教室の壁に立てかけられた無数のプラカードたち。それは十字架の形をしていて、トレイヴォン・マーティン、マイケル・ブラウン、エリック・ガーナーと、当時BLM運動で叫ばれていた警官の暴力によって殺された黒人の名前が刻まれていた。そんな光景に目を奪われていると、背のスラっとしたスーツ姿のコーンがやってきて、講義が始まる。70代後半だった彼だが、一度話し出すと止まらない。机をバンバンと叩きながら、彼の口調は熱を帯びる。なぜ、黒人はこんなに苦しまなければならないのか。なぜ黒人の死は繰り返されるのか。

苦しみを力に替え、その先の可能性を示してきたもの

 黒人解放の神学とは、黒人の死と苦しみにイエスの十字架を重ねる学問である。コーンに炎を灯したのは、50年以上も前の1967年に起こったデトロイト暴動(d)とその結末の43人の黒人の死、そして1968年のキング牧師(e)の死だ。もはや黙っていることはできない。大学院で学んだ抽象的な西欧白人神学との決別を決意したコーンは、ジェイムズ・ブラウンとレイ・チャールズ、アリーサ・フランクリンを師とした黒人神学の構築に取り掛かる。B.B.キングにギターがあり、ニーナ・シモンにピアノがあったのなら、ジェイムズ・コーンには神学という言葉があった。イエスはブラックである! なぜなら彼は2000年前、パレスチナの片隅で抑圧された人々の尊厳のために闘い、十字架に張り付けられ、殺されたのだから。黒人が道を歩いているだけで、犯罪者扱いされ首を絞められ、自宅で寝ている時に、暴漢のようにして押し入ってきた警官に銃を撃たれる時、コーンの神学は、そこに十字架の上で「息ができない」と呻くイエスの姿を見る。イエスは教会にいるのではない。イエスがいる場所が教会なのだ。

 そんなジェイムズ・コーンは2018年4月にがんで亡くなった。自叙伝を書き遺して。訳さなければと思った。彼の最後の生徒のひとりとして、私に何かできることがあるならば、それは彼の本を訳すことではなかろうか。翻訳には一年以上の時間がかかり、その間に娘が生まれ、他にも色々なことがあった。いつまでも翻訳していたいような気持ちでいたが、もちろんそんなわけにもいかず、2020年3月25日、コーンの自叙伝『誰にも言わないと言ったけれど』*5 は新教出版社から出版された。

 ジョージ・フロイドさんがミネアポリスの路上で、警官に首を絞められて殺されたのは、それからちょうど2カ月後の5月25日。瞬く間に全米に広がったブラック・ライヴズ・マターの叫び声、都市部での暴動、高まる人種的な緊張。コーンの本の翻訳後のまどろみから、私は叩き起こされた。きっとコーンは天国で、机を叩きながら怒っていたに違いない。「もうたくさんだ!」
 ジョージ・フロイドさんの死以来、コーンの自叙伝は、全く違う響きを持って、私に迫ってくるようになった。確かにここでコーンが明かしているのは、彼の人生だけれども、その背後には、十字架を背負った多くの黒人の姿がある。琉球新報の書評で、沖縄国際大学の石原昌家先生はこう書いた。「本書は、ジョージ・フロイドさんが息も絶え絶えに書き上げたといえば分かりやすい」(*6

 この国にあって「黒人の命が重要だったことはない。たった一度も」(*7) とコーンは書く。1619年に最初の奴隷が米国に連れてこられてから400年、そんな歴史の前にこの言葉は重い。奴隷解放の喜びは、分離政策とリンチの恐怖となり、公民権運動の夢は階級格差と大量投獄という悪夢に変わり、オバマ大統領の熱狂は、黒人男性、女性、LGBTQの人々の命が簡単に警察の暴力によって奪われていく中で、幻想へと変わった。決してジョージ・フロイドさんやブリオナ・テイラーさん、トニー・マクデイドの死は、歴史的な真空の中で起こったのではないだろう。今も黒人は「奴隷制の余生」を生きている。つまり「歪められた人生の機会、医療や教育へのアクセスへの制限、早すぎる死、投獄、貧窮」(*8)。 黒人の生には歴史がのしかかる。400年の歴史が彼らを追い、彼らを待つ。

 400年の歴史を前に、コーンが繰り返し問うのは、黒人はいかにして正気を保ってきたのか、ということ。絶え間なく命が軽く扱われる中で、いかにして愛し合い、自分に価値があることを知り、子どもを育て、路上に出て声を上げ、踊り、歌い、癒してきたのか、という問い。彼は書く。

 キリスト者となることは、黒人となることとどこか似ている。それは逆説であり、多くの不調和を抱えた大いなる矛盾である。黒人として育ってみるといい。人は否応なく次の問いに迫られるはずだ。なぜ白人は、私をあたかも人間ではない存在のように扱うのか。その答えは簡単に見つかるものではない。しかし私は、この過酷な現実を学ぶとともに、両親にこう教えられてきた。「彼らの憎しみを真似してはいけない」。なぜなら、ボールドウィンが書いたように、「憎しみは担ぐには重すぎる荷物である」から。黒人が残忍性を超越し、自らの悲劇的な生の中に真の美しさを見出すことができたのは、私の両親が示したような信仰によって内的な力を得ていたからである。
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 十字架のイエスは、ただ単に黒人の苦しみの象徴となっただけでなく、彼らの力となってきた。そんな逆説こそ、黒人キリスト教の深みだと思う。同時に、黒人の人々に力を与えてきたのは、キリスト教だけではなかった。マルコムX(f)にはイスラム教があったし、アフリカの伝統宗教に回帰する人々もいる。(*10) 宗教だけではなく、音楽がある。ブルーズ、ジャズ、ファンク、ヒップホップがある。文学もある。トニ・モリソン(g)がいて、ジェイムズ・ボールドウィン(h)がいる。これらはいずれも奴隷制以来の黒人の苦しみに根ざしていながら、同時に、目の前の不条理が最後の言葉を持っているのではないことを教えるのだという。この国は、あなたを犯罪者や使い捨ての商品として扱うかもしれない。それでも、ボールドウィンが言うように、あなたは「必ずしもこの国が決める自分になる必要はない」(*11)。 可能性は、今ここにある。あり得たかもしれない今、あるべきであった今、そんな倫理的な可能性が、イエスやブラックミュージックのリズム、黒人文学の想像力や死者を悼むことを通して生まれるのだ。力はそこから生まれる。勇気を持とう。不屈になろう。サミュエル・ベケットが言ったように、「もう一度挑戦しよう。もう一度失敗しよう。次はもう少しよく失敗しよう」(*12) 

愛とは命のための闘い。広がる「ブラック」の意味


 2012年、トレイヴォン・マーティンが殺害され、その犯人のジマーマンが無罪となった時、アリシア・ガルザさんは、後のBLM運動のマニフェストとなる「黒人へのラブレター」という文章をFacebookに投稿した。
「私たちの命を、何の罪にも問われることなく奪えるなんて間違ってる。自分を愛そう。黒人の命が大切にされる世界のために闘おう。黒人の人たち、あなたを、あなたたちを愛している。私たちには価値がある。私たちの命は重い」(*13
  BLMは愛のムーブメントだろう。もちろんその愛とは、キング牧師の言葉を借りれば「感情的な戯言」ではない。むしろ「残虐性という燃え盛る火が破壊しようとしている自分の人間性、自分の人間としての存在を、毎日のようになんとかして掴み取るよう強いられている人」 (*14)にとって愛とは、自分たちの命に価値があると信じるための闘いである。400年間にわたり永続的な危機にあって、それでも絶望を拒否し、互いに繋がり合うための闘いである。そしてその愛が公共の場や路上に現れる時、それは正義の形をとる。(*15 ブラック・ライヴズ・マター!

 ジェイムズ・コーンとBLM運動をつなげるのは、そんな痛みにあふれた愛だと思う。コーンにとってイエスの愛とは、そのようなものに他ならなかった。もちろん多様でクィアなBLM運動は、公民権運動のように組織としての教会がその背後にあるわけではないし、コーンが全ての答えを持っているわけではない。2015年、BLM運動に対し自身の思想が示唆を与えるかどうか聞かれたコーンは、「そうなってもらえたら嬉しいが、それが必然ではない」と答えている。
 そんなコーンの謙虚さを私は尊敬しているのだが、それでも彼が遺した思想は、ひとつの汲み尽くされてはいない泉として残っている。もちろんそれは、狭義の肌の色を超えて、自らの人間としての存在に疑問を感じざるを得ないすべての人々に開かれている泉だ。ブラックという言葉は、誤解を恐れずに言えば、そんな広がりを持った言葉だと思う。同じブラックという言葉を冠したコーンの神学は、嘘と不誠実、冷笑と無関心が規範となり、1%と呼ばれるごく少数の人々の繁栄が優先される今という時にあって、命こそ宝なのだと呟かざるを得ない多くの私たちを招いているのだ。


著者による脚注
*1
彼女の経歴より。ちなみに解放の神学とは、黒人神学やラテンアメリカの解放の神学など、周縁に置かれた者の立場から社会の改革を目指す神学の総称である。
*2:Ibram X Kendi, How to be an Antiracist, p.16-17
*3:こまくさWeb『フライデー・ブラック』著者ナナ・クワメ・アジェイ=ブレニヤー インタビュー
*4:ジェイムズ・H・コーン『誰にも言わないと言ったけれど』p.11、黒人神学者のコーネル・ウェストが、コーンの葬儀で述べた言葉より
*5:タイトルは“Said I wasn’t gonna tell nobody”という黒人霊歌からとられている。
*6:2020年7月5日、琉球新報書評より。
*7:『誰にも言わないと言ったけれど』p.258
*8:Saidiya Hartman, Lose Your Mother, p.6
*9:『誰にも言わないと言ったけれど』p.209
*10:BLM運動の創始者のひとり、パトリッセ・カラーズさんは、BLMの傍、ナイジェリアの伝統宗教であるイファという癒しの実践をされている
(ウェブメディア、THE CONVERSATION 2020年9月14日の記事より)。
*11:『誰にも言わないと言ったけれど』p.230
*12:これとよく似た言葉を、沖縄のガンジーと呼ばれた阿波根昌鴻(あはごんしょうこう)さんは言っている。「負けて勝つとは、勝つまで続けることだ」。
*13:英語の原文はこちら。“We don’t deserve to be killed with impunity. We need to love ourselves and fight for a world where black lives matter. Black people, I love you. I love us. We matter. Our lives matter.”
*14:ジェイムズ・ボールドウィンの言葉、『誰にも言わないと言ったけれど』p.244、引用元は『次は火だ』弘文堂新社 p.84
*15:“Justice is what love looks like in the public”これも、コーネル・ウェストの言葉だ。

以下は編集部による脚注
a イブラム・X・ケンディ:1982年、アメリカ・ニューヨーク州生まれ。作家、学者、反人種差別活動家。現在はボストン大学反人種差別研究センター所長。『Stamped From The Beginning』(2016年)は全米図書賞を受賞。
b ジェイムズ・H・コーン:1938年、米・アーカンソー州生まれ。アフリカン・メソジスト監督教会牧師。黒人解放の神学の提唱者としてユニオン神学校教授を務め、2018年にはアメリカ芸術科学アカデミーのフェローに選出された。2018年4月28日、逝去。
c *4の脚注内のコーネル・ウェストは、アメリカの哲学者、政治思想家で、現在はプリンストン大学およびユニオン神学校の教授。政治や経済、歴史や宗教学の側面から人種問題を論じる先鋭的な知識人である。『人種の問題――アメリカ民主主義の危機と再生』や『コーネル・ウェストが語るブラック・アメリカ: 現代を照らし出す6つの魂』などの著書がある。
d デトロイト暴動:1967年7月23日から27日にかけて、アメリカ・ミシガン州デトロイト市で起こった暴動。12番街暴動とも呼ばれる。アフリカ系アメリカ人を中心とする群衆と警察との衝突から大きな暴動へと発展した。
e キング牧師:正式名はマーティン・ルーサー・キング・ジュニア。アメリカのプロテスタントバプテスト派の牧師で、1960年代の公民権運動においての象徴的存在として活躍した。1968年4月4日、テネシー州メンフィスで白人男性に撃たれ、死亡した。
f マルコム・X:アメリカの黒人解放運動家(1925~1965年)。ネブラスカ州出身。強盗罪で収監されていた際にイスラム教に出会い、出所後にアフリカ系アメリカ人によるイスラム教運動組織、ネーション・オブ・イスラムに参画。攻撃的な主張とカリスマ性で同組織のスポークスマンとなるが、後に脱退。1965年2月、ニューヨークでの演説中に襲撃を受け、死亡した。
g トニ・モリソン:アメリカの作家、編集者(1931~2019年)。オハイオ州出身。黒人の名門大学であるハワード大学、そしてコーネル大学で学び、大学教員を経て編集者に。1970年に『青い眼が欲しい』で作家デビュー。大学教授を務めながら『ビラヴド』などを発表し、1993年にはアメリカの黒人作家初のノーベル文学賞を受賞。アメリカ黒人文学の立役者的存在。
h ジェイムズ・ボールドウィン:アメリカの小説家、劇作家、詩人、エッセイスト、公民権運動家(1924~1987年)。ニューヨーク州出身。10代の頃より文学を志し、ヨーロッパへの長期移住を経て帰国。1960年代には公民権運動にかかわったが、晩年はふたたびヨーロッパで過ごした。黒人で同性愛者である自らのアイデンティティーやコンプレックスをテーマとした著作は後世の作家たちにも多大な影響を与えている。代表作に、『山にのぼりて告げよ』(1953年)や『ビール・ストリートに口あらば』(1976年)など。

文:榎本 空

著者プロフィール
榎本 空(えのもと・そら):1988年、滋賀県に生まれ、沖縄県伊江島で育つ。同志社大学神学部修士課程終了。台湾・長栄大学留学中、神学者C.S.ソンに師事。米・ユニオン神学校S.T.M.卒業。2018年よりノースカロライナ大学チャペルヒル校人類学専攻博士後期課程に在籍。2020年、翻訳を手掛けたジェイムズ・コーンの自伝『誰にも言わないと言ったけれど 黒人神学と私』(新教出版社)を上梓。

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『誰にも言わないと言ったけれど 黒人神学と私』
ジェイムズ・H・コーン著、榎本 空訳
新教出版社 2020年

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