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原発事故から10年の区切りで『原発の町を追われて~』新作を制作! 包丁を時々カメラに持ち替えて~給食調理員のドキュメンタリー制作記(後編)

 さいたま市の小学校で給食調理員として働いていた堀切さとみさんが、ドキュメンタリー制作に携わることになったきっかけは、知人から勧められたビデオ講座。映像制作の面白さに目覚め、3分間の作品を撮るために瀬戸内海の祝島(山口県)に赴き、最終的に20分間の作品を作り上げた。
 そして2011年3月に起こった東日本大震災と福島第一原子力発電所(以下福島第一原発)の事故。帰宅困難地域に指定され、避難を余儀なくされた双葉町の住民の方たちの避難先が地元の埼玉県となったことで、堀切さんは避難者の方々への取材を決意し、1年あまりで1時間ほどのドキュメンタリー映画『原発の町を追われてー避難民・双葉町の記録ー』を制作した。作品は200回以上の自主上映会で上映され、大きな反響を得た堀切さんはさらに取材を続け、新作『原発の町を追われて・十年』が完成した。10年間、双葉町とその町民の方たちを追いかけた思いとは? 後編の手記をお届けします。

原発避難者がわが町に


 2011年3月11日。この日を境に、世界が変わったといっても過言ではありません。まさか本当に原発が爆発するなんて。埼玉に住む私でさえ、逃げなくていいのかと本気で考えました。しかし、職場に行くと何事もなかったかのように皆、平静を保っている。それどころか、この期に及んでも「原発がなかったら電気が来なくなる」と言う人もいて、悶々としていました。
 ところが一週間後、私が住む町にある「さいたまスーパーアリーナ」に、福島からの避難者が集まっているというのです。びっくりしたというより、ほっとした思いでした。よくぞ埼玉に来てくれた、という気持ちでした。


 すぐにアリーナに駆けつけ、最初は炊き出しを手伝いました。列に並ぶ福島の人達を見ながら、私は「すぐには帰れないだろうな」と思いました。そして炊き出しもそこそこに、建物の中に入って話を聞いてみたくなったのです。「マスコミは立ち入り禁止」の札がかかっていましたが、私はマスコミじゃないし、ただ話相手になるだけだからいいだろうと。


 アリーナの中に入ると、通路に敷き詰められた毛布の上で新聞を読んだりモニターを観ている人達がいました。最初は勇気がいりましたが、「どこから来たんですか?」「どうやってここまで来たんですか?」と訊ねると、意外なほど気さくに応えてくれたんです。
 「あなたに話したところで何か変わるの?」と詰め寄る人もいました。もっともなことです。でも、話すことで気を紛らわしたいという人もいて、一人につき20分から30分ほど話を聞いたでしょうか。メモを取るのも憚られる気がして、話を聞いた後はトイレに駆け込んで、思い出すままにノートに走り書きしました。
 その中でも60代位の恰幅のいい男性の言葉が忘れられませんでした。
「よそ様から食べ物をもらうとは思わなかった。福島にどれだけコメがあると思ってんだ」
「今はマスコミも殺到しているけど、俺たちはどうせ忘れられていくんだ」    
 男性の名前を聞くことはできませんでしたが、私は「追いかけよう」と思ったのです。

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2011年3月、さいたまスーパーアリーナ(埼玉県さいたま市)での双葉町からの避難者の方たちの様子。約1,200人の避難者の方々が、2011年3月19日に双葉町から埼玉県に移動し、3月いっぱいまで同地で避難生活を送った。



「テレビを観て、がっかりした」


 その後、双葉町の方々はスーパーアリーナから埼玉県加須市の高校(旧騎西高校)の廃校舎に避難することになりました。職場から車で1時間。旧騎西高校に行ってみると、教室や体育館、柔道場などに、1,000人以上の双葉町民が寝泊まりしていました。昇降口に「マスコミお断り」の張り紙が貼ってありましたが、誰が町民で誰がよその人なのか、区別がつきません。私は図々しく入り込んで、話を聞きました。仕事もなく、昼間からずっと高校の中にいる。いつまで続くかもわからない。つらいだろうなと思いました。

 
 喫煙所には避難している人がたむろしていて、本音の吹き溜まりという感じ。「食っちゃ寝、食っちゃ寝の生活。おれたちは養豚所のブタか」という人もいました。国や東電への怒りも、たくさん出てきました。マスコミの記者に混じって、私も話を聞かせてもらいました。回数を重ねるごとに知り合いも出来て、通うのが楽しくなってきた頃、騎西高校のことをテレビで観た職場の同僚が、「あの人たちはいいね、仕事しなくても食べていけるんだから」と言うのです。私にはとてもショックな言葉でした。


 そうかと思うと、避難者の人からもこんな話を聞きました。せっかくカメラの前でインタビューに答えたのに、放送を見ると、やれ有名人が慰問に来たとか、「ボランティアの皆さんに感謝」というものばかりでガッカリだと。テレビ局側には番組を作る上で、「かわいそうな避難者」というような(欲しい)答えがあって、それに合う絵が欲しいのでしょう。


 そこで私は、皆から聞いた話をレイバーネット(*1)というウェブサイトにアップし、それをプリントして騎西高校に持って行くことにしました。すると、避難者の方たちは「俺たちが言ってることが書いてある」「これは誰それのことだな」と、回し読みして喜んでくれたのです。メディアの人間でなくても、何かを発信することができるんだと思いました。今でこそ、SNS上で誰もが自由に情報発信することが当たり前になりましたが、10年前の2011年は、まだそれほどでもなかったのです。

「欲しい絵」から自由になって 


 マスコミ同様、私にも「欲しい絵」はありました。それは、双葉町の人たちが一致団結して東電に乗り込み、原発はいらないと声をあげることだったのです。しかし双葉町の人たちは、それどころではありませんでした。
 6月頃だったでしょうか、騎西高校の雰囲気が今までと違う。何かまったりとしているのを肌で感じました。最初の頃は気さくに話をしてくれた人たちが、ぱったりと黙ってしまっているのです。いったいどうしたんだろう、話が聞けないなんて。このまま通い続けることに意味はあるのだろうかと悩みました。
 3分ビデオでお世話になった講師に相談すると、「今は何も話してくれなくても、通い続けた方がいい。いつかきっと変わる時が来るから。ドキュメンタリーは変化を撮るものだよ」と教えてくれたのです。ああ、そうか。放送日が決っているテレビと違って、私には何の制約もない。じっくり時間をかけて定点観測できるんだ。そう思うと、迷いはなくなりました。映画を作りたいという気持ちが湧いたのはこの頃です。


 騎西高校は、人生の宝庫でした。なにしろ1,000人以上の町民がいるのです。双葉町時代にどう生きてきたか、避難してどんな葛藤を抱えているか、誰ひとりとして同じものはありません。建てたばかりの我が家が放射能まみれになった人、目の前で母親が津波に飲み込まれた人……さまざまでした。それでも、騎西高校の中で町民どうしが苦しみを吐き出すことは憚られる。むしろ、第三者相手の方が話しやすいということもあるようでした。避難して1ヶ月以上誰とも口をきけなかったけれど、若い新聞記者に話を聞いてもらうことで立ち直れたいう町民もいました。
 騎西高校に通い始めて3ヶ月ほどして、「撮影してもいいよ」という人が現れました。家族10人で避難してきた田中さんという男性でした。田中さんは苦しい胸のうちを誰かに話したいと思っていたようでしたが、給食調理員の私に「おめえは人を警戒させないのがいいナ」と言ってくれました。
 田中さんの義理の息子さんは福島第一原発に勤務し、3・11当日、爆発が起きた現場にいたそうです。ところが田中さんは、彼が逃げずにその場にいたことを「嬉しくて泣いた」と言うのです。私はびっくりしました。双葉町の人の話を聞くと、こちらが予想していたこととまったく違う言葉が出てくることがあります。でも、これがドキュメンタリーの面白さだと思います。         
 期待して行ったら何も起きず、偶然行った場所でぞくぞくするような出来事があったり。そんな現場に何度か遭遇し、私はすっかり、撮影する楽しさにハマっていきました。

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写真上:双葉町の避難者の方々がさいたまスーパーアリーナから移動し、避難生活を送ることとなった騎西高校(埼玉県加須市)。写真中:堀切さんが騎西高校で出会った避難者の田中さん。写真下:騎西高校の喫煙所の様子。

最初の1年の記録を映画にして


 ある日、町民の一人が「一度、ちゃんと町長に挨拶に行った方がいい。俺が引き合わせてやっから」と言うのです。ドキっとしました。断りもなく勝手にカメラを回していたのです。怒られるだけならまだいい、出入り禁止になったらどうしよう……。あわてて手書きの名刺を作り、騎西高校の中にある町長室で、当時の町長、井戸川克隆(*2)さんと対面しました。今まで撮った町民のインタビューのDVDを渡すと、すぐにパソコンで観て下さり、こう言ったのです。
「私はね、ひとつ後悔していることがあるんだ。騎西高校に町民を避難させてから、それを記録する余裕がなかった。記録してくれてありがとう」
 リップサービスだとしても、有難い言葉でした。それから、何度も町長のインタビューを撮らせてもらうことができました。


  こうして、双葉町の1年間の避難生活を編集し、2012年7月に最初の映画『原発の町を追われて』を作りました。
 映画監督でもマスコミでもない私は、作品を作ったところで映画館で上映するなんてことは考えようありません。とりあえず、レイバー映画祭(*3)というイベントで上映してもらって、一仕事終えた気持ちになっていました。ところが予想以上の反響があり、「地元で上映会をしたい」という問い合わせが殺到したのです。驚きました。
 上映会をしたいと申し出てくれた人たちは、自分たちで会場を借り、素敵なチラシを作り、そこに私や、映画に出演してくれた双葉町の人を呼んでアフタートークの時間を設けてくれたのです。会場もさまざまで、公民館、カフェ、お寺、ブティック、大学、体育館、テント、団地の集会所……などユニークでした。
 共通しているのは、映画を観た後の交流を大切にしていること。映画館では一人で映画を観た後、誰かと感動を分かち合いたくても、いきなり隣りの人に声をかけるのは難しい。しかし、こうした映画会だと、制作者と討論したり、会場にいる人どうしが感想を言い合ったりすることがしやすい。むしろ十数人くらいの方が、胸襟を開いて話しやすいのです。


 ある時、某テレビ局のディレクターが映画を観に来てくれました。双葉町の若いお母さんが「アリーナでボランティアの人に上から見下ろされているみたいで屈辱的だった」と語るシーンを観て、「これはテレビでは絶対に放送できない」と言うのです。善意でやってくれているボランティアの人からハレーションが起きると。でもむしろ、ボランティアにはどういう支援が求められていたのか、考えるきっかけになったと、討論は大いに盛り上がりました。
 もちろん、テレビの良い点もたくさんあります。テレビは不特定多数の人が観るもの。映画は観たいと思う人が会場に足を運ぶのだから、よほど関心がある人しか観に来てくれることはありません。それはそれでいいのですが、私は原発問題に関心のない人や「騎西高校(にいる人)はタダで食べられていいね」と言う人に、現場のことを知って欲しかった。そういう工夫が必要になってくると思います。これまで200回以上上映会を重ねてきましたが、何といっても職場の同僚が観に来てくれたことが一番嬉しかったです。「原発は必要だ」と言っていた人でしたが「わからないことも多かったけど、感じるものがあった」と言ってくれたので。

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写真上:元双葉町町長の井戸川克隆さん(『原発の町を追われて-避難民・双葉町の記録-』より)。写真中:『原発の町を追われて-避難民・双葉町の記録-』や新作『原発の町を追われて・十年』の上映会のためのチラシの数々。写真下:上映会での様子。


市民が映画をつくるということ


 この夏、4作目の『原発の町を追われて・十年』を完成させました。(取材・撮影が)10年続けられたのは、「記録してほしい」「原発避難者のことを伝えて欲しい」という町民の人たちのおかげです。この映画には、初めて撮影をさせてくれた田中さんも登場します。家族の記録を遺すつもりで、10年の間、折に触れて撮らせてもらいました。


 私はこの先もおそらく、映画づくりを生業(なりわい)にすることはないでしょう。30年近く学校給食の仕事をしてきて、人間関係に悩み、苦しんだ時期もありました。職場に向かう足が重くて仕方がなかった時、双葉町の人達の話を聞きに行くと救われました。職場以外に、受け入れてもらえる場所があった。私は映画作りをしながら、ずいぶん助けてもらってきたなあと思うのです。
 今や誰もが動画を作れる時代になりました。小学生の夢が、ユーチューバー。コロナ禍で、自宅でYouTubeを見まくる人も増えましたが、自分で作ってみたいという人も現れ、動画編集の講座も人気のようです。
 まずは3分ビデオ。私も始まりはこれでした。ぜひ、あなたもやってみませんか?


*1 レイバーネット…労働運動にまつわる話題を掲載しているウェブサイト。イギリス、アメリカ、カナダ、オーストラリア、インド、韓国、ドイツ、オーストリア、ラテンアメリカ諸国など各国版があり、日本では2001年に開設された。公式HP:http://www.labornetjp.org/
*2 井戸川克隆…元政治家。福島県双葉郡双葉町の元町長。2001年3月11の東日本大震災と福島第一原発での事故当時、福島第一原発が立地する双葉町の町長であり、住民の県外への避難を導いた(その経緯は、弊社刊『なぜわたしは町民を埼玉に避難させたのか  証言者 前双葉町町長 井戸川克隆』に詳しい)。
*3 レイバー映画祭…レイバーネット(*1参照)が主催して行う映画祭。年に一度行われている。

文:堀切さとみ

著者プロフィール
堀切さとみ
(ほりきり・さとみ)
1965年生まれ。千葉県出身。埼玉県さいたま市の小学校で給食調理員として働く。2008年に市民メディア講座МdeiRを受講し、祝島や障害者のショートムービーを作った。2011年3月11日の福島第一原発事故をうけて、埼玉県に避難した双葉町の人達を取材し『原発の町を追われて』シリーズを制作している(詳しくは『原発の町を追われて』公式HPを参照)。
Facebook:https://www.facebook.com/satomi.horikiri.1

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