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「イチロー選手が進むべき道、目指すべき場所」

「小松さん、僕は50歳まで現役でプレーします」

 26歳のイチロー選手がそう言ったとき、私はさして驚かなかった。彼が野球場でプレーし続けることを、どれほど楽しんでいるか、知っていたからだった。

「僕は監督には向きませんよ。指導者は無理です。だから、ずっと現役がいい」

 私が頷くと、彼はこう続けた。

「50歳でプロ野球選手なんて、常識では考えられないかもしれませんが、僕は想像できるんです。その年になって、自分がプレーしている姿を」

 私は嬉しくなり、彼の肩をぽんと叩いた。

「できます、イチローさんなら!!」

 目前のスーパースターは、少し照れて、少年のように笑った。

「人が笑おうが、自分の信じた道を行きます。それが僕に出来ることのすべてだから」

 ぶれずに、ただ突き進む。

 そう宣言したイチロー選手が眩しく、私は込み上げる熱い思いを抑えられなかった。
 
 つまり、この会話が交わされたのは今から17年前の2000年の春。
 
 イチロー選手がまだオリックス・ブルーウエイブの選手だった頃。
 
 そして、それから数ヶ月後、さらなる驚愕の事実が判明する。彼が「50歳で現役」を目指す舞台が、日本球界ではなく、MLB(Major League Baseball)だったことが分かるのだ。

 同年10月12日、彼が記者会見でポスティングシステムを利用してのメジャーリーグ挑戦の意向を表明した。

 私は、記者会見をするイチロー選手を、まるで宇宙へ飛び立つ宇宙飛行士のようだと思い、見つめていた。

「50歳までプレーする。現役であり続ける」

 そのイチロー選手の言葉は、つまり、メジャー挑戦への狼煙だった。


 2000年のシーズン、開幕戦から4番打者を任されたイチロー選手は、夏まで絶好調で、 102試合目には3割9分の途轍もない高打率を残していた。8月の末、ファウルボールを打った時に右の脇腹を痛めて戦列を離れると、残りゲームでもレギュラー出場は叶わなかったが、彼は治療の最中、人生を分ける大きな決断をしていた。

「ポスティングシステムという制度を使ってメジャーリーグへ行こうと思っています」
 
 2000年の初夏、イチロー選手からそう聞いた時に、私はついに時刻(とき)が来たか、と思っていた。

 1995年、野茂英雄選手が近鉄バッファローズからロサンゼルス・ドジャーズへと移籍を遂げて以来、実力ある投手たちはこぞってメジャーリーグへの移籍を叶えていた。
 
 ローテーション入りした日本人投手は、ある者は先発として、ある者は中継ぎとして、ある者はクローザーとしてボールパークを沸かせることになる。日本人ピッチャーの投球と配球がどれほど素晴らしいものなのかと見せつけた。
  
 けれど、野手は、まだ誰一人としてメジャーへの移籍を遂げてはいなかった。
 
 大谷翔平がいない当時、100マイル(160キロ)のスピードボールを体現できる選手は、日本には存在しない。メジャーリーグには、ランディ・ジョンソンを筆頭に、大きな体躯を武器にしたスピードスターたちがマウンドにい立っていた。
 
 メジャーへの挑戦を宣言したイチロー選手は、私にこう言った。

「野茂さんやそれに続いた投手陣が、素晴らしいピッチングで日本の野球の質を証明してくれました。今度は、バッティングでもフィールディングでも走塁でも、日本の野球がメジャーを超えられることを証明したいんです」

 イチロー選手の瞳は、きらりと光っていた。

「160キロのボールなんて、日本人バッターには打てない、無謀だ、と言う人が球界の中にもたくさんいます。でも、僕はそう思わない。やれる、と思うんです」

 2000年11月、日本人初となるポスティングシステムによる独占交渉権をシアトル・マリナーズが獲得。3年契約で合意し、2000年11月30日に正式契約を結ぶと、イチロー選手は、日本人野手として初のメジャーリーガーとなった。


 シアトル・マリナーズの一員としてアリゾナでキャンプするイチロー選手に、私は連日、インタビューしていた。

 その最後、私はこう彼に聞かずにはいられなかった。

「今、イチローさんは28歳。メジャーリーガーとなって開幕を待つ今も、50歳まで現役でいる、いたい、と思っていますか」

 下を向いたイチロー選手は、ふっと息を吐いて笑い、やがてアリゾナの真っ青なソナに顔を向けていた。

 「たくさんの慎重論、反対もある中、僕はメジャーでの挑戦を選びました。実際、160キロのボールをヒットにすることができるかどうか、分かりません。まったく打てずに1年で、いや、シーズンの途中で、AAAやAAに落ちてしまうかも知れません。このメジャーでやっていけない、無理だと思ったその時には、僕は潔く引退します。日本球界へ逃げ帰るつもりはありませんよ」
 
 静かな彼の言葉には熱があった。

 「でも、メジャーでもなんとかやっていける、と思えたら、50歳までやりたいです。一日でも長く、このアメリカでボールゲームを続けていたいです」



 その言葉を耳にした日から16年が過ぎた。
 
 イチロー選手は、10月22日に44歳になる。現在、MLBの最年長選手だ。

  所属チームも、シアトル・マリナーズ→ニューヨーク・ヤンキース→マイアミ・マーリンズと移っている。
 
 彼の決意が、まだあの日のままなら、私たちはイチローというメジャーリーガーのプレーをあと、6年は目にすることが出来る。 

 50歳のイチロー選手のユニフォーム姿は、想像に難くない。体力も体形もその柔軟さも、彼はありとあらゆる方法で維持するだろう。いや、向上させてくるかもしれない。
 
 私は、思う。
 
 前人未踏の道を行く彼は、今、50歳を越えてプレーする自分を想像している、と。
 
 背番号51の進化に、年齢の壁はない。




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