見出し画像

こうの史代が描く女性像をめぐってー檜垣立哉の試論への違和感ー

Note投稿2つめ。ミュージカル「この世界の片隅に」を観てきたことについては、先に少し書いた。もう一度、別のキャストでの公演も観にいくことにしたので、あらためて原作マンガを読み直すことにした。さらに、買ったままあまり読んでなかったムック本『ユリイカ』2016年11月号(特集・こうの史代)も開いてみた。

このユリイカを開いて読んだのが、檜垣立哉「『長い道』から『夕凪の街 桜の国』へーこうの史代試論ー」(前掲書)。「こうの史代試論」とはすごいサブタイトル。

こうの史代の描く女性像について檜垣は、次のようにいう。

こうの史代の描く主人公すべてに共通するものがある。それは女性ではあるが性の匂いがない、ということである。

檜垣立哉「『長い道』から『夕凪の街 桜の国』へーこうの史代試論ー」(『ユリイカ』第48巻第11号、2016年、青土社、p.123)

え?どこを読んだら/見たら、そんな解釈になるの?これが率直な印象。彼は、竹宮恵子や萩尾望都が「男性同性愛に偽しつつ、女性が性を露骨に描くことが可能となる時代を切り拓いた」(同前、p.124)ことと比べて、こうのはセックスのシーンを直接描かない。そこに注目したようだ。

……こうの史代の描く女性たちには、ほぼ性がない。性がないということは、もちろん一面では性があることを強く示唆するものであるが、逆をいえば彼女は、竹宮や萩尾の世代の女性漫画家がその世代的テーマとしていた「セックスを描くことにより切り拓かれるコミュニケーションの可能性」をまったく信じていないようにみえる。

檜垣立哉「『長い道』から『夕凪の街 桜の国』へーこうの史代試論ー」(『ユリイカ』第48巻第11号、2016年、青土社、p.124)

こうのがセックスのシーンを直接的に描こうとしてないというのは、確かにそうかもしれん。しかし、そうだとして、こうのが描く女性には「性がない」「性の匂いがない」と言いきれるのが、よくわからない。たとえば、『この世界の片隅で』の、哲とすずが納屋で過ごした一夜を彼はどう読むのだろうか。このシーンを見ても「性の匂いがない」などというつもりなのだろうか。

『長い道』の道と『この世界の片隅に』のすず。いずれの主人公にも、結婚する前に恋愛感情を抱いていた相手があり、その相手は、主人公がその人とは別の人と結婚したあとも登場する。こうのは、そういう相手を登場させることで、主人公である女性を描く。そこで、道やすずが、過去のものになったとは言えないような感情を過去のものとし、結婚した相手との人生を選ぼうとするあたりのの描き方。こうのは、ここで何をどう描こうとしたのか。もっと「こうの史代論」として論ずべきテーマはあるように思う。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?