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史跡探訪[その1]:御願塚古墳とその陪塚跡(兵庫県伊丹市)

暇すぎて死にそうな人だけ読んでください。

兵庫県伊丹市の御願塚古墳に行ってきました。

外観、西側から撮影。ツツジが綺麗に咲いていました。

御願塚古墳

古墳時代中期(5世紀後半)に造られた帆立貝式古墳。塚口古墳群のひとつです。
孝徳天皇陵墓という伝承があったそうですが現在は否定されており、猪名部[いなべ]と呼ばれる渡来人の首長の墓ではないかと考えられています。

孝徳天皇は難波長柄豊碕宮で没していることから陵墓が西摂にあるという伝承は少し無理があるのでは?と感じたのですが、日本書紀には孝徳天皇が有馬へ行幸したとの記録があり、恐らくその時にこの近辺を通ったことから伝承が生まれたのではないかと想像されます。いややっぱり無理がないか…?
でもまぁ、やっぱり天皇が通ったというのは当時の人からしてもよっぽど嬉しいことだったんでしょうね。

猪名部とは新羅の木工技術集団であり、猪名川下流域に居住させられたことから名付けられたのではないかと考えられています。この猪名部、下に辿っていくと物部氏に繋がるらしく面白そうなので今度調べてみます。

御願塚古墳は帆立貝式と呼ばれる形をしており、円墳と前方後円墳の間をとったようなものです。由来も「円墳に造り出しが付いたもの」と「前方後円墳の前方部が小さくなったもの」の両方がありますが、塚口古墳群の多くが前方後円墳であること、くびれ部分に造り出しがあることなどから御願塚古墳は後者であると考えられます。
周囲は堀に囲まれており、農業用水としても利用されていたようです。

探訪時には水は干上がっていましたが、写真のような社付きのいかだがいくつかありました。

墳項には南神社があります。1681年創建とされており、孝徳天皇を祭神としているそうです。お前ら本当に孝徳天皇大好きだな。
古墳には神社があることが多いですよね。伝承の有無に関わらず、“なんか知らんけどおっきい塚”は信仰や畏怖の対象となったのでしょう。

どうでもいいことですが、noteって画像を縦にできないんですね。見にくいですね、ごめんなさい。

「御願塚主墳」と記されており、群であることが示されています。
御願塚という名前の由来もこの主墳と陪塚4基の“五ヶ塚”からとされています。

県道336号線を挟んで向かい側には行基像があります。像の背には社も構えられています。
行基は伊丹と非常に縁のある人物で、伊丹市の至る所に行基の功績が残されています。行基は昆陽池の造営にあたって御願塚で開耕の完遂の祈願したとされる伝承が残っており、恐らくその関係で像が建てられたと考えられます。

陪塚跡

先に書いた通り、御願塚は主墳の他に4つの陪塚[ばいちょう]から成ります。これらの陪塚は宅地造成のために全て破壊され、現在は跡地として石碑が建つのみとなっています。

温塚[ぬくめづか]跡です。主墳より東南350mの地点にあります。大手前大学いたみ稲野キャンパスの門の前にあります。

ツカザキとの地名の表記。住所では無いのですが、周辺にアパート名として「塚崎」があるようです。いずれにしても塚がこの周辺で身近な存在であることが窺えます。

満塚[みちづか]跡です。主墳より北北東300mの地点にあります。交差点の隅にあります。

掛塚[かかりづか]跡は少なくとも2年前までは民家の塀にプレートとしてあったようなのですが、今日(2020/4/29)確認したところ塀ごと取り壊されており新しい民家が建っていました。まだプレートが残されていた頃に訪れていた方のブログがありましたのでそちらを紹介します。https://mawarisute.blog.fc2.com/blog-entry-1135.html
その他にも1件のみではありますがアパートの名前にも掛塚が残されており、わずかながらも地名として残っていることを確認しました。

破塚[やぶれづか]跡については現時点までの調査で地名が残されていないこと、主墳から離れており場所の特定が困難であることなどから調査を断念しました。出来ればまた調査を進めようと考えています。

とりあえず“その1”と銘打ちましたが次回以降は全く未定です。気が向いたらやる程度に考えています…。

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