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コレクターってなにがしたいんだろう

みなさんこんにちは、朕です。

突然ですが、あなたはコレクターですか?
一概にコレクターと言っても色々なジャンルがありますよね。古くからコレクションの対象となっているものしては硬貨や切手、標本などが挙げられますが、近年ではレコードや模型など、所謂“オタク”と呼ばれる人たちもコレクターと定義できるでしょう。
まあ、今も昔もオタクはオタクだった、と言ってしまってもいいかもしれません。いつの時代も何かに熱中した人がいるものです。

「収集」という行為は動物の本能的な習性でもありますが、生きることに余裕を持ち始めた人類はそれを芸術や学問へと発展させていきます。これらの分野では収集された資料は非常に重要であり、紀元前7世紀には著作、文献の収集のための図書館の存在があったとされています。これらの収集品は人類に様々な発見をもたらし、科学の進歩に大きく貢献したと言えますね。
そして今日における「コレクション」に近い意味での収集の歴史も深く、ヘレニズム時代には権力者や学者などが美術品の収集を行っていたとされています。その後はルネサンス等を経て私的なコレクションの文化は広がり続け、近代の博物館、美術館の基礎になっています。

日本で最初のコレクターと言えるのは足利義政ではないでしょうか。義政公は東山御物と呼ばれるコレクションを所蔵しており、それらの功績からか安土桃山時代の茶人から「茶の湯の祖」と崇敬されていたそうです。
その後の日本では空前の茶の湯ブームが巻き起こり、大陸から渡ってきた品物は多くの茶人を魅了し国内で多くの窯が生まれ国風の美術として発展し、自らの趣向として、また外交・内政の切り札としても活躍することとなりました。この時代は日本の美術史の中でも最もきらびやかであった時代のひとつであり、織田信長の安土城、豊臣秀吉の黄金の茶室に代表されるような豪華絢爛な趣向が一世を風靡した一方で、それと同時にそれらへのアンチとしても捉えられる千利休の大成した侘が美意識として同居しており、それらが共に評価されていた時代はとんでもないものであったと想像されます。
この時代の“茶の湯オタク”はその多くが武士であり、自分の最高のコレクションである釜を渡したくが無い故にその釜に爆薬を詰めてもろとも爆死する、恩賞として茶器を所望したが結局貰ったのは領地(すごく広い)ですごくしょげた、などといった逸話が残されているように、その溢れんばかりの血の気をコレクションにつぎ込んでいたと考えるとその熱量がうかがえます。これらの茶人が遺したコレクションは桃山文化を代表する美術品として今も色褪せることなく輝きを放っています。詳細は下の歴史書を参照してください。これを読まずして何がコレクターであるか、といった歴史書です。

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とは言えこの時代までのコレクターはあくまで暇なお金持ちの道楽でしかありません。庶民がコレクションを楽しむようになるのは19世紀以降ではないでしょうか。庶民の生活が豊かになり、生きるための活動以外の時間の余裕が生まれたからでしょう。それまで貴族の嗜みであった“オタク”が庶民の嗜みにもなったのです。そのジャンルは多岐に渡り、それまでの学術的価値のある収集だけではなく、「俺の興味関心のあるものをひたすらに集める。意味?そんなの俺が楽しいからだろ!!!」といった類のコレクターが生まれたのもこの頃だと言えるでしょう。人間ってのは生活に余裕が出来るとオタクになります。



と、ここまでが前置きです。

コレクションってなんのためにあるの?

そんな私もご多分に漏れずコレクターなオタクです。今まで買った雑誌やCD、グッズ等はほとんど捨てることはなく、実家の部屋には本棚には到底入りきらない量のコレクションがあります。しかしどうやらそれらが全部捨てられることになったそうです。
詳しいことは省きますが、理不尽な理由で自分のコレクションを手離さなくてはいけなくなったとき、オタクは何を思うのでしょうか。これまでの人生で何よりも没頭し、そして散財して手に入れたコレクションです。コレクションはオタクのもうひとつの身体です。自分の身体のように、またはそれ以上に丁寧に扱い、愛で、守ります。そこにはこれまでの人生を投影しているのかもしれません。コレクションは生きた証、コレクションは走馬灯です。妻にコレクションを売られたオタクは自分を売られたと感じるので闘いますし、エーミールは“僕”に自分を壊されたと感じたので“僕”を軽蔑し、“僕”は自らの手で自分を壊したことで自己嫌悪に陥りコレクションとの決別をします。
これらはコレクションを愛でるオタクの行動として実に理にかなっています。コレクションはオタクの心の支えとなり、オタクはコレクションを守ります。これをオタクの集団的自衛と言います()

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しかし、私はなぜかそこまでの激しい感情を覚えることはありませんでした。

コレクションのプライスレス性

エーミールはなぜ、“僕”に対してあれ程までの感情表現をしたのでしょうか。そこにはエーミールのクジャクヤママユが持つ「プライスレス性」が大きく影響を与えているのではないでしょうか。

先程から例に挙げているエーミールなる人物、ピンと来てる人も多いでしょう。ほとんどの国民が読んだであろう国民的トラウマ小説、ヘルマン・ヘッセの「少年の日の思い出」ですが、細かい内容まで覚えてる人は多くはないでしょうから少し内容を復習します。


“僕”とエーミールは蝶のコレクションに情熱を燃やすオタクであり、“僕”が熱烈に欲していたクジャクヤママユをエーミールが蛹からかえしたという噂を聞いた“僕”は誘惑に負けてクジャクヤママユを盗む。“僕”は良心と不安から戻そうとするがクジャクヤママユはポケットの中で潰れており、エーミールに罪の告白をしたが冷淡な軽蔑を返され、“僕”は自分のコレクションを全て潰した。


…とざっくりこんな感じの話なのですが、オタク諸氏はどこがこのおはなしのキモであると感じますか?

このおはなしではエーミールが自分のコレクションを汚されたので怒っている、というだけではちょっと浅いのではないでしょうか。
ここで重要になってくるのがこのクジャクヤママユが他の何にも代えられない価値を有していたということです。
このクジャクヤママユという蝶、いやこれ多分蛾なんじゃないかな、私はその辺のオタクではないので詳しくは分かりませんが、「エーミールが羽化させたらしい」が町の蝶オタクキッズの間で噂になるくらいなのでよっぽどレアであることが窺えます。「自らの手元で羽化させた」ことが「虫網で捕まえた」ことよりも価値あることであるというのはオタク諸氏にとって理解しやすいものであると考えますが、この点がエーミールにとってこのクジャクヤママユが特別なコレクションとなった理由であると想像されます。これが例えば他のコモン蝶であったとしてもエーミールは怒ったでしょうが、このクジャクヤママユのそれには及ばない感情であると想像されます。

私の話に戻しましょう。私はコレクションを廃棄されると聞いたとき、不思議と激しい感情が込み上げてきませんでした。もちろん全く感じなかったわけでは無いですが、「ふーんまあそういうこともあるでしょ」という気持ちになったのは自分のコレクションに「プライスレス性」が無かったからではないでしょうか。でしょうか、って言われても知らねーよって感じですよね。
飛び飛びの週刊ベースボール、全巻揃っているマキバオー、へうげもの、もやしもんなどの漫画たち、とにかく片っ端から買い漁ったカープの本、狂ったように買いまくったラブライブ、ガルパン、ナナシスのCDやらBlu-rayやらグッズやら。どれもこれも必死に買って最高に愛で続けた私のコレクションなのですが、全てお金で代替することが出来るのです。いやもちろん、新品を購入して自らの手垢しかついていないコレクションにしか無い価値というものもありますし、それが自分にとって何物にも代えがたいものであるとも感じているのですが、それを「エーミールのクジャクヤママユ」と比較したときに到底及ばないものであるとも感じました。
果たして自分にとっての「クジャクヤママユ」とは一体どんなものなんだろうか、恥ずかしながら今の私には全く想像もつかず、オタクを自称する者として忸怩たる思いであります。エーミールは弱冠12,3歳でしょう。今の私より10歳も若いです。そして“僕”もその年齢にしてプライスレス性に触れることで自分を恥じています。果たして私にそんな経験があっただろうか。およそ10年前に彼らと同じ年齢でこのおはなしを読んだ私は何を感じたのだろうか。私は自分のオタク道を決める分かれ道に立っているのかもしれません。

かと言って、私のコレクションの生殺与奪の権を好きにして良いとは一言も言っていないからな、糞親父。

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