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ありのままでいいの?

よく「ありのままの自分を受け入れましょう」とか「ありのままの自分を好きになりましょう」みたいな事を言う人を見かけます。

もしかしたら自分に自信が持てない人は、この言葉に勇気づけられたりするのかもしれません。

たしかにある意味では正しいと思います。この世に生まれてきただけで奇跡ですし、誰もが素晴らしい能力を持って生まれてきたはずなので、自分の中に秘められた能力を信じるという意味でもその言葉はアリだと思います。

ただ、何も考えずこの言葉に共感してしまうのは少し危険な気がします。

パッと見ポジティブで自己肯定感を高めてくれそうな言葉に見えますが、そう思っている時点で現状の自分が満たされていないわけで。

その満たされていない(問題を抱えている)状態をそのまま受け入れて肯定的に捉えましょうっていうのはおかしい気がするんですが、あなたはどう感じますか?

ありのままの自分を受け入れてしまったら

現状の自分を改善することもなく、ありのままを受け入れてしまったらどうなるでしょう。それはもう自己否定と変わらないかもしれませんね。

現状の自分に妥協してしまったら成長どころか退化していくしかないですから。

「ありのまま」の意味をはき違えると「何も考えない人」「言われたことを深く考えず受け入れる人」になってしまいます。

ちょっと危険なスピリチュアル系のエサにならないためにも、抽象度の高いモノの見方を養いたいところですね。

「ありのままの自分」との向き合いかた

「ありのままの自分」を受け入れることをあえて定義するなら僕的には「現在地の把握」だと思います。

こうなりたいと思っている「理想の状態」は誰にでもありますよね?

ただ、現状の「ありのままの自分」を俯瞰して見たとき、「理想の状態」とかけ離れている事に気づきます。

「現在地の把握」とは、この状態を認識して受け入れることです。現在地を認識することによって、「在るべき姿」「現状」の差に気づきます。

その乖離が「認知的不協和」を起こし、その差を埋めようと無意識は働きはじめます。

言い換えれば目標を達成するために「すべきこと」「足りないもの」が浮き彫りになり、それを補うためのアクションが見えてくるわけです。

気持ち悪さ、違和感は、正しく「ゴール設定」ができた時に必ず出てきます。居心地のいいコンフォートゾーンから外れたわけなので。

自分の能力を信じるのはゴール設定をしてから

ゴール設定をせずに自己能力の自己評価(エフィカシー)を高めてしまうとどうなるか。

ゴールがない(曖昧な)状態で「俺は何でもできるんだ」って勘違いしてしまうと行動が伴わないことがあります。

「やればできるようになる」ことを「すでにできている」と錯覚してしまうので結果が出ることはありません。

これは馬の口の中にニンジンを突っ込んだのと同じで「もう食べれてるから走らない」という現象が起こってしまいます。

なので、いつもの如く「ゴール設定」をして「現在地の把握」をし、在るべき姿との差を詰めていく。

ゴールを達成している自分からの逆算ですね。「ゴールを達成している自分なら現状でこれぐらいできてないとおかしいでしょ!」って。

もし「ありのままの自分を受け入れましょう」と言われたら「現在地の把握」に置き換えて、ゴール達成に必要なアクションを休むことなく淡々とこなしていきましょう。






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