胸を張って「クリード世代」 と言おう 『クリード 炎の宿敵』


思えば2015年、『クリード チャンプを継ぐ男』(以下『クリード1』)が公開されるとなってから映画ファン界隈は体感的にお祭り騒ぎだった。でも俺は何故そこまで熱狂するのかが分からなかった。ロッキーシリーズを観ていなかったからだ。熱狂についていきたいと思った意識の高過ぎる俺は、ロッキーシリーズを全部レンタルして観た。ハッキリ言ってハマらなかった。恐らく「学習感」が脳内にあったのだろう。(酒を飲みながらだったのもある)そして、映画館で『クリード1』を観た。そうか、これか...この熱狂か。家に帰り、まだ返していなかったそれをもう一度貪るように観た。若かりしロッキーが、若かりしシルヴェスター・スタローンがそこに居た。映画館で観た老いたロッキーはエイドリアンの墓の前で新聞を読んでいた。その哀愁の意味がわかった。大きい背中にロッキーの人生があった。勿論主人公はアドニス・クリード。でもこの作品はロッキー、スタローンの人生の物語であり、ロッキーに熱中した人々の作品なのだ。

そして2019年、今年の映画初めはこの作品と決めていた。

『CREED Ⅱ/クリード 炎の宿敵』

『クリード1』が、ロッキーに熱中し、ロッキーを愛した人々の物語だったとしたら、『クリード2』は「クリード世代」つまり、クリードに熱中した人々も楽しめる物語だ。
しかし、まだまだ「クリード世代」は少ない。マジで少ない。ロッキーシリーズを観た方が楽しめるのは勿論で、今作は『ロッキー4』の続編と言う声も多い。だが、俺は『クリード1』だけを観て今作を観るのも全然アリだと思っている。ロッキーファンからは反感を買いそうだが、あらすじを知っておけばついていける。しかも30年以上も前の映画、よっぽどの映画好きじゃないと観ないだろう。映画としての考え方も古典的だ。だからこそ『クリード』はロッキーシリーズの物語、そして魂を引き継ぎながら「今」に寄り添った物語なのだ。こんなよくわからない文章『クリード』を観ずに読んでいる人は確実に居ないと思うが、もし機会があったら観てみてほしい。

以下ネタバレあり。

・何を受け継いで、どうやって生きていくのか。

アドニス・クリードに家族が出来た。
プロポーズは、真面目で、育ちが良くて、優しい、そんな彼らしいものになった。アドニスはシャワールームから出たビアンカにプロポーズをする。

「Will You Marry Me?」

しかし、進行性難聴のビアンカは補聴器をつけていなかったので聞こえない。(こういう失敗をしてしまうのもアドニスらしい)ひざまずいて指輪を持つアドニスを見てビアンカは扉を閉めてしまう。それでもビアンカは「なんて言ったの?」と聞く。
この一連の流れが好きだった。二度プロポーズする流れは『ロッキー2』のロッキーもそうだった。プロポーズだからと言って劇的なものにはならないし、ビアンカが理解した上でもう一度聞かなければ失敗していたかもしれない。それでも2人は夫婦になった。そして、子供も授かった。

ビアンカ「どうしよう...私たち親になれるのかな...?」
アドニス「...良い親になろう」

親となる2人はある心配をしていた。それは「難聴が遺伝するかもしれない」ということ。これ、個人的にこの映画のテーマに繋がると思っている。
子供が生まれ耳の検査をすると難聴の疑い。その結果を見てアドニスは涙を流し、ビアンカはそれを察し涙した。そんなアドニスを見てロッキーは言う。

「彼女は自分を憐れんでなどいない。しっかりしろ。」

親から受け継いだもの、遺伝したもの、才能も、負の遺産も、宝物も、財産も、病気も、肌の色も、障害も。結局人生ってそれらと向き合い「自分」というものを探す場所なのだ。
『クリード2』で俺が受け取ったメッセージはそこだ。何を受け継いで、どうやって生きていくのか。


『クリード1』で、アドニスはアポロから名前を受け継いだ。ボクサーとしての素質も確実に受け継いでいる。そんな彼がリング上で「自分」というものを証明した。
そして今作、チャンピオンとなったアドニスの前に現れたのは、父親アポロを殺めたイワン・ドラゴとその息子ヴィクターだった。


・ドラゴ親子の物語

今作の裏の主人公は彼らだ。

機械のような人間だったイワン・ドラゴと、その血を、魂を受け継ぐヴィクター。
まず冒頭、オープニング前、彼らの日常みたいなものが映る。その表情一つをとっても内に秘める熱量を感じる。そして『ロッキー』シリーズは勿論『クリード1』でも名シーンとなったフィラデルフィア美術館のステップから街を眺めるシーン。今作では彼らが「そこ」に居た。国の駒として戦い人生をそこに費やしてきたのにも関わらず、ロッキーに負けた後は妻に逃げられ国を追い出され言葉では表せきれないような壮絶な過去を背負うであろうイワン・ドラゴとその怒りと執念を具現化したような存在であるヴィクターが「そこ」に居たのだ。
反則負けするもアドニスをボコボコにしたヴィクターは、ロシア内で期待される存在となり、高官との晩餐会に参加した。この晩餐会は自分を捨てた国、妻が参加するというイワンにとって「屈辱的」なものだった。そこでヴィクターはかつての親を見て怒って出て行ってしまう。そこで父親イワンは言う。

「俺は負けたんだ」
「でもお前はちがう」
「お前は勝った」

俺はてっきり、イワンの成せなかった怒りや復讐の思いを息子に強制させているものだと思っていた。勿論始まりはそうだったのかもしれない。ロッキーに負けて全てを失ったイワン。でも「俺とお前は違う。お前は俺のようにはなるな。耐えろ。」そんなことを息子に言っているのだと感じた。負けてないんだから終わってない。イワンは息子ヴィクターの「その先」を見てるのだ。

その思いが反映したのがアドニスとの2戦目。1戦目とは戦い方も精神面も違うアドニスに押されるヴィクター。弱点のボディを狙うも不屈の精神力で立ち上がるアドニス。それを見ていたかつての妻は見限って会場を出て行ってしまう。それを見たイワンとヴィクターの何かを悟った表情。ヴィクターもボロボロの状態で戦おうとするが、イワンのとった行動はかつてロッキーが出来なかった「タオルを投げる」という行為だった。
イワン、ヴィクターが戦う理由は「証明」だったのかもしれない。俺らはまだやれる。失うものはない。そんな気持ちだ。
しかし、かつてリング上で死んだ男と息子を重ね合わせた瞬間、「失うものはない」そんなものは間違いだったことに彼は気づいたと考える。命を失ってはいけない。それは勝利も敗北も関係無い。
ロッキーは友達としてアポロの意思を尊重した。イワンは息子の命を守った。そんな2人が見つめあうシーン。「タオルを投げる」それだけの行為だけれど、ロッキー、イワン。彼らの後悔が交差するような、2人の人生を抱きしめるような、そんな優しい場面だった。俺はあのシーンを思い出すだけで涙が止まらない。まるで人生賛歌だ。

何を受け継いで、どうやって生きていくのか。
ヴィクターは決して、イワンの道具という関係で戦っていたんじゃない、と確信した。父親を尊敬するからこその捨てた国や母親への復讐心、認めさせたいという気持ち。イワンの思いを受け継ぎながら、地に足ついて戦っていたのだ。

どの物語もそうだが、俺はいわゆる敵役に心を描かない作品があまり好きでは無い。勧善懲悪のためだけに、脚本を進めるだけに描かれたヒール。だからこそ社会派映画やそういうのを考えなくていいホラー要素の強い作品が好きなのだが、『ロッキー4』のドラゴはそう見えてしまった。心が無いヒール。しかし、今作でそれが覆った。これはイワン・ドラゴの物語でもあったのだ。

前述したように、今作はドラゴ親子の物語が非常に強い。しかし、だからと言ってアドニス・クリードの物語が浅いわけでは無い。


アポロの声はもう聴こえない

娘が出来るもボクサーとして、チャンピオンとして、父親として不甲斐なさを感じていたアドニスは小さい我が子を連れてアポロのデザインが窓に施されたあのジムに行った。娘を前に自分の弱さを晒しだすアドニスに俺は涙が止まらなかった。父親というものを知らない彼が見せた背中。

「ごめんな、駄目な父親で」

娘に語りかけたその言葉のあと、アポロのデザインが映る。アポロが言いたかった言葉であり、それを息子アドニスが我が子に語った。

アドニスにはビアンカが、娘が居る。アポロの声はもう聴こえない。アドニスは一人ではないのだから。
ヴィクターとの2戦目。『クリード1』では父親アポロだったダウンした時のアドニスの心の拠り所が、今作ではビアンカだったのだ。

「立て」

彼を強くさせたのはアポロでありロッキーであり「家族」の存在。アポロの名前やボクサーとしての素質を受け継ぎながら彼は「アドニス・クリード」としてリング上に立ったのだ。


親と子

ラスト。アドニスがアポロの墓の前でビアンカと娘を見せる。孫の姿を見せる。アドニスは父親の表情だった。そしてイワンはヴィクターの横を走る。タオルを投げたあの瞬間、彼は父親になったのかもしれない。勿論ずっと父親だが違う意味の父親。
そしてロッキーは会えなかった息子の家を尋ねていた。息子と抱き合い孫を見せる。

泣けるじゃないか。こうやって人は繋がり、魂は受け継がれていくのだ。

何を受け継いで、どうやって生きていくのか。
血としての親もそうだが、アドニスはロッキーを友人、師、そして父親的に接している。血すらも超えて人は何かを受け継ぐことが出来る。俺は親から何を受け継いだんだろう。全く思いつかない。思いつかないことも贅沢なのかもしれない。でも、もう少し大人になったら何か残せるような人になりたい。

『クリード 炎の宿敵』自分の中でかなり重要な作品になった気がする。子供が出来たらこの作品を一緒に観たい。何年後だ?というか出来るのか?ロッキーからだったら古典も古典だな、なんて思ったり。どうでもいいか。


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