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格闘技の強さも、全て運だという話

あなたは、YouTuberを見ていて、一攫千金、ネオリベラリスト、自己啓発的な喋り方、自己責任論者というか、なんかギラギラしていて嫌だなあと思うことってありませんか。
フォロワーを増やすことに必死で、前のめりな喋り方で、嫌になっちゃうようなことがありませんか。
そんな時にこの動画を見てほしいんです。

"バルク主義"は正義か? - マイケル・サンデルとフィル・ヒース【筋トレ与太話#1】

これは、Sho Fitnessという筋トレ系YouTuberが、政治哲学者であるマイケル・サンデルの著書を引用しながら、自己責任論、能力主義を批判している動画です。
「能力主義は最後のステルス差別である」
と言っています。
昨年、大批判されたメンタリストDaigo氏について、と思われることにも言及されています。ぜひこの動画を見てください。

私はブラジリアン柔術家として、長年いろいろな格闘家、格闘技関係者を見てきましたが、その中には、能力至上主義者、自己責任論者が非常に多いと感じてきました。
結論から言うと、その自己責任論的な考え方は間違っていると思います。

ブラジリアン柔術の世界では、強い人、大会で優勝した人、帯が上の人(レベルに応じて、白、青、紫、茶、黒の順番で帯の色が上がっていきます。黒帯になるまでに多くの人が7〜10年以上かかります。帯は多くの場合、指導員、道場代表から授与されます。)が無条件で尊敬されますが、私はあまりそういうことを思ったことがありません。
強かったり、試合に勝ったり、帯が上がったりすることは、運の要素がとても大きいと昔から思っているからです。
私が茶帯までなったのも、たまたまです。

インストラクターをしている、あるブラジリアン柔術家が、
「会社員しながら柔術をするような楽な道を選ばないで、ブラジリアン柔術だけに専念している自分はすごい」
みたいな発言をしているのを聞いたことがあります。
それはおかしいと思います。
実際その人は強いので格闘技界隈から尊敬されているのですが、私は、柔術以外の仕事をしながら柔術を続けている人の方がすごいと思いますよ。
そりゃあ、柔術だけやってたら強くなるでしょう。でも、みんながみんな、そうしたくてもできないのが現状なのです。
そういう、運の要素があるのだから、強いから偉い、ということは決して言えないと思います。
ということを、Sho Fitnessさんも動画の中で言ってるのですよね。

「僕みたいなトレーニングを仕事にしているような人がハードにトレーニングするのは当たり前で、普通にしっかり働きながらトレーニングしている人の方が、僕は根性があると思います」

そう言い切ってしまうSho Fitnessさんはかっこいいなと思います。

実際、ブラジリアン柔術に限らず、何のスポーツでもそうですが、障害のあるなし、家庭環境の違い、生まれ持ったものの違い、生活環境の違い、といったものは大きく関係してきます。

私は17年くらいブラジリアン柔術をやっていますが、まだ茶帯です。
私より遅く柔術を始めた人でも、続々と黒帯になっています。
ブラジリアン柔術の黒帯は、平均で7年〜10年でなれると言われています。
私は平均より遅いですよね。でも、私はみんなよりも劣っているとか、そういうことは考えません。運、だと思ってます。
私より長くやっている人でも、まだ茶帯になれていない人もいると思います。
私はその人が私よりも劣っているとは思いません。それも、運、だからです。

「努力、努力、努力」
と努力礼賛、努力でどうにかなる、という考えはいかがなものかと思います。
努力ではどうにもならないことがあるのだから、
「努力すれば必ず報われる」
という社会は、しんどいと思いますよ。
私は、努力は報われないこともある、運の要素が大きい、と考える社会の方が生きやすいんじゃないかな、と思います。

さて、少し話題の方向を変えます。

Pulmoさんという方がご自身の起こした裁判について語っている記事の中でも言っていますが、私たちは、「たまたま」、弁護士に自分の身に起こっていることを伝えたり、文章を作成したりするスキルがあったから、または、諸々のタイミングが良かったから、裁判を起こすことができました。

“しかし、外注する費用を準備できない人、専門的なスキルがない人や、テープ起こしやフォーマットに合わせたテキストデータの作成をする機材を持っていない人、頼る先が見つからなかった人は、どうするのでしょうか……。

多くは、泣き寝入りを強いられているのではないでしょうか。
私は、そんな現状を変えていきたいのです。”

これは、本当に運なのです。裁判までたどり着くには、努力でどうなるものでもないところがあります。
私やPulmoさんが、たまたま裁判まで辿り着けたのは、運なのです(もちろん、裁判が始まるというのはただのスタートラインで、そこから判決、または和解まではとても長い道のりがあり、そこにも運が絡んできますので、全然安心できません)。

何が言いたいかというと、私たちのように、裁判まで辿り着けなくて、泣き寝入りを強いられている方々が無数にいることは問題だ、ということなのです。
それは不平等です。
誰もが、自由に、もっと楽に裁判を起こすことができるような社会にしていくべきなのです。

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