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紫陽花の眠る海で

 初夏を聴く姉を想いながら、夜風が洗う紫陽花の葉擦れに彼女は耳を傾けます。波音に思えました。蒸気機関車に連結された客車で本を整えます。彼女が生まれるまえに退いた汽車は国鉄から無償で貸し出されて、町の広い公園で小さな図書館になりました。本を読み聞かせていた子どもたちも帰り、彼女はひとり司書の仕事を終え、海色のビロードの長椅子へ座ります。本棚から一冊の本を手にとりました。
 姉さんは許してくれるだろうか。考えると表紙さえ開く気にはなれません。再び子どもの手が届かないところへと本を戻します。一ヶ月半まえ、彼女が司書として採用された日に姉が贈ってくれた本でした。点字図書や音訳図書ではない本を姉は初めて買ったはずです。彼女は椅子へ深く座りました。窓外から波の音が聴こえる気がします。何冊も絵本の読み聞かせをして疲れました。彼女は眠りに沈みます。

 雨打つ紫陽花を聴きつつ、ひとさし指で本をなぞる女の子。誕生日に紫陽花柄の栞をねだるほど、その時を愛した姉の後ろ姿でした。謝ろうと彼女が肩へ伸ばした手は届かず、代わりにまえの席の背もたれに触れました。彼女は目をさまします。座席や本棚が揺れていました。潮の香りに、響く汽笛。窓の外には海原が広がっていました。水面をどこまでも紫陽花が覆います。汽車は夜の海を駆けていました。
 青色の紫陽花は波を染め、紫色の紫陽花は月明かりに冴え、白色の紫陽花は暗い海を照らし、桃色の紫陽花は星影を宿します。数えきれない点字のうえを姉の指が走ったように、紫陽花の海のうえを汽車は滑ります。紫陽花の一本一本に姉の姿を想います。窓辺に座って、雨音を聴く姉。なにより本が好きで、司書になりたいと話していた姉。いつでも手助けが要り、彼女よりも両親の愛を深く受けていた姉。

 機関車が吐く煙は夜空へ昇り、黒い雲を生みます。何度も彼女が親から言われたことばと似た色でした。あなたは恵まれているから。彼女は吐きそうになります。私も見えなければよかった、という繰り返し飲み込んできた想いを。せめて、姉の叶わなかった夢を盗み、姉よりも幸せになろうと願った過去を。暗い雲から一滴、二滴と温かい雨が落ちます。降り注ぐ雨は、海に浮かぶ紫陽花を奏で始めました。
 姉さんは汚い妹を許してくれるだろうか。彼女は雨粒を拭います。汽車のたてる轟音がにわかに遠のきました。凪いだ空気にやさしく伝わる紫陽花の雨音。彼女はまた手を伸ばします。姉の肩には届かなかった指さきが、姉がくれた本の背表紙に触れました。本棚から抜きだして膝に置きます。彼女が頁を繰ると、本の中ほどが開きました。彼女はひとさし指でなぞります。夢半ばに挟まれた紫陽花柄の栞を。






ショートショート No.401

photo by Kosuke Komaki

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