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イチゴシロップ駅にて

 舞うイチゴ。そう題した絵を彼女は今でも四つ折りにして手帳へ挟んでいます。五月とは思えない冷たい風に白い溜め息を流して手帳を鞄にしまい、彼女は足早に駅へ向かっていました。休日の夕どきだというのに会社から呼び出されたのです。校了となったはずのイラストを明日までに直せという電話でした。初夏であるにもかかわらず、雪さえ降りはじめます。急いで家を出たので、傘も持っていません。
 人とはちがう毎日を送りたくて絵を描く仕事に就いたはずが、やっていることは幼いころに思い浮かべていた「普通のサラリーマン」と変わらず、人に頭を下げ、愛想笑いをして、納期に追われる日々。かき氷のシロップみたい。彼女は苦笑いをします。香料と着色料がちがうだけで、原材料は人と変わらない暮らし。雪で肩を濡らして彼女は駅に着きます。定期券を忘れたことに気づき、仕方なく券売機へ。

 イチゴ。メロン。ブルーハワイ。駅名の代わりにカタカナが表示されています。会社はとなり駅だからもっとも安い切符を選べばよいだろうと彼女はイチゴを選びました。イチゴ柄の切符で改札を通ると雪で電車が遅れています。休日だからか、ホームに人影はまばらでした。ベンチに座ると彼女は鞄から手帳をとり出します。冷たい風になびく頁をおさえ、彼女は「舞うイチゴ」が描かれた紙を広げました。
 子どものころ、弟が台所でこぼしたイチゴ味のかき氷を描いた彼女の絵でした。人とはちがうものの見かたを褒められ、中学校の絵画コンクールで表彰された作品です。絵が淡く濡れました。雪のせいだけではありません。泣く弟と半ぶんこして食べたかき氷の味を彼女は思い出せませんでした。凍える風が吹き、絵が飛ばされかけます。手でおさえましたが、代わりに滑り出たイチゴ柄の切符が、舞います。

 舞い上がる切符は低く垂れ込める厚い雲に溶けました。彼女は肩を落とします。ふたたび絵を鞄へしまって、彼女は乗りたくもない電車を待ちます。もっと大きな風が吹いて自分もどこかへ飛んでいければと思いました。下を向きます。ホームにこびりついた黒いガムが彼女の影を汚していました。ふいに、駅の構内放送が耳に入ります。「黄色い線の内側で、上を向いて、大きく口を開け、お待ちください」
 見上げると夕焼けを帯びたように雪がほのかな赤色に染まっていました。イチゴ柄の切符を飲み込んだ白い空に赤い雪が映えます。幼い弟が重いハンドルを回してつくった、あの日のイチゴ味のかき氷が街へと舞い降りているように思えました。ほかの味とは香料と着色料がちがうだけの、ごく普通のイチゴシロップのかき氷。彼女は暗いベンチから立ち上がり、黄色い線の内側で、上を向いて、大きく口を。

 





ショートショート No.400

photo by Kosuke Komaki

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