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雨夜の金魚すくい

 咳をしても金魚。三十九度八分の熱が溶かす雨の深夜に彼女はひとりきりです。誰も助けてくれません。彼女がしぼりだす浅い溜め息が枕もとの読書灯に色づき、金色の像を結んだかと思うと、天井へ向かって泳いで消えました。幻が見えるほど追い込まれているとは気づきもせず、彼女はここ数週間早朝から深夜まで働いて、ひとりで食べていくためのお金を稼いでいたのです。溜め息からまた現れる金魚。
 母だけに育てられた彼女は、母を苦しめた貧しさという沼から抜け出すために、誰よりもまじめに働いてきました。幸い大学を出ていないことが出世に関わらない会社に就職した彼女は若くして責任のある立場を任せられます。田舎にいる母への仕送りを少しでも増やせればと、彼女は知り合いがひとりもいない都会で誰の力も借りずに過ごしてきました。溺れているような息苦しさに気づかないふりをして。

 窓についた雨粒が橙色の読書灯に照らされて彼女の涙のなかで淡くにじみます。子どものころ、母と行った雨夜の縁日の提灯の明かりを思い出しました。かき氷に綿あめ、射的にお面。人いきれがする屋台の間を、母と手をつないで歩きました。いくつかある金魚すくいのお店のなかで、もっとも安いところを選び、水色の縁のポイを彼女は握りしめます。一回だけという約束だから、指には力が入りました。
 色とりどりの提灯の光に金魚がたてる小さな波がきらめきます。太鼓の音を運ぶ夜風が彼女の火照った頬を冷やしてくれました。母の温かいまなざしを背中に感じながら、彼女は深呼吸をします。ポイで金魚をすくっても、薄い紙は破れません。浮かぶボールへ入れるまえに彼女はわざと金魚を逃しました。金魚を買う余裕さえないことを彼女は知っていたのです。金魚がいなくても、幸せに過ごせることも。

 お金さえあれば母を実家において上京せずに済み、お金さえあれば母は娘を進学させられなかったことを悔やまず、お金さえあればやはり金魚を飼うことができていたかもしれない。水底に淀む泥のような想いがいくえにも胸の奥へ沈み、彼女は息継ぎも忘れて日々を泳いできました。最後に母に電話をしたのはいつだったか、思い出せません。彼女はまた咳をしました。透明な金色の金魚が、宙を泳ぎます。
 震える手を伸ばし、彼女は読書灯のスイッチを探しました。でも、指さきにふれたのは金魚の影が映り込んだ仕事用の携帯電話です。彼女は熱のせいにして深夜に電話をかけました。起きていたと優しいうそをつく母の声が耳に流れます。仕事で風邪をこじらせたと彼女は咳き込みました。娘を想う温かい溜め息が、通話口から漏れます。生まれた二匹の金魚は並んで雨夜に溶けました。手を繋ぐようにして。

 





ショートショート No.399

photo by Kosuke Komaki

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