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また月面でスキップを

 月の耳をもつ人は、職に就きにくい。彼女はかつて田舎の父が話していた言葉を思い出しながら、深夜一時半を回った人気ひとけのない道を歩きます。彼女の白くて長いウサギによく似た耳に当たった夜風は、五月も終わるとは思えない冷たさでした。誰より早く準備をしていたのに、誰より遅く内定が決まった彼女は、休みが少なく残業が多い会社で、苦しい日々を駆けていました。今宵も、終電を逃したのです。
 かつて「付け耳」と呼ばれ、彼女の祖先たちは蔑まれてきました。数十年まえにその呼び名が世に禁じられてから今日まで「月耳つきじ」の名が使われています。でも、彼女は月の耳をもつ人への偏見を、嫌になるほど感じてきました。月耳は独りではいられない。月耳は臆病者だ。月耳はニンジンさえ食べさせておけば機嫌がいい。幼い頃、スキップが好きだった彼女の足取りは、下らない偏見で重くなりました。

 通りかかったタクシーを彼女は止めます。制帽を目深に被った運転手が女性で、彼女は安心しました。気が緩み、ふいに涙があふれます。子どもの頃から、泣けば目が赤くなってまた馬鹿にされるからと、ずっと我慢してきた涙でした。行き先を告げなくてはと思うものの声が震えます。運転手さんはルームミラー越しに彼女の耳を見て、何も言わず待ってくれました。差し出された白いハンカチを借ります。
 本当は独りでいることが好きで、誰にも話せなかった胸のうちを、彼女は運転手さんに話しました。臆病ではなく、子どもの頃に田舎で崖から川へ飛び込むくらい勇気があったこと。ニンジンは好きでも嫌いでもないこと。もう何年もスキップをしていないこと。行き先さえ伝え忘れて語る言葉を、運転手さんは一度も遮らず、耳を傾けて頷いてくれました。運転手さんは深く被った帽子を脱ぎます。月の耳。

 車窓から柔らかく注ぐ月色が、凛と立つ運転手さんの右耳を銀色に照らします。ルームミラー越しに運転手さんも話してくれました。独りでいるのが好きだから、個人タクシー業を営んでいること。制帽を被っていれば客から舐められないこと。自分もニンジンは好きでも嫌いでもないこと。話を聞いて、彼女は久しぶりに笑いました。運転手さんが薄く窓を開けます。涙で湿った空気が、夜空へ消えました。
 耳を貸さなくていい。運転手さんは言います。私らは耳がいいからどうしても、しょうもない言葉まで拾ってしまうけれど、代わりに自分の心の声をよく聴きな。そのためのいい耳だ。彼女は赤い目を白いハンカチで拭います。運転手さんは続けます。さあ、遅くなるから行こう、お客さんどこまで? 彼女は車窓から夜空を見上げて言います。月まで。運転手さんも笑います。今夜は、ひとっ跳びしようか。






ショートショート No.402

※本作はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません

photo by Kosuke Komaki

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