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国立国際美術館 特別展「古代メキシコ ーマヤ、アステカ、テオティワカン」(その2)~展覧会#53~


古代メキシコ展について

国立国際美術館 特別展「古代メキシコ ーマヤ、アステカ、テオティワカン」、前回の続きになります。
本展は次のような構成になっていました。

▼第一章 古代メキシコへのいざない
▼第二章 テオティワカン 神々の都
▼第三章 マヤ 都市国家の興亡
▼第四章 アステカ テノチティトランの大神殿

第一章と第二章の紹介は、(その1)「展覧会#52」です。


メソアメリカに興亡した文明

「メソアメリカ」とは、南北アメリカの中間地帯のこと。この地で最初期に成立したのがオルメカ文明だった。紀元前1500年ごろにメキシコ湾岸の密林に誕生したようだが、はっきりとその存在がわかるのは前1200年ごろからである。その後のメソアメリカ文明の母体となったことから、「母なる文明」と呼ばれる。
オルメカは、大神殿や巨石人頭像などの巨大な石造建造物を残しているが、前400年ごろ、突如として終焉を迎えることとなる。その真相はいまだ謎に包まれたままである。

テオティワカン文明は、紀元前100年ごろからメキシコ中央高原で繁栄した古代文明で、「太陽のピラミッド」や「月のピラミッド」「羽毛の蛇ピラミッド」などの建造物が整然と配置された宗教都市を建設した。生贄の儀式が盛んで、神への捧げ者としての生贄も大量に発見されている。人口20万人の大都市に発展するが、6世紀を過ぎたころ衰退し消滅していった。
この後、テオティワカンにかわってメキシコ中央高原に成立したのがトルテカ文明だった。


第三章 マヤ 都市国家の興亡

マヤ文明は、現在のユカタン半島を中心にメキシコ、グアテマラなどの地域に、長期にわたって繁栄した文明である。その始まりは紀元前2000年ごろとも言われるが、1世紀ごろには碑文や王墓を伴う王朝が成立した。さらに250年ごろからは、ピラミッドなどの公共建築や集団祭祀、精緻な暦や文字などを持つ都市文化が発展した。
しかし、3000年以上も続いたマヤ文明も、コロンブスによるアメリカ大陸発見からはじまるスペインの侵略を受け、ほとんどの都市国家が1500年代に征服されるに及んで、1697年には滅亡の時を迎えた。


Ⅰ 世界観と知識

〈吹き矢を使う狩人の土器・セイバの土器〉
 マヤ文明
(600~830年)

セイバは、地下世界と地上世界・天上界をつなぐ神聖な木


〈夜空を描いた土器・星の記号の土器〉
 マヤ文明
(600~830年)


〈金星周期と太陽暦を表す石彫〉 マヤ文明
(800~1000年)

左側が金星の周期、右側が太陽暦の年を表す


〈トニナ石彫159〉 マヤ文明
(799年頃)

トニナの王8(名称不詳)に捕らえられたポモイの捕虜の像


Ⅱ マヤ世界に生きた人々

〈支配者層の土偶〉マヤ文明(600~950年)

大きな祭祀の際の服装をする王ないしは高位の男性像


〈貴婦人の土偶・織物をする女性の土偶〉
 マヤ文明
(600~950年)


〈道化の土偶・捕虜かシャーマンの土偶〉
 マヤ文明
(600~950年)


〈鹿狩りの皿〉 マヤ文明(600~700年)


Ⅲ 都市の交流 交易と戦争

〈円筒形土器〉マヤ文明(600~850年)


〈道標〉マヤ文明
(600~800年)

バレンケの中心部と周辺の町をつなぐ道が開通した記念の石彫


〈首飾り〉マヤ文明
(250~1100年)


〈猿の神とカカオの土器蓋〉マヤ文明
(600~950年)

カカオは飲料のほか通貨にも使われる重要な交易品だった


〈トニナ石彫153〉マヤ文明
(708~721年)


〈トニナ石彫171〉マヤ文明
(727年頃)

球技の場面を描いた石彫。左がカラクムルの王、右がトニナの王である。


〈書記の石板〉マヤ文明
(725年頃)

儀式を行う捕虜か、捕虜のような姿で儀式を行う神官と思われる


Ⅳ パカル王と赤の女王 パレンケの黄金時代

今回の展覧会のクライマックスは、洗練された彫刻や建築と碑文の多さで知られる都市パレンケに関する展示だろう。戦争と外交で周辺地域に影響力を持ったパカル王は、王宮を拡大し、マヤ地域でもっとも壮麗な建築物を築いた。
このパカル王の遺体が置かれた碑文の神殿の隣にある13号神殿で、1994年、真っ赤な辰砂しんしゃで覆われた女性の遺体が発見された。この女性は、パカル王の妃であった可能性が高く、「赤の女王」と呼ばれている。孔雀石で作られた《赤の女王のマスク》や頭飾り、胸飾りなど、豪勢な埋葬品がすばらしい。


〈96文字の石板〉マヤ文明
(783年)

歴代の王の即位が記されている


〈パカル王とみられる男性頭部像(複製)〉
 マヤ文明
(620~683年頃)


〈デュペの石板〉マヤ文明
(654年頃)

王宮南部の「地下の建物」が完成したことを記録したもの


〈太陽の神殿の北の石板〉マヤ文明
(692年)

中央の戦士はパカル王の息子か。トニナに勝利した祝いの祭礼の姿と考えられる。


〈香炉台〉マヤ文明
(680~800年)


〈赤の女王の図〉マヤ文明
(バレンケ)


〈赤の女王〉マヤ文明
(7世紀後半)


Ⅴ チチェン・イツァ マヤ北部の国際都市

チチェン・イツァとはマヤ語で「聖なる泉のほとりの水の魔法使い」を意味する。ユカタン半島の密林で発見された古代都市である。最も有名なのは町の中心にある「ククルカンのピラミッド」だ。密林の中には多数の「セノーテ」と呼ばれる泉があり、マヤ人にとって貴重な水源となっている。

〈チチェン・イツァのアトランティス像・トゥーラのアトランティス像〉
 マヤ文明
(900~1100年)

両手をあげて王座を支えるアトランティス像


〈チャクモール像〉マヤ文明
(900~1100年)
チャクモール(Chacmool)とは、仰向けの状態で肘をつくような姿勢で上半身を起こして、顔を90度横へ向け、両手で腹部の上に皿や鉢のような容器をかかえて膝を折り曲げている人物像のことをいう。

腹の上に皿のようなものがあり、そこに捧げ物を置いたという。
人身供犠の犠牲者から取り出された心臓が置かれた可能性もある。


〈モザイク円盤〉マヤ文明
(900~1000年)

戦士が腰の後ろにつけた鏡の飾り



国立国際美術館 特別展「古代メキシコ ーマヤ、アステカ、テオティワカン」(その2)について、ここでひとまず筆をおきます。
当初は、残りの第三章・第四章を紹介するつもりでしたが、第三章のマヤ文明だけでもかなりの量になりましたので、第四章は次回(その3)に回します。

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