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大阪市の神社と狛犬 ⑮浪速区 ⑧敷津松之宮(その2)~大国主神社の鼠像~

大阪市浪速区の地図と神社

大阪市には、現在24の行政区があります。浪速区は上町台地の西側、大阪市のほぼ中央に位置します。区の面積は4.39㎢で、大阪市で最も狭い行政区です。区名は、王仁が詠んだと伝えられる古歌「難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花」からとられました。
浪速区は、長い歴史をもつ「大阪木津卸売市場」や「でんでんタウン」など市内でも有数の商業地域として発展してきました。また、大阪のシンボルといわれる「通天閣」がある新世界など、庶民の町として親しまれています。

浪速区には、神社庁に加盟する神社が4社ありますが、これら以外にも少なくとも5社が確認できます。
敷津松之宮は、前回の難波八阪神社から南へ500mほどの地に鎮座します。大阪メトロ「大国町」駅からは北へ100mほどで、国道26号線に面しています。
敷津松之宮の正面鳥居は境内の南側にあり、その正面が社殿です。一方、国道26号線に面した東側にも鳥居があり、こちらは境内社の大国主神社の正面になります。大国主神社は「大国町」という地名の由来にもなっていて、摂社でありながら、本社よりも有名です。
神社庁への宗教法人としての登録名は「敷津松之宮」で、前回はその敷津松之宮についてお話ししました。

今回は敷津松之宮の境内社である大国主神社(日出大国社)です。


大国主神社(日出大国社)

■所在地 〒556-0015 大阪市浪速区敷津西1-2-12
■主祭神 大国主命
■由緒  延享元年(1744)、神託が降りたとのことで、出雲大社より大国主命が勧請され、敷津松之宮境内に社殿を造営し、摂社として大国主神社が創建された。大国主命は素盞嗚尊の六世の孫に当たり、国津神の代表的な神である。
ヒンドゥー教のシヴァ神の化身マハーカーラ(Mahākāla)が仏教の中に取り入れられ、大黒天となるが、「だいこく」が「大国」に通じるため、大国主命と習合した。大黒天は七福神の一柱で、大阪では、大国主神社の「大国さん」は今宮戎神社の「えべっさん」と並んで、「木津の大国さん」と呼ばれて親しまれている。

木津の大国さん


鼠像

■奉献年 昭和五十九年甲子歳吉辰
■作者  不明 
■材質  花崗岩
■設置  拝殿前

大国主神社拝殿と鼠像

大国主神社の拝殿前には、狛犬ではなく一対の鼠像がある。鼠は大国主命の「神使」だが、大阪ではこの神社だけで、とても珍しいものだ。

大国主命と鼠の結びつきは、『古事記』などの次の説話による。

大国主命は、素盞嗚尊の娘である須勢理毘売スセリヒメと結婚するために、素盞嗚尊に許しをもらいに行ったところ、様々な試練を命じられた。
第1日目は蛇のいる部屋、2日目は蜂や百足のいる部屋で寝かせられたが、二夜とも姫の機転で難を切り抜けることが出来た。3日目には広い野原に射放った鏑矢かぶらやを拾って来ることを命ぜられるが、大国主命がその矢を取りに行くと、素盞嗚尊は野に火を放った。瞬く間に火に囲まれた大国主命は行き場を失ってしまう。そこへ一匹の鼠が現れて、「内はほらほら、外はすぶすぶ(内部はうつろで、外部はすぼんでいる)」と言うので、大国主命がそこを踏むと、地下は空洞になっていて、洞穴に落ち込んだ。火はやがて焼け過ぎていった。さらにその鼠は、鏑矢かぶらやをくわえて大国主命のもとに持ってきてくれた。
こうして大国主命は、鼠の助けを得て素盞嗚尊に矢を渡すことができた。

一方、本来はインドのヒンドゥー教の神であった「大黒天」と鼠はどんな関係があるのだろうか。中国で仏教に取り込まれた大黒天は、本来の破壊神や戦闘神の性格は失われ、もっぱら厨房神や財福神として信仰されるようになる。表情も、憤怒の形相から円満なものへとかわっていく。
鼠は、食物を食い荒らす動物であるが、多産なことや宝物をもたらす民話などから、五穀豊穣、子孫繁栄、商売繁盛とも結びついていく。また「大黒天」の「黒」は北方を表し、十二支の「」も同じく北を示す。

鼠が「大国主命」・「大黒天」の神使になったのは、以上のような理由からである。

大国主神社前の鼠像
大国主神社前の鼠像
大国主神社前の鼠像(阿形)
大国主神社前の鼠像(吽形)

この一対の鼠像が奉献されたのは「昭和五十九年甲子歳」、すなわち1984年甲子の年である。
この鼠像はなかなか面白い。互いに向かい合って立ち、顔を少し参拝者側に向けている。向かって右の鼠は顔を上げて、口をわずかに開けて歯を見せる。左の鼠は口を閉じている。獅子・狛犬と同様に阿吽の形をとる。
阿形鼠は体の前の大きな米俵に前肢をかけ、吽形鼠は小槌を前肢で大事そうに持っている。尻尾は体に巻き付くようにして前方まで伸びる。

七福神の大黒天は、左肩に袋を担ぎ、右手に福槌を持ち、米俵の上に立つ姿で表されること多いが、この鼠像はそれを受け継いでいる。社殿の中には、像高2mほどの日出大国神像が祀られている。


木津勘助之像

かつて、この付近は木津村という大きな村であった。「木津」の名称は、当地がまだ海浜だった頃、四天王寺建立のための材木を荷揚げした津であったという伝承に由来する。また、海浜地帯の総称とされる「敷津」からの転とも言われる。大国主神社が「木津の大国さん」と呼ばれているのは、古い地名の名残であろう。
敷津松之宮の境内の一角に、木津勘助の銅像がある。

木津勘助之像
木津勘助之像

木津勘助は、本名中村勘助といい、豊臣家の家臣であった。木津川の開削に大きく貢献したことから木津勘助と言った。堤防工事や新田開拓に尽くし、現在の大正区や浪速区の開発に貢献した。江戸時代の古地図を見ると、「勘助島」という地名が記されている。また、この敷津松之宮のある浪速区敷津西の辺りは、かつては「勘助町」と呼ばれていた。

木津勘助は、このように大阪の発展に貢献した人物だった。寛永16年(1639)の大飢饉の際は、人々のために大坂城の備蓄米の放出を願い出たが聞き入れられず、私財を投げうって村人に分け与えた。しかしそれでは足りず、ついに幕府の米蔵を無断で開放した。この「お蔵破り」の罪で、勘助は捕らえられて死罪を申し渡される。その後、葦島(現在の大正区)に流されて、万治3年(1660)75歳で亡くなったという。

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