見出し画像

大阪市の神社と狛犬 ➊東淀川区③大隅神社~狛犬5兄弟~

大阪市東淀川区の地図と神社

大阪市には、現在24の行政区があります。その中で東淀川区は最北端に位置し、淀川の北側にあたります。
東淀川区には、神社本庁に加盟する7社があります。(地図参照)

大隅神社

■鎮座地 〒533-0011 大阪市東淀川区大桐5-14-81
■主祭神 応神天皇・別雷大神
■由緒  このあたりは、古くは大隅島と呼ばれており、応神天皇の離宮がった。応神天皇崩御の後、里人が宮址に神祠を建て、祭祀したのがこの神社の起源といわれている。後に淀川が氾濫した時に、賀茂明神の御神体が漂着して合祀したという。現在の社名は明治6年から。

拝殿と左右に控える狛犬たち

狛犬5兄弟

明治42年に、近隣の春日神社・厳島神社・松山神社・伊邪那美神社・稲生神社・八幡神社・天満神社が合祀される。昭和19年には、松山神社が旧地に戻る。 平成8年に社殿を改築し、合祀された神社の狛犬が拝殿前にずらりと並んで参拝者を迎えてくれる。

狛犬5兄弟・阿形(参道側から)
狛犬5兄弟・阿形(拝殿側から)
狛犬5兄弟・吽形(参道側から)
狛犬5兄弟・吽形(拝殿側から)

狛犬1(長男)

■奉献年 明和五戊子歳九月吉日(1768) 上辻堂若者中
■石工  不明
■材質  砂岩
■設置  拝殿前(一番奥)

長男・明和5年生まれ(阿形)
長男・明和5年生まれ(吽形)
長男・明和5年生まれ(吽形横顔)
長男・明和5年生まれ(阿形の尾)

5兄弟の長男狛犬で、この中ではいちばん古い。明和5年(1768)の奉納。像高80cmほどの中型狛犬。阿形は右目から耳にかけて補修の跡がある。
吽形はヘルメット型の頭の上に角がある。阿吽とも顔の横に飛び出したような分厚い三角形の耳を持ち、目は丸い。前回の春日神社の明和4年の狛犬と似ている。阿形の尾が複雑。

狛犬2(次男)

■奉献年 天明七未年九月十五日(1787) 江口若中
■石工  不明
■材質  花崗岩
■設置  拝殿前(三番目・真ん中)

次男・天明7年生まれ(阿形)
次男・天明7年生まれ(吽形)
次男・天明7年生まれ(阿形の尾)

5兄弟の次男狛犬。天明7年(1787)の奉納。像高は70cm足らずだが、唯一花崗岩製で、どっしりとしている。吽形の顔立ちは、長男の明和狛犬の延長線上にある。しかし長男の狛犬の歯が四角かったのに対し、こちらは三角のぎざぎざの歯が閉じた口から出ている。阿形がおおらかな表情であるのに比べて、吽形は目の上の線が両眼の間で山形になり、気難しそうに見える。
尾はシンプルな3本立ちで、少しなびく。

狛犬3(三男)

■奉献年 天保二卯年八月吉日(1831) 乳牛牧之庄三宝寺村 引請世話人 
■石工  不明
■材質  砂岩
■設置  拝殿前(奥から二番目)

三男・天保2年生まれ(阿形)
三男・天保2年生まれ(吽形)

5兄弟の三男。天保2年(1831)奉納。文化・文政・天保の時代は、町人の力も増大し、狛犬の奉納数も急増した。その結果、この狛犬の表情に見られるようなタイプの狛犬が多数造られ、浪速狛犬の典型的なスタイルができあがった。
台座の文字「乳牛牧之庄三宝寺村」の「乳牛牧之庄」とは、この附近の古い地名で、かつては牧場があったのだろう。ここには、「大道村、辻堂村、三宝寺村」の三村があった。
この狛犬の台座で、もう一つ面白いのは、「相撲」という文字が大きく彫られていることである。理由はよくわからない。

狛犬4(四男)

■奉献年 嘉永七甲寅年四月吉日(1854) 島頭氏子中 
■石工  不明
■材質  砂岩
■設置  拝殿前(一番手前)

四男・嘉永7年生まれ(阿形)
四男・嘉永7年生まれ(吽形)
四男・嘉永7年生まれ(阿形の尾)

5兄弟の四男。嘉永7年(1854)奉納。幕末の、ちょっと印象薄い顔つきの狛犬です。垂れ耳、丸目、団子鼻。尻尾も手抜きだなあ。

狛犬5(五男)

■奉献年 明治十年丑九月吉日(1877)  
■石工  不明
■材質  砂岩
■設置  拝殿前(手前から二番目)

五男 明治10年生まれ(阿形)
五男 明治10年生まれ(吽形)

5兄弟の五男、末っ子。明治10年(1877)奉納。拝殿前の五対の狛犬の中でもっとも小ぶりだが、顔つきは厳つい。特に阿形は目つきが悪い。もちろん邪悪なものを退散させて神様を守るわけだから、善男善女はこれを怖がる筋合いはない。吽形の口元は、上下2本ずつ牙が見える。頭上はわずかに持ち上がるが、角はない。前掛けで隠れているが、足もたくましい。

境内社・天満宮の狛犬

狛犬5兄弟には、従兄弟がいる。境内社の天満宮前に安置されている狛犬である。

天満宮と狛犬

■奉献年 嘉永五壬子閏二月建之(1852) 当村太良兵衛他 
■石工  不明
■材質  砂岩
■設置  天満宮前

天満宮前 阿形
天満宮前 吽形

嘉永5年(1852)ということは、拝殿前の四男・嘉永7年の狛犬よりわずか2年早生まれというだけだが、両者の顔つきはまったく異なる。この狛犬は「誇張形」と名付けているもので、目がやや横についてつり上がり、耳も後方になびいている。口元はがま口型で、口角も大きい。天保期の終わり頃に登場し、幕末から明治にかけて流行したようだ。

神社合祀政策

大隅神社のように、多数の狛犬が集合しているのには理由がある。それは明治の終わり頃に行われた「神社合祀政策」の結果であった。
明治政府は、一町村一神社の基準を定め、神社の氏子区域と行政区画を一致させることで、町村唯一の神社を地域活動の中心にさせようとした。その結果、大正初めには、それまで約20万社あった神社のうち7万社が取り壊されてしまった。
大隅神社の主祭神は、冒頭で書いたように応神天皇と別雷大神だが、明治42年に、近隣の春日神社・厳島神社・松山神社・伊邪那美神社・稲生神社・八幡神社・天満神社が合祀された結果、それらの神々もお祀りすることになった。
各神社には、神様が祀られていた社殿をはじめ、様々な神宝や古文書や石造物があったはずだが、それらがすべて移管されたかどうかは疑問である。明治初年の廃仏毀釈でも、たくさんの仏教関係のものが廃棄されたり流出したりしたが、この神社合祀の際に失われたものも多くあったにちがいない。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?