2024年9月の俳句
やっと「夜長」になりました
9月の陰暦名は「長月」。語源は「夜長月」だと昨年書いたのを覚えているが、「秋の夜長」というには、まだ少し早いようだ。それでも秋分の日が過ぎ、夜の時間が昼の時間を上回るようになった。
「今年の夏は暑かった」とは、毎年だれもが口にする言葉だが、正確には「今年の夏も」かもしれない。いや、さらに正確に言えば、「今年の夏は特に暑かった」という気持ちがこめられているのだろうか。「は」には、他と区別して強める意味がある。
9月1日に詠んだ句である。西日本を迷走したお騒がせ台風がやっと通り過ぎた日の夕方、今年初めてツクツクボウシの声を聞いた。あれだけ騒がしかったクマゼミは、いつの間にか鳴りを潜めてしまった。
猛暑はいつまでも居座る気配だが、それでも9月には秋らしい行事がいくつもある。その代表は、なんといっても「お月見」だろう。
中秋の名月の2日前の日曜日の午後、孫Mが月見団子を作って持ってきてくれた。月見には早すぎるけれど、「花より団子」「月より団子」である。
翌日の夜、食後に散歩に出た。久しぶりの外出である。足腰が弱っていて、膝から下がふわふわする。十三夜の月が東の空に浮かんでいる。表通りから旧山田村の細い道に入り、光山寺の階段を手すりにつかまりながら登る。虫の声が足元から聞こえる。秋だな、と思う。狭い境内を抜けて竹藪のある反対側の坂道を下ると、再び表通りに出る。この短い散歩に30分を費やす。普通に歩けるようになりたい。
翌17日は中秋の名月だった。満月は明日だそうだが、薄曇りの空に丸い月が昇った。小学生の孫MとSがいっしょに夜の散歩に来てくれる。昨夜よりちょっと遠回りして、妙見宮の祠にお参りする。孫たちに手を引かれたり、おいてきぼりになったりしながら、この日も30分ほど歩く。
19日は「彼岸の入り」だった。「彼岸」とは「此岸」の対義語で、仏教と関連の深い言葉だ。これについては、このnoteに投稿したので、詳しいことは省略する。
さて19日は、近代短歌・俳句の先駆者である正岡子規の命日だった。34歳の若さで亡くなったが、近代文学に与えた影響は大きかった。
辞世の句は、
「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」
「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」
「をとゝひのへちまの水も取らざりき」
このことから、子規の忌日9月19日を「糸瓜忌」と呼んでいる。雅号の一つから「獺祭)忌」ともいう。
自分は入院中の病床生活で、晩年病臥の暮らしを強いられた子規のことを時々思いだした。自分と子規を重ねるなどおこがましいが、『病牀六尺』の制限された生活の中で俳句を詠むことのすごさに感嘆した。
「暑さ寒さも彼岸まで」とはよく言ったものだ。彼岸の入りの日にはまだ暑いと感じていたのに、いつの間にか長袖の上着がほしくなった。
夕方、マンションの中庭に出ると、赤とんぼが目の前を通り過ぎた。今年初めて見る赤とんぼだった。もう秋だな。
涼しくなった夕方に散歩をした日。うす暗くなりかけた畑の隅に白い花が咲いていた。気になって調べると「ハツユキソウ」らしい。白い花のように見えたのは、葉の先が白くなっているからだった。秋に入ったばかりなのに「初雪」とは時期尚早だなと思う一方で、ここでも季節の移り変わりを感じた。
病と共に生きる
9月はちょうど3分の1にあたる10日間を病院で過ごした。5回目の化学療法で5日間の入院のはずだったが、血液検査の結果、白血球が激減し治療に入れなかった。
入院中は毎朝日の出を見る。眠りが浅いので、必ず目が覚める。その一方で、昼間でも睡魔に襲われる。夢の中でもJRの電車や貨物列車の音が聞こえてくる。
9月9日は重陽の節句だった。いちばん大きな陽の数が重なり、長寿や健康を祝い祈る日だ。入院5日目だが、まだ治療に入れない。
白血球数の回復を待って、入院7日目にしてやっと化学療法に入ることができた。この日は9月11日。アメリカで同時多発テロ事件が起きた日だ。ニューヨークのワールドトレードセンターに航空機が激突する映像は、今も脳裏から離れない。
翌日の夕方、久しぶりに雨が降った。これで少しは大気が潤い、気温も下がるだろうか。
9月13日、無事今回の化学療法が終わり、翌14日退院。10日間の入院生活だった。次回は初めて通院による治療に変更する予定だ。
退院からさらに10日が過ぎた。空の雲も変化してきた。あの憎らしいほど力強い入道雲の姿もいつの間にか見なくなった。空が高く見える。そういえば「天高く馬肥ゆる秋」という句があったな。
病気が発症したのが夏の初めだった。いま一つ季節を乗り越えたような気がする。
夜の散歩は続く。
2024年9月も無事に乗り越えられそうです😊
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