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母校創立120周年

記念祝賀会

去る11月5日(土)、私の母校清水谷の創立120周年記念祝賀会がありました。会場はシェラトン都ホテル大阪。300名ぐらいが集まったのではないでしょうか。私たちの学年にも呼びかけて約30名が参加し、教え子たちもたくさん顔を見せてくれました。

祝賀会のあとは、別会場で学年独自の2次会を用意し、45名が集まりました。学年同窓会の準備を始めてから約半年、無事に終わってホッとしています。ちょっと力が抜けて、noteへの投稿も遅くなってしまいました。

祝賀会では、参加者全員に「記念誌」が配布されました。帰宅してから読みましたが、よくできています。表紙は旧職員の國方先生の作品です。このnoteのトップ画像も同じです。
記念誌を見ながら、清水谷と私自身の歴史を少し振り返ってみましょう。

清水谷高等女学校から清水谷高校へ

20世紀最初の年となる西暦1901年(明治34年)、大阪府立第一高等女学校が開校しました。府立第一高女は同年、大阪府立清水谷高等女学校と改称されます。初代校長は大村忠二郎でした。府立第一高女への各界の期待は大きく、大隈重信をはじめ、渋沢栄一、辰野金吾、若槻礼次郎など、錚々たる顔ぶれが講演のために来校しています。

「創立120周年記念記念誌」より

1924年(大正13年)には、前年の関東大震災を受けて、頑丈な旧校舎が建築されます。この校舎は平成の新校舎が完成するまで、約70年間学び舎となりました。
1945年(昭和20年)には大阪大空襲があり、母校でも18名の死傷者が出ました。校舎の一部も焼失しました。

戦後になって新制高等学校が発足します。1948年(昭和23年)には旧制清水谷高等女学校と旧制高津中学校が交流して、男女共学の大阪府立清水谷高等学校の時代が始まります。

清水谷との縁

東京オリンピックの翌年の1965年(昭和40年)、清水谷高校20回生が入学します。私はその中の一生徒でした。入学試験の日は大雪、そして卒業式も雪の日でした。
1965年といえば、清水谷の120年の歴史の中ほどをちょっと過ぎたあたりですね。日本は高度成長期のまっただ中にあり、今思えば、平和でのんきな高校生活でした。しかし卒業して大学に入ってみると、そこでは大学の民主化が叫ばれ、ベトナム戦争や70年安保闘争で、世の中も揺れ動いていました。

大学卒業前、教員採用試験に合格していた私は、一方で学芸員資格をいかせる仕事に就きたいと考えていましたが、母校からお声がかかり、最初の勤務先が清水谷となりました。これが私の教員人生の出発点です。
あの時の23歳の若造は、いつの間にか半世紀も教壇に立ち続けることになりました。自分でもビックリですね。

3年ぶりの同窓会

祝賀会がお開きになった後、会場でカメラマンをしていたY君が、同期の集合写真を撮ってくれました。彼も教え子のひとりです。

この学年が集まるのは、コロナを挟んで3年ぶりでした。会を重ねるたびに、参加者が減っていくのは、寂しいですね。
2次会は Cafe Seeds というお店を借り切って開きました。参加者は45名。肩の凝らないざっくばらんな集まりです。友はみな、変わったような変わらないような・・・。

元気で、友と今ここにいることのできる幸せを感じます。
次回はまた3年後。みなさん、それまでどうぞお達者で。


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