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落語(62)深川浮名浅利飯

まず題名ですが、深川浮名浅利飯(ふかがわうきなのあさりめし)と読みます。ちょっと歌舞伎っぽく(?)してみました。あしからず…。さて、食堂の看板メニューや駅弁などとして販売され、今やすっかり有名になった東京・深川発祥の庶民的料理『深川めし』ーー。現在その名を聞いてパッと思いつくのは、やはり全体にアサリの剥き身をまぶした炊き込みご飯だと思います。しかし、江戸時代にまで遡るそのルーツをたどっていくと、元々はお茶漬けのようにサラサラとやる汁物であったようです。では、いつ誰が現在の炊き込みスタイルを築いたのか?続きは本編で…。

若旦那「(砂浜を見て)わぁ、やっぱり混んでるなぁ。今日は節句だから、みんな休みで汐干狩しおひがりに来てるんだ。(振り返り)おい定吉、この辺りにするぞ」
定吉「(ザルを抱えながら)ちょっと待って下さいよ、若旦那ぁ。まったくもう、あたいにばかり荷物持たせて、自分は手ぶらなんだから」
若旦那「何をぶつぶつ言ってる。ほら、早くしろ。…よし、ご苦労だったな。もう置いていいぞ」
定吉「ああ、重かった。さすがに、こんな大きなザルを二個も抱えて歩いてくるのはキツイや、ふぅー。…いやぁ、しかし若旦那、賑わってますねぇ。すごい人だ」
若旦那「ああ。でも、ほとんどがよそ者だ。みんなこれ、方々から舟に乗ったりして一日がかりでやって来てるんだぜ」
定吉「へえ、一日がかりで。じゃあ、あたいらは、この深川浦が地元でよかったですね」
若旦那「うん。だから今日は地元民として、よそ者にちょいといいところを見せなくちゃいけねぇ」
定吉「ははっ。あたいたち二人で、このザルいっぱいにアサリを取って帰りましょうね。(着物裾を端折はしょって)よーし、採るぞぉ」
若旦那「…お、あそこにいい女がいるなぁ」
定吉「え?」
若旦那「うん、肌も白いし乳もでかいし、それでいて決して太ってるわけでもなけりゃ、痩せぎすってわけでもねぇ。…おい、定吉。お前、ちょいとあの娘に声かけてこい」
定吉「え、あの娘?…声かけろって、何て声かけるんですか?」
若旦那「だからお前、『こんにちはぁ、採れますかぁ?』みたいな感じだよ」
定吉「え?『採れますかぁ?』って、そんなものザル見りゃ、採れてるか採れてないかぐらい分かるじゃないですか」
若旦那「いいんだよ。あくまで話のとっかかりを掴むだけなんだから」
定吉「え?若旦那、今日あたいたちはここに貝を採りに来たんじゃないんですか?それとも、あの女の人に声をかけに来たんですか?」
若旦那「馬鹿、そうじゃないよ。だけどほら、『袖擦り合うも他生の縁』って言うだろ?だから人間は、こういう何気ない出会いを大事にしなきゃいけねぇんだよ」
定吉「え?別にあの女の人、袖なんか擦り合うほど近くにいないじゃないですか。それでも他生の縁があるって言うんですか?」
若旦那「いいんだよ。そういう物理的な距離のことを言ってるんじゃないんだ。心が擦り合ってるかどうか、そこが肝心なんだから」
定吉「へえ、心がねぇ…(立ち上がり)わかりましたよ。声をかけてくればいいんですね?」
若旦那「あ、ちょっとちょっと待て。そしたらな、『よかったら僕たちと一緒に採りませんか?』って、こう言うんだぞ。わかったな?」
定吉「へぇぇぇぇぇぇぇぇい」
若旦那「(見やりながら)うん、定吉を連れてきて正解だったよ。あいつは無邪気だからな。『行け』ったら、すぐに行ってくれる。お、行ったね行ったねぇ。さっそく娘に声をかけてるよ。よしよし、いいぞ。でもって、娘も奴の話を聴いてるよ。…お?今度は娘も何か話し出したよ。『あら、お誘いありがとう。それじゃ、せっかくだからお言葉に甘えちゃおうかしらん』なんて言ってるのかねぇ。お、定吉が戻ってきたよ。さあ、結果はどうだった?…おい、定吉。やっこさん、何だって?」
定吉「へぇ、若旦那。『お誘いは有難いけど、今回はお断りします』ですって」
若旦那「え、駄目だって?なんでまた」
定吉「へ。あすこに停まってる舟でもって、亭主が待ってるそうで」
若旦那「え、あすこの舟?…ああ、あのさっきから男たちが大勢でもって酒盛りしながらドンチャン騒ぎしてる舟か。それじゃ、あの中にあの娘の亭主がいるってわけだな。ちぇっ、人妻か。じゃあ駄目だ。あたしは『切られ与三郎』はまっぴら御免だよ」
定吉「へ?何ですか、その『切られ与三郎』ってのは」
若旦那「え、定吉お前知らないのかい?歌舞伎で人気の演目『与話情浮名横櫛よはなさけうきなのよこぐしだよ」
定吉「え?…世は情け…旅は道連れ?」
若旦那「違うよ、浮名横櫛うきなのよこぐしだよ。これはな、木更津のちょうどこんな汐干狩りの浜でもって、とある男女が互いに一目惚れ…そのまま恋仲になるわけだ。だけどな、実はこの女ってのはヤクザの親分の妾でさ、ある時、二人でもって逢引きしてるところがこの親分にバレちまって、案の定、男の方はそのあと子分たちに取り囲まれて全身めった斬りよ」
定吉「ひえぇ、えげつない…」
若旦那「かてて加えて、そのままむしろ巻きにされて海にドボンだ」
定吉「ひえぇ…そんな話を、わざわざ金払って観に行く奴の気がしれねぇ」
若旦那「ま、あくまで芝居だからな。多少はこんな緩急がねぇと、それはそれで面白くねぇだろ」
定吉「へえ、そういうもんですかねぇ」
若旦那「そういうもんなんだよ。…あ、定吉。なんならお前、今度いちど芝居見物に連れてってやろうか」
定吉「え、本当ですか?」
若旦那「ああ、一度観たらハマっちゃって、今度は逆に仕事が手につかなくなるかもしれねぇけどな」
定吉「えぇ?歌舞伎ってのは、そんなに面白いもんなんですか?」
若旦那「そうよ。だから、その時ついでに一緒に連れていく娘も、今のうちに確保しておかなくちゃならないってわけだ。三人で一緒に一等席でもって、優雅に歌舞伎鑑賞といこうじゃないか。だから、お前には今日はひとつ奮発してもらわなきゃならないんだ。わかったな、定吉」
定吉「へい。若旦那の頼みなら、あたいは一肌でも二肌でも脱ぎますよ」
若旦那「よし、頼もしい奴だ。じゃあ、次はあの娘に声かけてこい」
定吉「え、もう次の獲物を見つけたんですかぁ?ずいぶん早いなぁ。…あ、わかった。若旦那、ひょっとして今日は、始めからアサリじゃなくて“女漁り“が目的だったんだ」
若旦那「ち、違うよ…アサリを採りに来たら、たまたま周りにイイ女がたくさんいたってだけだ。…ほら、いいから早くあの娘に声かけてこいよ。あ、さっき言ったように、くれぐれも事前の身辺調査は忘れるんじゃないぞ」
定吉「へぇぇぇぇぇぇぇぇい」
若旦那「よし、行ったな。今度は大丈夫だろうねぇ。うん、なかなか可愛らしい娘じゃないか。なんかこう、後ろからそっと抱き寄せて守ってあげたくなるような雰囲気だねぇ。うちの下女にはいない部類だよ。うちの下女はみんな、はすっぱだからねぇ。別に守ってあげなくても、一人でどこででも生きていかれるってな奴ばかりだもんね。うーん、見た感じだとあの娘は十六、七ってとこか。さすがに人妻ってことはないだろう。おや、連れがいるのか?同じ歳ぐれぇの娘が一人、二人…じゃあ、今日は女友達三人でもって、ここ深川浦まで汐干狩りに来たってわけだな。よし、これで身辺調査の方もほぼ合格だな。あとは、こちらの誘いに乗ってくれるかどうか。お、なんだか定吉の話に興味深そうに耳を傾けてるよ。こりゃ、まんざらでもねぇか?あ、定吉が戻ってきた。…おい、定吉。どうだった?娘は何だって?」
定吉「へ、『お誘い有難うございます。ぜひよろしくお願いします』と」
若旦那「え、本当かよ!よっしゃあ!(裾を端折はしょり腕まくりしながら)よーし、今日はこの浜にあるアサリ、みんな採っちゃうよ」
定吉「あ、若旦那がようやく貝を採る気になった。ずいぶんと現金なもんだ」
若旦那「なんだと、この野郎」
定吉「いえ、なんでもないです」
若旦那「よし、定吉行くぞ。ザルを持ってこい」
定吉「へぇぇぇぇぇぇぇぇい」

 なんてんで、若旦那の錦之助きんのすけはすっかりナンパに成功いたしましてハッスル、ハッスル。意中の女の子のためにアサリばかりか、ハマグリやカキ、ヒラメに真蛸まだこまで採ってあげまして…まあ、現代なら漁業法違反で捕まっちゃうかもしれませんが…そんなこんなで、すっかり距離も縮まりましたところで、「うちはこの近くで料理屋をやってるから、よかったら寄ってかない?めしでもご馳走するよ」なんてな具合に、女の子たちを両親が経営する料理茶屋『海甚うみじん』へと連れて帰りまして…。

若旦那「さあさ、みんなここに掛けて。でもって、これが品書きだからさ。何でも好きなもの頼んでいいよ」
お月「(品書きを見ながら)えぇ、凄い。高そうなのばっかり」
若旦那「へへ。自慢じゃねぇが、一応うちもこの辺りじゃ五本の指に入るくれぇの名店だからね」
お月「へえ、そうなんですねぇ。お店も広いし、奉公の人も大勢使ってらっしゃるんですね」
若旦那「まあ、二階にも座敷があるんでね。それなりに人手がいねぇと回んねぇんだよ。ちなみに、この定吉はここの下足番。去年の春からうちで丁稚でっちやってんの。でもって、ゆくゆくはあたしがここの大旦那になるんだ」
お月「えぇ、凄い。…(両隣の友人に)ね、お幸ちゃん、お光ちゃん、凄いねぇ」
定吉「ふふ、若旦那。いい感じですね。これは、このまま押せば落とせるんじゃないですか?」
若旦那「しっ、馬鹿。声がでかいんだよっ。…は、はははは。で、お嬢さん方、そろそろ何食べるか決まったかい?」
お月「ええ、悩んだんですけど、せっかくだから何かこう、深川の名物みたいな物が食べてみたいなぁ、なんて」
定吉「え、深川の名物ですか?だったら、アサリですね。ぶっちゃけもう、深川にはアサリしかないですから。深川の人間は、毎日三食アサリばっかり。もう、アサリが主食みたいなもので」
若旦那「こら、定吉。勝手なこと言うんじゃないよ。なにも深川にはアサリしか無いわけじゃねぇだろ。他にも、たとえば鰻とかさ…」
お月「じゃあ、アサリを使ったお食事をいただこうかしら。…ねえ、お幸ちゃん、お光ちゃん。それでいいよね?…そうすると、どんなのがあります?」
定吉「まあ、そうですねぇ。やっぱり、この辺りは漁師町でもありますから、漁師たちがこよなく愛する『アサリのぶっかけ飯』なんてのはいかがでしょうか」
若旦那「おい、定吉。なに勝手に仕切ってんだよ。ぶっかけなんて、あんな物は味も素っ気もねぇ、ただの漁師のまかない飯だぜ。どうせならアサリは味噌汁として出して、飯は飯で何か上等なおかずでもって食べてもらった方がいいじゃねぇか。…ねえ、お月さん?」
お月「じゃあ、その『アサリのぶっかけ飯』とやらをいただこうかしら。漁師さんが好むくらいだから、きっと凄く美味しいに違いないわ」
定吉「よし、きた。じゃあ、さっそく今、板前に作らせますからね。…女将さぁんっ、ぶっかけ五丁お願いしますっ!」
若旦那「だから、なんでお前が仕切るんだよ。…ははは、お月さん、本当にこんな物でいいんですか?全然、遠慮する必要なんかないんですよ」
お月「うぅん、これが食べてみたいんです。だって、定吉さんがこんなにお薦めするくらいなんですもの」
定吉「えへ。深川のことなら、あたいに何でも訊いて下さいね」
若旦那「なんでお前が深川の顔を気取ってんだよ。…へへへへへ。お月さん、こいつは田舎から出てきて、まだ一年しか深川に住んでねぇですから。その点、あたしは生まれも育ちもずっと深川ですからね。深川のことは、このあたしに訊いて下さい」
お月「あら、そうなんですね。あたしたちは浅草だから、普段なかなか深川まで来る機会ってなくて。だから、今日はとても新鮮なんです。皆さん、親切な方ばかりだし」
若旦那「でしょう?深川っていい所なんですよ。将来的に腰を据えて長く暮らしていくことを考えたら、深川は絶対にお勧めですよ」
定吉「お、ついに若旦那が本格的に嫁取り態勢に入ったぞ。ふふっ、こりゃ見ものだ」
若旦那「なに笑ってんだよ、この野郎っ(肘でつつく)。…あ、もう出来たみたいですよ」
女将「あいよ、お待たせ。深川名物のぶっかけだよ(配膳する)」
お月「わあ、美味しそう。…うーん、いい香り」
定吉「これはね、こうやって熱いうちに、フーッ、フーッ、一気にかき込んで食べるんですよ。ガッガッガッガッガッ(かき込む)」
若旦那「こら、下品な食べ方するんじゃないよ。…ははははは。すいません、お見苦しいところをお見せしまして。ささ、どうぞ皆さん、熱いうちに食べて下さい」
お月「はい。じゃあ、お言葉に甘えて。いただきまーす。…(食べて)…うん、ああ、美味しい」
若旦那「でしょう?旨いでしょう?これが深川のぶっかけ飯ですよ(自分も食べる)」
お月「なんかこう、口の中に磯の香りがふわぁっと広がって、とても懐かしいというか、温かい気持ちになります」
若旦那「でしょう、でしょう?これが『海の恵み』ってやつですよ」
お月「えー、いいなぁ。錦之助さんも定吉さんも、普段からこんなに美味しいもの食べてるんですねぇ」
若旦那「気に入っていただけました?あたしもね、このアサリのぶっかけ飯が一番の好物なんですよ。もう鰻とか鯛とか、あんな気取った物よりも断然アサリのぶっかけ。これが一番簡単で旨いんです」
定吉「あ、さっきと言ってることが全然違う。さっきは『あんな物は味も素っ気もない』なんて言ってたくせに」
若旦那「うるさいんだよ、お前はっ。…へへへへ」

 なーんて、すっかり”お見合い”の席は上手くいきましたようで。それから晴れて、若旦那の錦之助とお月は、結婚を前提としたお付き合いをすることとなりました。さて、そうなりますてぇと、やはり彼女の方の両親にも一度は挨拶をしておかなきゃならないってんで、ハラハラドキドキしながら先方の家へと出掛けていくわけですが…。

お月「お父つぁん、おっ母さん、改めて紹介するわ。こちらが錦之助さん。ほら、少し前にあたし、お幸ちゃんやお光ちゃんと汐干狩りに行ったでしょ。その時に知り合って、それからとても良くしてもらってるの。…(小声で)ほら、錦之助さん」
若旦那「え…は、初めまして。ふ…深川の料理茶屋のせがれで、錦之助と申します。お月さんとはこの三月みつきばかり、おかげさまでとても親しくさせていただいております(お辞儀)。…あのぅ、これつまらない物ですが…(粗品を差し出す)」
母親「あらぁ、あなたが錦之助さん。かねがね、お月から話は聞いてましたのよ。とてもいい人だって。まあ、わざわざご丁寧に。じゃ、有難く頂戴しますね…(受け取って)…ほら、あんた、頂いたよ」
父親「錦之助さんって言ったか?」
若旦那「あ、はいっ」
父親「おたく、うちのお月と汐干狩りで知り合ったってぇけど、いってぇあんなだだっ広い浜でもって、どういう経緯で知り合ったんでぇ?」
若旦那「あ、いや、あの、それはですね…その何と言いますか、あたくしの方がお月さんにお声掛けを致しまして…」
父親「あん?声掛け?いってぇ、何て声を掛けたんでぇ」
若旦那「あ、いや、そのぉ…『採れますか?』という風に…」
父親「『採れますか?』ったって、そんなもんザル見りゃ分かんじゃねぇか」
若旦那「いや、まあ、そうなんですけど…で、あまり採れていないようにお見受けしましたので、でしたら、あたくしがお手伝いしましょうということで、お手伝いさせていただきました」
父親「お手伝いさせていただきましたって、うちのお月がおたくに一言でも『手伝ってくれ』って頼んだのかい?」
若旦那「いえ、そういうわけでは…」
父親「じゃあ、なにかい?おたくが一方的にお月に近寄ってって、一緒に貝拾いを始めたってぇのかい?ずいぶん図々しい奴だねぇ」
お月「ちょっと、お父つぁん。なにもそんな言い方しなくても。錦之助さんが親切にしてくれたおかげで、あたしたちもたくさん貝を採ることが出来たんだから。ほら、あの晩お父つぁんが『旨い旨い』って食べてたヒラメがあったでしょう?あれだって錦之助さんが採ってくれたのよ」
母親「ああ、あのヒラメおいしかったわぁ。まさか汐干狩りであんな上等な物が採れるなんてねぇ。あら、そう。あれはあなたが採ってくれたのね」
若旦那「いえ、ガキの時分から暮らしてますと、あの辺りの浜は庭みたいなもんですからね。だから、どこに何が潜んでるかってのは、だいたい勘で分かるんですよ」
父親「俺はあのヒラメはお月が採ったもんだと思ってるから食ったんであって、別におたくに『採ってくれ』なんて一言も頼んだ覚えはねぇよ」
母親「ちょいと、あんたさぁ、別にいいじゃないか。なんであれ、こっちはおいしくいただいたんだからさ。…錦之助さん、その節はどうもご馳走様でした」
若旦那「いえいえ、とんでもないです」
父親「別にあのヒラメだって貝だって、おたくに採られるために生きてきたわけじゃねぇんだ。あいつらにだって両親や兄弟や、場合によっちゃかけがえのねぇ親友がいたかもしれねぇ。それをおたくは一方的に奪い取ったんだ。その罪の重さを、ちょいとでも考えたことがあんのかい?」
母親「あら、やだよ、この人ったら。なんだか急に世界観の大きな話を持ち出してきたよ。今まで、ただの一度だってそんなこと言ったことないのに」
父親「とにかく、俺ぁそんな厚かましい奴がお月の周りをうろついてることを快く思っちゃいねぇんだ。悪いこたぁ言わねぇから、痛ぇ思いをする前に、なるべく早く手ぇ引いてくりょ。…さ、(立ち上がり)じゃ、俺ぁ湯ぅ行ってくるよ」
母親「ちょいと、あんたさぁ…ああ、行っちゃったよ。…もう錦之助さん、ごめんなさいねぇ、せっかく来てくれたのに。うちの人は職人だから、あの通り頭固くてさ。商人さんなんかと違って、こう愛想良く振る舞うってことが出来ないのよねぇ。まあ、あまり気にしないでさ、これからもうちのお月と仲良くしたげておくれね」
若旦那「いえいえ、とんでもないです。こちらこそ宜しくお願いします。…では、あたしは今日はこの辺で失礼させていただきますね。お月ちゃん、またね。じゃ、お邪魔しました(頭を下げる)」

定吉「若旦那、おかえりなさいませ。どうでしたか?今日、お月さんの親御さんにご挨拶しに行ったんでしょう?」
若旦那「うーむ、今日は惨敗だなぁ…。どうにも、あの親父ってのが手強いぞ」
定吉「え、親父?地震、雷、火事、親父…そりゃ、手強いわけだ」
若旦那「うーむ、今後どうやってあの親父を攻略していくかが課題だな。なんとか上手く丸め込む方法はないものか…」
定吉「簡単ですよ。それなら、胃袋を掴んじまえばいいんですよ」
若旦那「え、胃袋を?そりゃ定吉、どういうことだい」
定吉「若旦那はせっかく料理屋のせがれなんだから、その料理を武器にすればいいんです。たしか、お月さんの親父さんは大工でしたよね?だったら、なおさら都合がいいや。こっちは先方が仕事してる現場まで出掛けていって、休憩の時なんかにさりげなく食事を提供するわけです。向こうはとにかく腹を空かしてるから、そういう気遣いをされるともう敵わないわけですよ。動物も人間も、けっきょく急所ははらにあるわけです」
若旦那「なるほど。定吉お前、チビのくせになかなかの策士だなぁ」
定吉「へへ。世の中、力じゃないですからね。ここですよ、ここ
若旦那「じゃあ、定吉。いったい、あたしはあの親父にどんな食べ物を提供したらいいかねぇ」
定吉「うーん、そうですねぇ。やっぱりうちは深川だから、深川らしい物がいいんじゃないですかねぇ」
若旦那「深川らしい物?…するってぇと、たとえば?」
定吉「やっぱりアサリのぶっかけでしょうねぇ」
若旦那「なんだ、結局そこなんだな…」
定吉「だってもう、深川ったらそれ以外無いじゃないですか」
若旦那「いや、それ以外無いってことはねぇけどさ…まあ、いいや。じゃあ、ぶっかけで行こうか。なんたって娘のお月ちゃんが気に入ったんだからな。親父だって、きっと気に入るはずだ。たしか、ここんところはずっと両国でもって橋の修復をしてるって話だったなぁ。…よし、定吉。善は急げだ。さっそく明日の昼、鍋と釜持って両国まで行くぞ」
定吉「へぇぇぇぇぇぇぇぇい(お辞儀)」

若旦那「と言うわけで、両国へやってきたぞ。おい、定吉。見ろ、あれがお月ちゃんの親父だ」
定吉「うわぁ、見るからに強そうだなぁ。…若旦那、やっぱりやめときましょう。あたい、この若さで死にたかねぇ」
若旦那「馬鹿、ここまで来てなに言ってんだよ。それを、相手の胃袋を掴むことで制圧するんじゃねぇか。世の中、力じゃねぇって言ったのはお前だろ」
定吉「でもさ、若旦那。あの胃袋は、こちらの攻撃をみんな飲み込んじゃいそうで…」
若旦那「そんなもん、やってみなけりゃ分かんねぇだろ。さ、早く火ぃおこせ。で、鰹と昆布でもって出汁をとっといてくれ。その間に、あたしはアサリの剥き身を用意しておくからね」
定吉「へいへい…(火をおこしながら)…フゥーッ、フゥーッ、大丈夫かなぁ。あの鬼瓦みたいな親父さんに、フゥーッ、フゥーッ、果たしてアサリのぶっかけ飯なんかが通用するかなぁ。フゥーッ、フゥーッ」
若旦那「よぉし、いい感じに煮立ってきたな。そしたらここへ味噌、それからアサリ、それからネギ、それから油揚げを投入する。でもって、これをよーくかき混ぜて…(混ぜる)…よし、いい具合に煮詰まってきたぞ。うーん、匂いもいいや。…お、ちょうど親父も昼休憩みてぇだぞ。よっしゃ。じゃあ、さっそくこれを持っていくぞ。定吉、火ぃ消せ。俺は釜持っていくから、お前は鍋持ってこい」
定吉「へいへい。よっこらしょっと…(鍋を持って歩く)…わっせ、わっせ、ひぇー、重い…よいしょ(置く)…あー、重かったぁ」
父親「ん?…なんだ、おたく昨日うちに来たお月の連れじゃねぇか。こんなとこで何やってんだい」
若旦那「いえね、親父さん。お月さんから、かねがね親父さんが大工をされているという話は伺っておりましたので、今日は是非あたしの差し入れでもって、お腹を目いっぱい満たしていただこうと思いまして…これ、深川の名物でアサリのぶっかけって言うんですけど、お月さんもこの味を絶賛したくらいなんで、きっと親父さんにも喜んでいただけるかと」
父親「ほぉ、ただ厚かましい奴だとばっかり思ってたけど、なかなか気が利くじゃねぇか。え、何々?アサリのぶっかけ?へえ、旨そうじゃねぇか。ちょうど今日は握り飯二個しか持ってきてなかったからよ。助かるな。じゃあ、ひとつ呼ばれようか」
若旦那「へい、喜んで。(飯を盛りながら)ご飯の量は大盛でいいですかね?…あ、特盛で。へい、かしこまりました。…おう、定吉。ここに貝汁ぶっかけてくれ。よし。…へい、お待ちどうさまで」
父親「おお、こりゃなかなか旨そうだな。ぶっかけ飯か。よし、じゃあひとついただくか。ふーっ、ふーっ、ガッガッガッガッガッ(かき込む)…うん、うん、こりゃなかなかいけるな」
若旦那「そうでしょう、そうでしょう?これね、うちの看板料理の一つなんですよ。それをたったの一口食べただけで見抜くんだから、親父さん、やっぱり舌が肥えてるわ」
定吉「ぷっ、本当はただの漁師のまかない飯なんだけどね。くっくっくっ」
若旦那「しっ、馬鹿っ。黙ってろ。…へへへへへ。親父さん、今日は好きなだけ食べて下さいね。おかわりはいくらでもありますから」
父親「昨日見た時ゃとんでもねぇ青二才だと思ったけど、やっぱり人間、一宿一飯の恩義てぇぐれぇで、旨ぇもんを食わしてくれる相手にゃあ、もう何も言えなくなっちまうな。ガッガッガッガッガッ(かき込む)」
若旦那「お月さんの親父さんにそう言っていただければ、それこそあたしも、もう何も言葉はありませんで」
父親「ガッガッガッガッガッ…うん、うん、旨ぇなぁ…ズルズルズルズルッ、ゴクン…おかわりくれ」
若旦那「へい、喜んで。(飯を盛りながら)親父さんには、この後もバリバリ働いてもらいたいですからね。…おい、定吉。貝汁くれ。…はい、お待ちっ…(渡して)…あのぅ、よかったら同僚の皆さんもお食べになりますか?…あ、食べる。はい、かしこまりました…おい定吉、貝汁…へい、どうぞ。おい定吉、貝汁…へい、どうぞ…おい定吉…」
父親「あー、食った食った。えーと、錦之助さんって言ったっけ?ごちそうさん、旨かったよ。昨日はつい、あんなこと言っちまって済まなかったな。これからもお月のこと、よろしく頼むな」
若旦那「じゃあ親父さん、あたしとお月さんとのことを…?」
父親「ああ、認めてやらぁ。ただ、所帯を持ちてぇとなると話は別だよ。それにゃあ、まだまだおめぇさんの本気を見せてもらわねぇとなぁ。それでもって俺に『お、こいつなかなか骨のある奴だなぁ』と思わせることが出来りゃあ、その時ゃお月とのことも認めてやってもいいぜ」
若旦那「さいですか、有難うございますっ。では、さっそく明日もここへ来て、親父さんの為にせっせとぶっかけ飯を作らせていただきますっ」
父親「いや、それがさぁ、今日でここの現場は終わりなんだよ。明日からはまた別ん所だ」
若旦那「へ、別の所?…ちなみにそれはどちらで?」
父親「谷中の寺町なんだよ。さすがに錦之助さんも、深川からこの鍋と釜ぁ抱えて谷中までは来られねぇだろ?」
若旦那「谷中ですかぁ。そりゃ、たしかにちょいと距離があるから、徒歩かちで行くには厳しいかもしれないですねぇ…」
父親「そうか、厳しいか…。よし、わかった。今日はご苦労さん。これからもお月のこと、よき友達として*******、可愛がってやってくれよな。あばよ(去る)」
若旦那「あ、ちょっ、親父さんっ!…ああ、行っちゃったよ。はぁー、なんだかとてつもなく大きな魚を逃したような気がするなぁ。せっかく、あと一歩のところまで追いつめたのに…」
定吉「若旦那、なに青菜に塩みたいになっちゃってるんですか。これくらいでめげてちゃ駄目ですよ」
若旦那「そんなこと言ったってお前、どうしろって言うんだよ。今日ここまでこの荷物を抱えて歩いてきただけだって、もう腕がパンパンなんだぜ。それが谷中なんて言やぁ、これの三つ分くらいの距離を歩かなきゃならないんだ。常識的に考えて、そりゃ無理だろう」
定吉「(指を振って)チッチッチッ。若旦那、あたい、こないだも言ったでしょ。世の中は力じゃなくて、ここだって」
若旦那「え、何かいい知恵があるのかい?(姿勢を正し)定吉さん、ぜひ教えて下さい。この通り、お願いしますっ(お辞儀)」

若旦那「(歩きながら)と言うことで、谷中へやってきたよ。うーん、なかなか風情のある町だねぇ。いやぁ、それにしても、まさかあのアサリのぶっかけを、そのまま炊き込みご飯にしちまおうなんて発想は、さすがに思いつかなかったなぁ」
定吉「(歩きながら)ね?そうすれば、あとはそれを握り飯にしちゃえば、もう谷中だろうが、品川だろうが、どこへだってこの深川めしを運ぶことが出来るんですから」
若旦那「でかしたぞ、定吉。お前、本当に賢い奴だなぁ。いつも返事が『へぇぇぇぇぇぇぇぇい』なんて言ってるから、俺は内心こいつはパァなんじゃないかと思ってたけど、その考えは今日で撤回するよ」
定吉「若旦那、あたいのことそんな目で見てたんですか。ひどい…もう、このおにぎり、猫にやっちゃう」
若旦那「わ、悪かった悪かった。帰ったらお前のことをお父つぁんに話して、いくらか給金をはずんでもらうように直談判するから許してくれ。な?…おっ、着いたぞ。『観音寺』…よし、ここだな。この境内でお月ちゃんの親父が本堂の修復作業をしてるはずだ。ちょっくら行ってみるぞ…(歩きながら)…えーと、本堂があれだろ?でもって、お月ちゃんの親父は…お、いたいた。ちょうど、昼休みに入るところだ。よし、いっちょ電光石火の深川めしを食らわしてやるか。…こんにちはっ」
父親「ん?おや、錦之助さんじゃねぇか。おめぇさん、まさか深川からここまで、あの鍋と釜ぁ持って歩ってきたのかい?」
若旦那「いえいえ。いくら何でもそれをやってしまっちゃ、あたしもさすがに参っちまいますよ。ただ、あのアサリのぶっかけ飯だけは、きちんと持ってきました」
父親「えぇ!?お前さん、なにかい?料理屋のせがれってのは表の顔で、裏の顔は奇術師か何かかい?」
若旦那「いやいや、まさか。でも、奇術でも何でもなく、現実としてあのぶっかけ飯をここへ持ってきましたから。では、さっそく召し上がっていただきましょう。…これ、定吉。風呂敷から例の物をお出しして差し上げなさい」
定吉「へぇぇぇぇぇぇぇぇい…(握り飯を取り出し)…どうぞ」
父親「うん?なんだい、これ。握り飯か。お、でもよく見るとたしかにアサリが入ってらぁ。へぇー。じゃあ、ちょっくら頂くよ。あーん…(食べる)…んぐんぐ、うんっ、ゴクリ、これは旨いっ」
若旦那「よし、きたぁっ!でしょう、でしょう?これはですねぇ、味噌の代わりに醤油とみりんを使って、アサリの出汁と一緒に釜で炊き込んだんですよ」
父親「なるほどねぇ。大したもんだよ蛙の小便、見上げたもんだよアサリの砂吹きだ。うん、こりゃあ旨ぇや(食べる)」
若旦那「へへ、親父さんに喜んでいただきたい一心で、あたしはうちの板前と相談しながら寝づの権現ごんげんでもって、この炊き込み飯を考え出しまして」
定吉「まあ、厳密に言うと原案はあたいなんですけどね」
若旦那「いいんだよ、お前は余計なことを言わなくてっ(肘でつつく)」
父親「へぇ、そうかい。恐れ入谷の朝顔市だね。錦之助さんよ。俺ぁ、おめぇさんのことがすっかり気に入ったぃ。これだったら、うちのお月をおめぇさんにくれてやったって構わねぇよ」
若旦那「えっ!親父さん、そりゃあ本当ですか!?」
父親「馬鹿言っちゃいけねぇ。こんなこと冗談で言えるかい」
若旦那「お、親父さん…ありがとうございますっ!」
父親「ああ、お月のこと、よろしく頼むな。…ときに錦之助さんよぉ。深川って言やぁ、江戸前の魚が佃煮にするほど取れるって中で、あえてこのアサリを選んだってのは何か理由があるのかい?」
若旦那「ええ、そりゃ勿論で。だって、昔から言うじゃないですか。『まずかい(貝)より始めよ』って」













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