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落語(19)さる湯治場にて

◎猿が温泉に入ることで有名な長野県の地獄谷温泉。その歴史は古く、今からなんと121年前の1901(明治34)年には、すでに「猿の入浴」が旅館の女将によって確認されていたようです。実際にはもっと前から入っていたのかも…?今回はそんな時代のお話です。

次郎「あ〜、いい湯だなぁ〜。あたり一面まっ白。白銀の世界ってやつだ。こうして雪山ん中の露天でもって朝風呂とは、名前は『地獄谷温泉』だけども、いやぁ〜しかし、極楽極楽」

秀吉「ちともし、若い衆」

次郎「へ?   あっしですか?」

秀吉「うむ。どこから参った」

次郎「へぇ。お江戸でござる」

秀吉「ほお。それはまた遠路はるばる。湯治でいらっしゃったか」

次郎「へぇ、さいです。ちょいと先だって、野良犬に噛まれましたもんで」

秀吉「ほお。それは災難だったなぁ。江戸から歩いてきたのか」

次郎「へぇ。さいわい噛まれたのが腕だったもんで、足は何ともないもんですから。でも、この寒さにこの雪でしょ?   歩いても歩いても進まねぇ、山はいくつも越えなきゃならねぇってんで本当にもう、地獄谷に着くまでが地獄でした…」

秀吉「ほっほっほ。それはご苦労だったな。まあ、せっかく来たんだ。手の傷が癒えるまで、しばらくゆっくりしていきなさい」

次郎「でもね、お爺さん。あっしは、あの野良に噛まれてからというもの、どうも体の様子がおかしいんで」

秀吉「ほお。そらまたどういう具合に?」

次郎「どうもこうもねぇんで。ついこないだ鏡で手前ぇのツラ見て驚いたんですけどね、前歯から三本目に犬の牙が生えてやがるんで」

秀吉「そりゃお前さん、犬歯だろ。そんなもの誰でも生えとる。ただお前さんが気がつかなかっただけで、それは犬に噛まれる以前から生えていたはずだ」

次郎「ええ、そうですかぁ?   でもね、お爺さん。最近やけに鼻が利くんですよ。旨そうな物を見るとすぐ飛びつきたくなる」

秀吉「そりゃ、お前さんが食い意地が張ってるだけだろ」

次郎「それ以外にもね、朝、目が覚めりゃ外の空気吸いたくなるし、眠くなりゃ何処でも寝るし」

秀吉「そりゃ、健康な証拠じゃないか」

次郎「何より最近ね、汗をかかなくなったんで」

秀吉「まあ、真冬だからな。誰だってこの寒いのに、そうそう汗なんかかくもんじゃないよ」

次郎「そうですかねぇ。どうもあっしは最近、犬に近づいてるような気がしてならねぇんですが…」

秀吉「まあ、とにかく大丈夫だ。心配するな。ここの温泉に入れば、どんな病であろうと怪我であろうと、全て元あった状態に戻すことができる」

次郎「じゃあ、死んじまってもここに浮かべれば生き返りますか」

秀吉「いや、さすがにそれは無理だろ。要するに死ぬ前だったら、ここに来れば何でも治るということだ」

次郎「へぇ〜、なるほど。時にお爺さん、色々と詳しいですけど、地元の方で?」

秀吉「ああ、これは失敬。まだわしの氏素性うじすじょうを申し上げてなかったな。わしゃ生まれも育ちもこの山。もう、この山から外へは出たことがないというくらいのもんで。名を秀吉と申す」

次郎「へぇ、秀吉さんか。いい名前だね。じゃあ、さしずめ『関白』ってとこだ」

秀吉「はっはっは。そう言われると照れるがな。時に若い衆、お前さんは何と申す」

次郎「へい。あっしは次郎ってんで」

秀吉「ほぉ、次郎さんか。こないだ日光から来たっていう若い衆もジローさんて言ってたっけなぁ。何でも囲炉裏いろりでケツを火傷したとかで」

次郎「囲炉裏いろりでケツを火傷した?   一体どういう状況でもってそうなるんだい?」

秀吉「どうも猫に火中の栗を拾わせてたらしいんだが、その栗がケツに飛んできたらしいんだ」

次郎「ダメだよ。猫にそんなことさせちゃ」

秀吉「だから本人も反省しきりだったよ。『猫に火箸ひばしの使い方を仕込んどけばよかった』って」

次郎「いや、そういう問題じゃないよ」

秀吉「でも、おかげでここの温泉に入ったら、真っ赤だった尻が綺麗な桃色になってね。ケツをフリフリしながら日光まで帰ってったよ。わしが帰り際、土産に栗を持たせようと思ったら、『もう栗はくりぐり****です』なんて言ってたがね」

次郎「へぇ〜、そうですか。じゃあ、ここのお湯は、火傷なんかにも効能があるってことなんですね」

秀吉「ああ、そう言えばこないだ尾張の犬山から来た若い衆は、『柿を取ろうとしたら木から落ちて怪我をした』なんて言ってたけど、やはりここの湯に入ったら一発で良くなったな」

次郎「尾張ですか。随分遠くからも来たもんですねぇ」

秀吉「土産にわしの所で取れた柿を持たせてやろうとしたら、もう柿はうんざりのようで渋い**顔をしてたがね」

次郎「体の傷は癒えても心の傷は癒えないってことなんですかねぇ…。他にはどんな所から来るんで?」

秀吉「嵐山から来たなんて娘もいたなぁ」

次郎「『京どすえ』ですか」

秀吉「これがなかなかのべっぴんでな。どうやら蜂に刺されたそうな。ここ混浴だろ?   ちょうどその時、男連中がわんさか入っててな。後でその娘が言うには、『入るまでは傷口が痛かったが、入ってる時は視線が痛かった』と」

次郎「いいなぁ。あっしもその日に来たかったなぁ。今日もイイ女が蜂に刺されたって言って来ないですかねぇ」

秀吉「まあ、こういうのは運命。はち**合わせだからな」

次郎「うまくまとめますねぇ。じゃあ、一番遠くからってぇと、どんな所から?」

秀吉「そうさなぁ。九州は別府からってのがいたっけなぁ。『滑って転んでおお痛た****』なんて言ってた」

次郎「別府…?   いや、それなら別府温泉行きゃいいでしょう!   じゃあ何ですか?   わざわざ九州から信州まで歩いてきたんで?」

秀吉「ああ。どうも転んだ時に足を骨折したらしくてね。どうしても治したい一心でここまで歩いてきたそうだ」

次郎「それ、バカじゃねぇかよ!」

秀吉「ああ。だからここの湯に入ったら足は治ったけどね、バカは遂に治らなかった」

次郎「そりゃそうだよ。そりゃ『死ななきゃ治らない』って昔から言うからねぇ。ふぅ〜ん。じゃあ、本当に全国から湯治に来るんですね。…お?   あんな所にカラスがいやがるね。あいつも湯治に来たのかい?   お、湯に入りやがった…お、もう出やがった。随分早いねぇ。ちょいと早過ぎやしねぇかい?   それじゃ温ったまんねぇだろうに。おい、カラス!」

カラス「何ですカァ?」

次郎「へっ、何ですカァだって。洒落てやがら。やい、カラス!   お前、随分と早風呂だけど、お前も江戸っ子かい?」

カラス「いいえ。あたいは地獄谷です」

次郎「おう、何だい。地元民かい。悪りぃな。ちょいと湯ぅいただいてるぜ」

秀吉「おい、カァ君。こちらさん、江戸から湯治に見えたんだ。ご挨拶なさい」

次郎「カァ君?   秀吉さん、このカラスと知り合いですか?」

秀吉「ああ、ちょっとした風呂友達さ。毎日ここでこうして顔を合わせておるんだ。これ、カァ君。次郎さんにご挨拶なさい」

カラス「ご愁傷しゅうしょう様です」

秀吉「こら、カァ君。なんだその挨拶は。…すみませんね、次郎さん。普段はもっとイイ子なんですけど。…こら、カァ君。お前、なんでそんなことを言うんだ」

カラス「次郎さん、危ない!   次郎さん、逃げて!」

秀吉「カァ君。どうした、そんな縁起でもないこと言って。失礼じゃないか。…あ!   まさかお前また予知能力が働いたな?…いえね、次郎さん。このカァ君はね、不吉な予兆を敏感に察知するんですよ。まあ、簡単に言えば他人ひとの死期を悟るとでも言いましょうか」

次郎「いや、簡単に言わないで下さいよ、そんなこと!   じゃ、何です?   あっしに命に関わるような危険が迫ってるってことですか?」

秀吉「うーん、まあ、つまりその…、ご愁傷様です」

次郎「何だい、秀吉さんまで。冗談じゃねぇや。長生きする為に湯治に来てんのに、死ぬなんて言われたんじゃ、のんびり温泉なんか入ってられっか。俺は帰るぜ!」

カラス「あー、次郎さんダメ!   今はお風呂から出ないで!   出たら敵に噛みつかれる!」

次郎「え、何だい敵って。どこに敵がいるんだよ。そいつが俺の命を狙ってんのかい?(犬を発見し)あ、あいつ!   あの時、俺の腕に噛みついた野良犬じゃねぇか!   なんであいつがこんな所にいるんだい。まさか俺の後を追っかけてきたのかい?   やい、犬畜生!   てめぇ、俺のことを喰い殺そうってぇのかい?   お前、俺に何か恨みでもあるのかよ!   大体、俺がお前に何かしたか?」

野良犬「いいえ、何もしちゃいません。あの時だって、あたしが一方的にあなたに噛みついただけですから」

次郎「そうだろ?   俺はただ普通に歩いてただけじゃねぇか。それをお前がいきなり前からやってきて、人の顔見て『ウゥ〜ッ』なんて牙むきやがるから、俺はシッシッってやっただけじゃねぇか。そしたら、お前はいきなり俺の腕に噛みついてきた」

野良犬「その節は誠にご迷惑をおかけ致しました。何しろ私はあの時もう腹がへって腹がへって…。あなたが手に食べ物を持ってるのを見て、つい襲ってしまいました」

次郎「そうだよ。お前がいきなり噛みついてきたから、俺はあまりの痛さに手に持ってた果物と野菜をおっぽり出して逃げなきゃならなかったんじゃねぇか!   この泥棒!   食い物返せ!   慰謝料払え!」

野良犬「本当に申し訳ございませんでした。しかし、悪いことはできません。バチが当たりました。あの時、あなたが置いていった玉ねぎとブドウと落花生を、私は食欲のおもむくままにむさぼり食いました。そしたらこれがテキメンに当たりまして…」

秀吉「なんだ、お前さん。玉ねぎとブドウと落花生を一気に食べたのかい?   それはダメだ。それは全部、犬との相性が悪い食べ物なんだ。お前さん、よく生きてたな」

野良犬「もうあの後は、目はぐるぐる回るし、体はブルブル震えるし、もうゲーゲーのピーピーのシャーシャーでした。それでも、どうにかここの湯が良いという評判を聞きつけて、もう地を這い泥水を飲みながらここまでやってまいりました…」

秀吉「ああ、そうか。それはご苦労だったな。…なあ、次郎さんよ。まあ、そういうことだ。やっこさんも随分痛い目にあったようだし、お前さんのかたきはちゃんとお天道様が討って下さった。だからもうこれで水に流して、お湯に流して、シャンシャンシャンで仲直りといこうじゃないか」

次郎「はぁ、そうですかぁ…。まあ、秀吉さんがそう言うなら…」

秀吉「ほら。まあ、そういうことだからノラクロや。お前さんもこっち来て温ったまんなさいよ、うん。…あ、こらこら。まずお湯を飲むんじゃないよ。ペロペロするんじゃない。いいから入んなさい、ほら。まったく犬というのはハッハッハッ。…しかしあれだねぇ、次郎さん。こうして喧嘩した者同士が仲直りできて、おまけに怪我も治ってさ。温泉ってのはいいだろう?」

次郎「本当ですねぇ。何だかあっしは安心したら腹がへってきちゃったですよ」

秀吉「そうかい。じゃあ、ここでじっくり温まったら、その後はわしの所へ来てみんなで食事をしようじゃないか。すぐそこの川でうまい蟹がとれるんだ」

次郎「お、蟹鍋っすか。いいっすね。温ったまりそうだなぁ」

秀吉「まさか。生で食べるんだよ。人間みたいに鍋料理なんてできないさ。だってわしらは猿なんだから」





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