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「夫婦note.定年について」夫編

「定年」について、考える前に「労働」とは何かから考えていきます。
(妻に対してのアンサーとなる投稿ですので、まずはじめに妻のnoteをお読み下さい。)

https://note.com/1ureruetiak/n/nf873dfb12c6a


「労働」とは、一般的に生活のための手段を獲得する活動です。経済学者のマルクスは、「労働」を次のように定義しています。「労働は、本来人間が自己の能力を発揮し、自らが作った生産物の中で、自己自身を確認する喜ばしい活動である。」「労働」を通じて、他者に貢献する。それが、自分の充実感、自己実現に繋がります。

しかし、この「労働」力までが商品化された資本主義社会では、上記で述べた労働の意義は、失います。「労働」が生活の手段として、強いられれる苦役になってしまいました。マルクスは、この状況を「労働の疎外」と呼びました。資本主義社会では、労働者は「労働」力を売るしか、明日の生活を維持する方法はありません。

これらを踏まえて、「定年」について考えていきます。「労働」について真剣に考えた人から、妻の会社の人のような言葉は出てこないと思います。そのような人は、マルクスの『経済学.哲学草稿』(光文社古典新訳文庫 長谷川宏訳)の言葉を借りれば、「労働」の中で、自分を肯定するのではなく否定し、心地よく感じるのではなく不仕合わせに感じ、肉体的. 精神的エネルギーをのびのびと外に開くのではなく、肉体をすりへらし、精神を荒廃させているのではないでしょうか。その人たちの「労働」は、自由意志に基づくものではなく、疎外されている以上、他人のものになっています。

この「定年」を考える上で、「なぜ働いているのか」を真剣に考えはじめました。資本主義社会である以上、私自身も労働力を売らなけれ生活は成り立ちませんし、維持することもできません。だからこそ、「労働」の意義まで遡り、会社に依存しない働き方について考えるようになりました。あくまで、会社で働くのは、生活を維持するための手段の一つで、それ以上でもそれ以下でもないと割り切れるようになりました。そのうえで、自分たちには「いくらお金が必要であるか」を考えれば、マルクスがいう本来の「労働」に立ち返ることができると思います。

いまだに「定年」まで働くことは、美徳であると言われていますが、狂気の沙汰と思うのは、私だけでしょうか。

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