見出し画像

勉強のスタンスを決めた3つの本

 毛嫌いする向きもあることは知りつつも、割と好きな方なので新刊が出るたびに勉強本とか記憶術とかいったノウハウ本を買っては読むのですが、毎度同じことが書かれているというオチが付きます。とはいっても著名人の知的生産の技術を見聞することは、やはりどこかワクワクするものです。良さそうな方法があれば自分でもマネしたくなるものの、細かいメモ方法とかマーカーの引き方とか、カードを作るとか、朝は数学をやって夜は英語をするのが脳科学的に…云々、いろんなことを言われても、定着せずにそのうち忘れ去ってしまうのが世の常というものでしょう。
 結局、方法論というのは、各人の置かれた環境に依存して独自の発展を遂げてきたものなのだと思います。例えば、毎月1冊の本の書評をするために大量の本を読まなければならない小説家が身に付けた読書法を、そのまま普通の会社員が取り入れようとしたとしても、その方法が身につくとは限りません。喩えれば、熱帯で育つ植物の種を寒帯の土壌に植えたとしても育たない、ということにでもなりましょうか。そうであるならば、重要なのは、個人特有の方法論はとりあえず横に置いておいて、マニュアル本からできるだけ一般的な原則を掴み取り、自らの置かれた環境の中でそれがどのように発展していくかを観察することだと思います。
 以下に紹介する3冊の本は、有名人の書いたノウハウ本というわけではないですが、一般的な原則を掴み取るのに有用であって、私の勉強のスタンスを決めるうえで役立ったものです。

佐々木健一『論文ゼミナール』(東京大学出版会、2014年)

事実と意見を区別する能力を身に付けるには論文を書くことが最適である。

 論文と批評は違う、ということを理解することからこの本は始まります。論文が何かを掴めば、あとは技術的な問題に落とし込めるからです。

大学生のなかでも、何かについてマニアックな関心をもつひとは、批評文を読み、さらに熱意が昂じると、自分でもそれを書いてサイトの「レビュー」欄に投稿する、という環境がわたしたちの周りにはあります。その結果、論文を書こうとするひとが「自分は論文というものをよく知っている」と思っている場合、批評文を論文だと思い込んでいる確率が非常に高いと言えます。困るのは、論文がそういうものではないからです。(第3章「論文とはなにか」より)

 私たちが目にする文章のほぼすべては批評です。論文は主に研究者が高度な厳密性をもって書く文章で、内容に新規性があり、査読を受け、学術的な雑誌に掲載されたものをいい、たとえ読書家を自負する人であってもこの狭義の意味での論文に触れる機会は少ないのです。一般に「論文」という言葉は曖昧に解されていて、例えば評論やエッセイ、レポートなどあらゆる形式の散文も場合によっては論文と呼ばれたりします。卒業論文を書こうとする段階の大学生ですら、ややもすれば批評を書こうとしていて、論文が何かをイメージできていない状況があるようです。
 ポスト・トゥルースの時代、つまり、事実よりも私の信じたい「真実」が重要である時代と言われて久しい今日において、「何が事実なのか」ということを、情報発信者の価値判断に惑わされずに判断するためには、この狭義の意味での論文の作成手続を習得することが重要です。なぜなら、論文とはまさに事実を提示する形式の文章だからです。論文を書けるということは、主観的な価値判断ではなく事実を提示できる能力があるということを意味します。
 事実を提示できるということは、事実と意見を厳密に区別できるということです。世の中に溢れるほとんどの言説は、論文という形式で提示されない限り、事実と意見が入り乱れてしまっています。場合によっては、すべてが意見であって、何の事実も含んでいないこともあり得ます。ここにいう事実とは根拠があるものであり、根拠とは、第三者がこれを検証することが可能なものです。

疑問をもつにも技術の側面があります。その第一歩は事実と(誰かの)意見との区別をつけることです。(第5章「論文の主題を見つける」より)

 論文を書くとは、根拠を示して事実を提示する作業のことです。この事実は、第三者が検証可能な根拠が存在しているという点で、常に疑うことができるものです。一方、批評では、いわば書き手の優れた語感やしなやかな論理展開などで議論が進められていきますが、厳密に根拠が示されないことが普通です。研究者は「このアイデアは論文にはできないから本で書いたんだけど…」と言うことがありますが、これは、面白いアイデアだが厳密に根拠を提示できないから、ある程度論理の飛躍が許される一般向けの本に書いた、という意味です。
 何を根拠として扱うのか、どのように根拠を組み立てて事実を提示するのか、といった技術的な問題は、本書の後半で語られることになります。研究者とは、そのための準備として理解力を鍛錬し、たくさんのメモを取り続ける人たちのことを指します。理解するとは、読んだ文章をダウンサイズし、再話できる状態までもっていくことです。

再話はひとから聞いた話を、別の聞き手に向かって話すことですが、自分を相手に一人で行う再話が、要約のノート取りです。論文を書くプロである研究者は、一生これを続けます。(第4章「基礎的トレーニング」より)

 研究者ではなくとも、事実と意見がごちゃ混ぜになりがちなこの時代、かつては無批判に信じることのできた偉い批評家や知識人が姿を消した現代において、頼れるのが自分自身しかいないのであれば、研究者の如く鍛錬を続けるしかないと思うのです。

佐藤優『読書の技法』(東洋経済新聞社、2012年)

遅く読むことが早く読むことへの近道である。

 読みたい本は増える一方で、読み終えた本はなかなか増えない…。焦りで濫読してみるも結局何も身につかないというのは悲しいことです。そんな人々の不安につけこんで、難解な書物も1冊10分で読了できるようになるとか、一度読んだ本の内容をすべて記憶できるようになるとか、世の中にはそんな読書術が溢れていますが、一旦落ち着くべきです。もちろん、毛嫌いせずに一度読んでみる(立ち読みしてみる)ことも大切です。
 読書法にはそれこそ山のような玉石混交の蓄積があるわけですが、そのなかで原理原則があるとすれば、遅く読むことが早く読むことへの近道である、ということだと思います。例えば、加藤周一は『読書術』(岩波現代文庫、2000年)のなかで「遅く読めば読むほど早く読めるようになる」という箴言を提示したのですが、佐藤優の『読書の技法』はこれを具体的なメソッドにまで高めたものと言えます。

本書で繰り返し強調するように、読書の要諦は、この基礎知識をいかに身に着けるかにある。基礎知識は熟読によってしか身につけることはできない。しかし、熟読できる本の数は限られている。そのため、熟読する本を絞り込む、時間を確保するための本の精査として、速読が必要になるのである。(第1章「多読の技法」より)

 この記事の最初に「個人特有の方法論は横に置いておいて」といったような話をしましたが、本書には最低限のマナーとして知っておくべき読書の技法がつまっています。まず、適切な教科書を選んでノートをつけながら熟読する、2冊目以降は比較的早いペースで読めるようになる、といったようなことです。
 もっとも、超速読は5分以内でとか読書にはシャーペンと定規を使えとか、具体的なメモの取り方とかノート術とかかなりテクニカルな話もでてくるのであまり細部にのめり込みすぎて完璧主義的に模倣しようとするのは良くないと思いますが。
 いきなり難しい本に突き当たって読書のモチベーションを損なったり、あまり良くない「入門書」を丁寧にノートを取りながら読んでみたり、正確な言葉の定義もなく印象論で議論が進められているのに、理解しなければもったいないというような正義感から長々と格闘してみたり、時間を無駄にしてしまうことはもったいないと思います。ややもすれば理想化されがちな読書との適切な距離を見つけて勉強を続けるのが良いと思われます。

石川朋彦『自分を捨てる仕事術』(WAVE出版、2016年)

オリジナリティはいらない。人の話を正確に聞くことが大切。

 スタジオジブリの鈴木敏夫は、宮崎駿・高畑勲の名前を世界中に轟かせた名プロデューサーとして知られています。私としても、2007年に放送が始まったラジオ番組「ジブリ汗まみれ」(TOKYO FM)の高校以来のヘビーリスナーなので、鈴木氏の考え方にはよく通じているつもりです。ただ、鈴木氏が自らの方法論を語ることはほとんどなく、断片的に触れることがあるくらいです。なぜそうなのか、ということの答えはこの本のタイトルからも明らかです。
 本書はそんな鈴木敏夫が「千と千尋の神隠し」を制作していた頃にスタジオジブリのアシスタント・プロデュサーとして彼の側について働いていた石川朋彦が書いた記録です(多分に自分に引き寄せて書かれてはいますが)。石川氏は自信過剰による強調性のなさもあって怒られまくっていたようですが、そのときの言葉を集めて、鈴木流の仕事術にまで昇華させたのが本書です。

 著者が最初に指示されたことは、議事録をとることでした。会議で自分の意見を言おうと頭を働かせるのではなく、人の話を正確に聞きとって整理整頓し、方向性を見出した上で関係者に記録を共有する。そうすることで主観的に考えることから客観的に考えることへの切り替えができたといいます。

「これから打ち合わせでは、席順、相手の肩書や見た目、その場で話されたことをすべて、具体的・映像的に書き残しなさい。ノートとペンを手放さないこと。それを会議が終わったら読み返し、家に帰ったら寝る前に読み直して整理する。必ず寝る前にやること」(第1章「自分を捨てて他者を真似る」より)

 その趣旨は、アイデアは自分からではなく他人の考えから引き出すべきということです。次の段階としてそれを他者に実現してもらう、というプロデュサー業務の根幹に関わる姿勢です。
 そのために、どのように相槌を打つか、話を引き出すにはどうするか、人を見抜くにはどうすべきか、といった方法論も後半で具体的に示されることになります。

まとめ

 熟読と速読を使い分けた読書によって理解力を高め、主観と客観を区別し、整理整頓した上でそれを他人に正確に伝える。このことが、以上の3冊から導ける原理原則的な要素だと思います。ややもすれば「いかにプレゼンするか」が重要視されがちな昨今において、業務上、短期的にそれが求められることがあったとしても、この基本的な指針に立って、勉強を続けて行きたいと思っております。

 以上です、お読みいただきありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?