見出し画像

パン屋がナースやってます。初めて受け持った人の話〜続編〜

GWを挟むととうちゃんの状態が
階段下がる気がして
後ろ髪ひかれながらも
予定通り旅に出ました

旅から帰ると夜中にかあちゃんから
電話あり。
『すごく苦しがってて、何やっても効かなくて。どうしたらいいか』と。
私は、すぐに救急搬送して、と伝えた。

記憶が曖昧だったが、
確か2人の子供たちが翌日遠足か何かで
朝1番に家に行った。
家の中はメチャクチャになっていて、
動揺と、不安と、焦りなど
色んな入り混じったものが立ち込めていた

荒れた物品を何となく片付けながら
勝手がわからない家中を
かあちゃんの指示の元
子供たちの荷物をまとめた
その時、考えてたのは
『鍵借りてて、よかったー』
と思ったものだ

とうちゃんが入院中は、
子供たちたちの送迎や
必要なときの弁当作り
家で預かったりとかしたかな。

子供たちは、
不安も泣き言も言わなかったけど
何回か吐いたり、
食欲も落ちたかな
背中をさすると
小さな背中から悲しみが溢れていて
私の体の中も悲しみが巡った

かあちゃんから電話があり、
『ガンセンターでは暗い話ばかりで
とうちゃんもホスピス行くとすっかり
元気なくて、
実両親もものすごい落ち込んで。
私もガンセンターの邪気がすごくて
具合が悪くなるし、
子供たちもよりつかない。
どうしたらいいか』

私『家につれて帰ろう。
往診医つけて、訪看つけて、
家で家族と過ごそう。
できる限り手伝うから』

かあちゃんは、在宅に向けて
話を進めることにした。

私はその頃、就活をしていて
訪問看護で仕事を探し
決まろうとしていた
仕事始めると手伝う時間が減るだろう
と不安は何度もよぎっていた
あまり就活に時間を割いてられないので
始めに面接した事業所に決めた

かあちゃんから電話あり。
『家に帰ることになったよ』

私『往診医はどこになった?
本とか沢山出してて、テレビとかにも
出てるガン専門の在宅医がいるんだけど、
エリア外だからなー』

かあちゃん『◯◯クリニックになったよ。
エリア外だけど、特別に診てくれるって』

私『おー!訪看はどこ?』

かあちゃん『どこかわからないけど、
先生が指名してるとこだって』

初めて仕事する訪問看護の仕事
始めて数日後、
記録していると所長が
『新規、39歳男性肺ガン末期
予後2週間。双子の子供がいるって』
事業所の空気が少し重くなる中
私は心の中で
ビンゴーーー!と雄叫びをあげた
すぐにかあちゃんにメールをし
『何と何と、とうちゃんの訪看
うちになったよ!』とメールした

こうして私は晴れて看護師として
友達家族のところに行けることになった

初回訪問の日、
私はカルテだけ渡され
『行ったことあるよね。
初回訪問お願いします。
そのまま、担当で』と言われた。

私はいつも通っていた友達の家に
今度は訪問看護師として行き、
いつものように『よっ!』と挨拶した
状況は暗いのだが、だが、
2人で何か可笑しくて笑った

モルヒネのPCAポンプが始まり、
酸素吸入が開始していた。
本人は『痛いよ、痛みは変わらない。
効いてない』
とは言っていたが、
3ヶ月以上、体育坐りやうんこ座りで
何かに背中をつけて眠ることが
できてなかったのが
ベッドで端座位で背中をつけているのは
かなりの変化だった
痛みはMAXを10とすると5〜6くらい
までしか下がらなかったが。
もう少し手前で始めてれば、とは思う

しばらくして、
臀部に褥瘡ができた
色んな処置をしたが悪化するばかり。
ガンが全身に侵食していた。
褥瘡始まりのそれは、おそらくガンで
亡くなるまで溢れるほどの
膿様の浸出液を出し続けた

旅立ちまでの今どの段階にいるのか
何十人もお看取りをしていると分かる
というかどの段階か予測して看護をする
本当は今の段階でこれを始めた方が
楽だけど
私がそれを言うことは宣告するようで
色んなタイミングが遅くなり
本人には我慢することが多かったかも
しれない
常に都度都度優先するものは何かを
考えて選択するしかなかった

日中、仕事をするかあちゃんに代わって
実母がとうちゃんをみていた。
若い実子のターミナルをみることが
どれほどのことかと思う
何度も代われるなら代わりたと
思ったことだろう
悲しみを堪えながら時々もらす
不安や思いを傾聴する
こうすればよかったのでは?
もっと色々治療を諦めないですれば
いいのに、、。
溢れる思いを涙を溜めながら話す。
私『分かりますよ。親ならそう思いますよね。
治療を選択しないこと理解できないかも
しれませんが、私も自然に生きたいと
考えてるので、同じ選択をすると思います。
辛い気持ちはわかりますが、彼が選択した
生き方を生き切る姿を見守りましょう』
と話す。

残り時間を考えながら
私はとうちゃんに
『子供たちに話したいことあったら、
手紙とか書く?代筆するよ』
と軽めに言った
とうちゃん『俺、そういうの苦手』と。
そういった話はその一度きり。

建築士のとうちゃんは、仕事や建築が
とにかく大好きで
話すとしたら建築の話ばかりした
その話をすると明るい表情になったから。

亡くなる2日前、
もうすぐだな、と感じ
家でかなり1人で泣いた
泣いたのは初めて聞いた日と
この日の2回限り

職場の人にも辛くないですか、
とよく聞かれた
私は常に俯瞰してみていて
自分は今何をすべきか考えていた
それに集中していた
感情はあるけれど、
家族を支えるという強い覚悟があった
それができたのは
ひたすら呼吸法をしてたからだと思う

クリニックから電話があり、
『本日の往診で呼吸状態が落ちていました。
今日明日の可能性があります』
と電話がらあった直後、
かあちゃんから
『今、みんなに囲まれながら呼吸が
止まりました』とメールが入った

これが、私が初めて訪看の仕事をした時の 
初めて受け持った人の話
友達として、看護師として両方で
関わるというのは
そうそうできない体験だと思っている
偶然なのか、必然なのか
それを許してくれた家族に感謝している

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?