indigo la end 『名前は片想い』の歌詞考察——名付ける「私」と、社会の規範と。
少し前に、indigo la end『名前は片想い』という曲が流行しましたね。Spotifyのランキングでもかなり上位に位置していたことを覚えています。
これまで最も有名だった曲はおそらく『夏夜のマジック』ですが、それを上回るほどの勢いを持つ曲がまたあらわれたことに、一ファンとしてはとてもうれしい気持ちです。
さて、この記事では『名前は片想い』の歌詞についていろいろ考えていきます。
川谷さんの歌詞は結構感覚的な部分が多いのですが、この曲についてはかなり構成されているように思います。その意味でも、川谷さんにとって改心の一曲だったのかなと想像します。
MV( https://www.youtube.com/watch?v=aqoeNOw4_uQ )を見ればわかるように、この曲は女性同士の恋愛をテーマにしています。ただ、それはMVを見なくても歌詞だけで解釈することができます。以下に歌詞を引用します。
それでは、いくつかの観点から考察をしていきましょう。
1.同性愛と「正しさの矛」
一目惚れをしてしまったという歌い出し。その相手=「あなた」と「私」が「混ざれない」ということを表現しています。それは、「偶然色が同じ」であるから。
ジェンダーと特定の「色」とを結びつける発想は昔からあります。最も分かりやすいのはランドセルですよね。僕が小学生のころ(2000年代後半ごろ)では、男の子は「黒」、女の子は「赤」という風習がまだ存在していました。
しかし、最近ではジェンダーと特定の「色」を結びつける発想は薄れてきています。今の小学生はさまざまな色のランドセルを背負っていますね。皆さんもご存じのように、今ではジェンダーレス社会が進んでいます。つまり、女性同士の恋愛も歌うことが可能な世の中になりつつあるはずなのです。ですが、川谷さんはそれを安易には歌いません。それこそがこの曲の批評性であり、素晴らしいところだと思います。
話を戻します。色=性別が「同じ」であるから「混ざれない」という「あなた」と「私」。ここで言う「混ざる」という表現は性行為を示すと考えられます。ただ、性別が「同じ」であるからといって性行為ができないというわけではないはずです。では、「混ざる」が厳密に挿入を含む「性交」を意味する言葉ならばどうでしょう。男性同士の性行為では挿入する=「混ざる」ことは可能ですが、女性同士は(少なくとも身体のみでは)「混ざれない」。
したがって、この歌詞によって「女性同士」の恋愛であることが読み取れるのです。ちなみに、youtube のコメント欄だったと思うのですが、「バツが悪い」=「×が悪い」は、性染色体を示すのではないかという解釈がありました。男性が持つ性染色体が「XY」になるのに対して女性のそれは「XX」の組み合わせになるということを踏まえての表現だということです。理系の川谷さんなら確かにそのような狙いがあったかもしれません。面白い解釈だと思います。
ただ、「バツが悪い」という言葉は文字通りの意味でも捉えられます。「バツが悪い」は、きまりが悪いという意味です。これは、他者からの視線を前提にした表現であることに注意しましょう。
他者=世間から見てどうだろうか、と考える。このことは、二番の歌詞とも関連していきます。
「どんなため息も見逃さないと社会の空気が言い出した」というのは、さまざまなマイノリティに配慮が必要だという声が出始めている現在の世の中を示していると考えられます。しかし一方で、「正しさの矛」という表現はどうでしょうか。ここには重要な意味が込められているように思います。
結論から言えば、「矛」とは男性器を意味します。突拍子ないように聞こえるかもしれませんが、川谷さんは男性器を矛に暗喩するという発想をおそらく持っていたと思います。というのも、過去にある番組にて川谷さんはスピッツ『ロビンソン』の歌詞を分析して、「薄汚れたぎりぎりの三日月」という「尖ったもの」を男性器として解釈されていました。つまり、「矛」=「尖ったもの」=「男性器」という暗喩をここで行っていたことが考えられるのです。
さて、この「矛」が「男性器」を意味するとすれば、ここからは複数の重要な意味合いが生じてきます。
まず、「男性器」が「たまに痛い」ということは、この歌を表現している主体=「私」が日常的に男性と性行為をしている環境にいることを示しています。分かりやすく言えば、彼氏や夫がいることが考えられるのです。
加えて重要なのは、その「矛」=「男性器」に「正しさ」が付随するということです。つまり、男性と女性とが「混ざる」ことは「正しい」ことなのです。これは、異性同士の恋愛によって核家族が形成されていく……という従来の社会的な規範と同じ発想です。
このように考えると、「私」は彼氏or夫の存在、異性恋愛に付随する「正しさ」によって、よりいっそう「バツが悪い」状況に置かれているということが分かります。ここにおいて、「どんなため息も見逃さない」という「社会の空気」は大きな効果を持つことができていません。
2.「名前は片想い」——名づけの問題
以上から、「私」が同性愛を許容する「社会の空気」と異性愛を善とする「正しさの矛」とのはざまにいることが確認できました。ゆえに、サビの表現になるわけです。一番と二番のサビ部分を並べてみましょう。
歌詞の内容から、「あなた」と「私」の関係が「曖昧」で「問題」のある関係であることが分かりますね。
なぜ「曖昧」で「問題」があるのか。それは「社会の空気」と「正しさの矛」とが葛藤しているからです。今の社会、そして「私」がどっちつかずの状態だからこそ、「曖昧」で、「問題」があるわけです。
そして、「私」はこの「曖昧な関係」を「片想い」だと名付けます。ここで重要なことは、「片想い」が「曖昧な関係」ではないということです。
みなさんもご存じだと思いますが、「相思相愛」を意味する「両思い」に対して、「片想い」とは好意が双方向ではなく一方通行になっている状態です。これは全く「曖昧な関係」ではありません。むしろ明瞭でわかりやすい関係です。
つまり、「私」は「社会の空気」「正しさの矛」のはざまにいるからこそ「曖昧」になっている関係を「片想い」という明瞭な関係性に変換=「縛って」、処理してしまおうとします。「私らしく生きるよりあなたらしく生きて欲しいから」というそれらしい理由を添えて。
ここには、二通りの解釈が可能です。
まずは、「私」→「あなた」への片想い。これは素朴な解釈でしょう。片想いは失恋を含意するものでもあります。「私」は「あなた」と結ばれないことを選ぶことによって、「正しさの矛」に迎合していきます。
一方で、「あなた」→「私」への片想いという可能性も考えられるでしょう。つまり、「あなた」が「私」に想いを明かすが、それを振ってしまったという解釈です。こちらの場合も同じく、「正しさの矛」に迎合することを意味します。個人的にはこちらの解釈の方がしっくりきます。
いずれにしても、結ばれるかもしれなかった女性同士の恋愛を「片想い」と無理やり「縛って」処理してしまうことによって、「私」が異性愛を前提とする社会的な規範に迎合してしまうことを選択したことは共通しています。そして、それが「生きていくためのリアル」であり「賢い」ことなのです。
しかし同時に、まだ「私」には葛藤が見られます。
ここでは、そのように「片想い」に「縛って」しまう「賢くなった私」に対して、「私」は「誰?」と問いかけます。それは別人かのように扱われています。つまり、簡単に言えば「あなた」を望む「賢くない私」(と仮に呼びます)と、「あなた」を割り切ろうとする「賢くなった私」とが分離しているのです。
だからこそ、二番では「賢くない私」が「賢くなった私」に対して「賢くなったつもりにならないで」と言うことができるのです。
そして、このように考えた場合、二番のサビの最後「あなたはあなたらしく生きたの?」という問いかけは、恋愛の相手である「あなた」ではなくて、自分自身に問いかけていると考えられます。つまり、「賢くない私」が、「賢くなった私」を「あなた」と呼んでいるのです。
この「賢くない私」と「賢くなった私」との葛藤・対立は、そのまま「社会の空気」と「正しさの矛」との対立にあてはまります。それを踏まえて、最後の部分に行きましょう。
3.「理性」と「身体」との対立
ここでは「理性」と「(正直な)身体」との対立があります。これ自体は、恋愛の場ではしばしば聞くものですね。例えば、浮気はダメだと「理性」ではわかっていても、「身体」は正直で浮気をしてしまった……みたいな文脈が多いと思います。
しかし、そのような一般的に使われる「理性」と「身体」との対立と、この歌詞でいう「理性」と「身体」は転倒しているように思います。丁寧に言いましょう。
「私」のなかでは「理性」と「身体」が対立しています。そして、「理性」が「飛んで」いき、「身体」が勝利しています。であれば、文脈的には「私」は気持ちに正直になって、恋愛相手である「あなた」のもとに行ったことが考えられます。しかしこの歌詞ではその逆になっています。すなわち、「身体」が「理性」に勝った結果、「片想い」に乗せて歌う=規範的な異性愛に迎合したのです。つまり、ここでは「理性」が「賢くない私」(→「社会の空気」)であり、「身体」が「賢くなった私」(→「正しさの矛」)なのです。
これは重要なことだと思います。これは、フーコーのパノプティコンをも想起させるような、規範の身体化が表現されているのです。「私」は、規範が内面化した身体に任せることを選んだ結果、「片想いに乗せて歌」う。そしてそれこそが「私らしさ」なのだと言うわけです。
ここで、一番における「私らしく生きるよりあなたらしく生きて欲しいから」という言葉を思い出しましょう。「私らしく生きるよりあなたらしく生きて欲しいから」「片想い」にする——つまり、裏を返せば「両想い」になることが「私らしさ」であると表現されていることが分かります。ここでは同性愛が成立することが「私らしさ」なのです。
これを踏まえれば、この最後のサビ部分では「私らしさ」が転倒したことが分かります。逆に言えば、「賢くない私」も「賢くなった私」もいずれも「私らしさ」なのです。これは常に交換される可能性にさらされています。
この状態であれば、歌詞の時点では「飛んでった」とされる「理性」=「賢くない私」がまたすぐにやって来てしまうでしょう。そして、断続的に問い続けることになるはずです。「あなたはあなたらしく生きたの?」と。「私」の葛藤はこのあとも続いていくことが予想されます。
4.まとめ
異性愛を前提にした「正しさの矛」=社会的な規範は、私たちにとって身体化しています。だからこそ、いくら「社会の空気」が「どんなため息も見逃さない」といったところで、効果を持つことはかなり難しい。言ってしまえば、この場合「社会の空気」は「私」の「ため息」を見逃しています。
今回の「私」のような性的なマイノリティの問題をはじめ、社会ではマイノリティの問題を積極的に解決しようと動いているように思います。それ自体は素晴らしいことです。しかし、まだ。身体化された規範によって届いていない「ため息」はたくさん、たくさんあるはずです。
「名前は片想い」は、そのような昨今の社会の空気と従来の社会的な規範との対立のはざまに生まれた、≪故意的な失恋≫を歌ったものなのです。
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