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[下調べ]女帝 1 日本

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~Wikipediaより~

No.1 卑弥呼
(生年不明 - 242年~248年)は、『魏志倭人伝』等の中華の史書に記されている倭国の王(女王)。邪馬台国に都をおいていたとされる。封号は親魏倭王。

No.2 飯豊天皇
飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ)は、記紀に伝えられる5世紀末の皇族(王族)。履中天皇の皇女、または市辺押磐皇子の王女。第22代清寧天皇の崩御後に一時政を執ったとされ、飯豊天皇とも呼ばれる。

No.3 神功皇后
日本の第14代天皇・仲哀天皇の皇后。『日本書紀』での名は気長足姫尊で仲哀天皇崩御から応神天皇即位まで初めての摂政として約70年間君臨したとされる(在位:神功皇后元年10月2日 - 神功皇后69年4月17日)。

No.4 推古天皇
日本の第33代天皇(在位:593年1月15日 - 628年4月15日)。
在位期間は36年、『古事記』では 37年 とする。(神功皇后を含まない)歴代天皇の中では最初の女帝(女性天皇)である、また、女性君主は当時の東アジアではまだみられなかった。諱は額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)。和風諡号は豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと、『日本書紀』による。『古事記』では豊御食炊屋比売命という)。炊屋姫尊とも称される。漢風諡号の「推古天皇」は代々の天皇と共に淡海三船によって名付けられたとされる。『古事記』ではこの天皇までを記している。天皇号を初めて用いた大王という説もあったが、1998年の飛鳥池工房遺跡での天皇の文字を記した木簡が発見されて以降は、天武天皇が最初の天皇号使用者との説が有力となっている。また、容姿端麗であり、政治感覚に優れていたという。――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
No.5 皇極天皇 642−645年譲位、(斉明天皇) 重祚655−661年
日本の第35代および第37代天皇
皇極天皇(こうぎょくてんのう)、重祚して斉明天皇(さいめいてんのう;齊明天皇、594年〈推古天皇2年〉- 661年8月24日〈斉明天皇7年7月24日〉)は、日本の第35代天皇(在位:642年2月19日〈皇極天皇元年1月15日〉- 645年7月12日〈皇極天皇4年6月14日〉)および第37代天皇(在位:655年2月14日〈斉明天皇元年1月3日〉- 661年8月24日〈斉明天皇7年7月24日〉)。舒明天皇の皇后で、天智天皇・間人皇女(孝徳天皇の皇后)・天武天皇の母である。推古天皇から一代おいて即位した女帝(女性天皇)になる。

皇極天皇 第35代天皇 在位期間 642年2月19日 - 645年7月12日
斉明天皇 第37代天皇 在位期間 655年2月14日 - 661年8月24日

時代:飛鳥時代
先代:舒明天皇(第34代)孝徳天皇 (第36代)
陵所:越智崗上陵

諱・諡号 
諱は寶女王(たからのひめみこ/たからのおおきみ、新字体:宝女王)、または寶皇女(読みは同じ、新字体:宝皇女)。後者の諱の表記の方が一般化しているが、これは後世の尊称とみられている。和風諡号は天豐財重日足姬天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと、新字体:天豊財重日足姫天皇)。漢風諡号の「皇極天皇」「斉明天皇」は代々の天皇と共に✳1淡海三船によって名付けられたとされる。

略歴 
敏達天皇の皇子である押坂彦人大兄皇子の王子・茅渟王の第一王女。母は吉備姫王。はじめ高向王(用明天皇の孫)と結婚して、漢皇子を産んだ。後に舒明天皇2年1月12日(630年3月1日)、37歳で舒明天皇の皇后に立てられる。舒明天皇との間に、中大兄皇子(のちの天智天皇)・間人皇女(孝徳天皇の皇后)・大海人皇子(のちの天武天皇)を産んだ。舒明天皇13年10月9日(641年11月17日)、 舒明天皇が崩御する。皇后は48歳だった。

皇極天皇としての即位 
舒明天皇の後、継嗣となる皇子が定まらなかったので、皇極天皇元年(642年)1月15日、皇極天皇として即位した。49歳であった。『日本書紀』によれば、天皇は古の道に従って政を行なった。在位中は、蘇我蝦夷が大臣として重んじられ、その子・入鹿が自ら国政を執った。皇極天皇元年1月29日(642年3月5日)には安曇比羅夫が百済の弔使を伴って帰国。同年4月8日(5月12日)には追放された百済の王族、翹岐が従者を伴い来日した。同年7月22日(8月22日)に百済の使節、平智積(へいちしゃく)らを饗応し、健児に命じて、翹岐の目の前で相撲をとらせた。これが記紀上初の相撲節会の記述となる。同年7月25日(8月25日)、蘇我蝦夷が雨乞いのため大乗経典を転読させたが、微雨のみで効果がなかったため29日にやめるが、8月1日(8月31日)、天皇が南淵の河上にて跪き四方を拝み、天に祈ると雷が鳴って大雨が降る。雨は五日間続いたと伝わる。このことを民衆が称えて「至徳まします天皇」と呼ばれた。同年9月3日(10月1日)、百済大寺の建立と船舶の建造を命じる。9月19日に宮室を造ることを命じる。同年12月21日(643年1月16日)、小墾田宮に遷幸。皇極天皇2年4月28日(643年5月21日・50歳)には、更に飛鳥板蓋宮に遷幸。11月1日(12月16日)、蘇我入鹿が山背大兄王を攻め、11月11日に王は自害。

乙巳の変 
皇極天皇4年6月12日(645年7月10日)、中大兄皇子らが宮中で蘇我入鹿を討ち、翌日、入鹿の父の蘇我蝦夷が自害する(乙巳の変・大化の改新)。その翌日の6月14日、皇極天皇は同母弟の軽皇子(後の孝徳天皇)に大王位を譲った。日本史上初の譲位とされる。新大王の孝徳天皇より、皇祖母尊(すめみおやのみこと)の称号が奉られた。

孝徳天皇の時代 
白雉2年3月15日(651年4月10日) - 十師たちを呼んで設斎。
白雉4年(653年)、皇祖母尊は中大兄皇子と共に、孝徳天皇を捨てて倭飛鳥河辺行宮に遷幸。
白雉5年10月1日(654年11月15日)、中大兄皇子と共に、病に罹った孝徳天皇を見舞うべく難波長柄豊碕宮に行幸。10月10日、孝徳天皇が崩御。

重祚 
孝徳天皇の崩御後、斉明天皇元年(655年)1月3日、62歳のとき、飛鳥板蓋宮で再び皇位に即いた(史上初の重祚)。政治の実権は皇太子の中大兄皇子が執った。『日本書紀』によれば、しばしば工事を起こすことを好んだため、労役の重さを見た人々が批判した。

斉明天皇元年には、高句麗、百済、新羅が使を遣わして朝貢してきた。また、蝦夷と隼人も衆を率いて内属し、朝献した。

有間皇子の変に際して、蘇我赤兄は天皇の3つの失政を挙げた。 大いに倉を建てて民の財を積み集めたのが一、長く溝を掘って公糧を損費したのが二、船に石を載せて運び積んで丘にしたのが三である。

対外政策 
対外的には、朝鮮半島の諸国と使者を交換し、唐にも使者を遣わした。

蝦夷平定 
『日本書紀』では、北方の蝦夷に対し、三度にわたって阿倍比羅夫を海路の遠征に送って「後方羊蹄(シリベシ)」に至り、政所を置き郡領を任命して帰ったとある。さらに「幣賄弁島(へろべのしま)」まで出兵し、能登馬身龍が戦死するも粛慎 (みしはせ)に勝利したと伝える。「後方羊蹄」については、余市説(後志国余市郡)、末期古墳のある札幌・江別説(石狩国札幌郡)や恵庭・千歳説(胆振国千歳郡)のほか、松浦武四郎の尻別川流域説など諸説ある。「幣賄弁島」については粛慎の本拠地である樺太とする説や、奥尻島とする説などがある。

粛慎 (みしはせ)は当時、北海道の北海岸や樺太に存在し遺跡を残したオホーツク文化人と推測され、遺伝子分析の結果から、現在樺太北部に住むニヴフがその末裔といわれる。

一方、中国文献中の粛慎 (しゅくしん)は本来、紀元前のツングース系民族を指し、存在時期にかなりの開きがあること、また、北海道や樺太に粛慎・靺鞨文化の遺跡が無いことから、日本書紀に記された粛慎 (みしはせ)と異なるとみられている。

朝鮮半島への軍事介入 
在位5年(660年)に百済が唐と新羅によって滅ぼされた。百済の滅亡と遺民の抗戦を知ると、人質として日本に滞在していた百済王子豊璋を百済に送った。百済を援けるため、難波に遷って武器と船舶を作らせ、更に瀬戸内海を西に渡り、筑紫の朝倉宮に遷幸し戦争に備えた。遠征の軍が発する前の661年、当地にて崩御した。斉明天皇崩御にあたっても皇子は即位せずに称制し、朴市秦造田来津(造船の責任者)を司令官に任命して全面的に支援、日本軍は朝鮮半島南部に上陸し、白村江の戦いを戦ったが、唐と新羅の連合軍に敗北した。

直木孝次郎は皇極天皇のこれらの動向について、記紀における神功皇后の三韓征伐説話のモデルになったのではないかと推測している。

年譜
斉明天皇元年(655年)
・7月11日 - 北の蝦夷99人・東の蝦夷95人・百済の調使150人を饗応。
・8月1日 - 河辺麻呂が大唐から帰国。
・10月13日 - 小墾田に宮を造ろうとしたが、中止。
・冬 - 飛鳥板蓋宮が火災に遭い、飛鳥川原宮に遷幸。
斉明天皇2年(656年・63歳)
・8月8日 - 高句麗が大使に達沙、副使に伊利之、総計81人を遣わし、調を進める。
・9月 - 高句麗へ、大使に膳葉積、副使に坂合部磐鍬以下の使を遣わす。飛鳥の岡本に宮を造り始める。途中、高句麗、百済、新羅が使を遣わして調を進めたため、紺の幕を張って饗応。やがて宮室が建ったので、そこに遷幸し後飛鳥岡本宮と名付けるが、岡本宮が火災に遭う。香久山の西から石上山まで溝を掘り、舟で石を運んで石垣を巡らせた。
・吉野宮を作る。
・多武峰に両槻宮を作る。この時期、天皇主導での土木工事が相次ぎ、掘った溝は後世に「狂心の渠」と揶揄された。西海使の佐伯栲縄と吉士国勝らが百済より還って、鸚鵡を献上する。
斉明天皇3年(657年・64歳)
・7月3日 - 覩貨邏国(とからのくに)の男2人・女4人が筑紫に漂着したので、召す。
・7月15日 - 須弥山の像を飛鳥寺の西に造り、盂蘭盆会を行なった。暮に覩貨邏人を饗応。
・9月 - 有間皇子が狂を装い、牟婁温湯に行き、帰って景勝を賞賛した。天皇はこれを聞いて悦び、行って観たいと思う。この年 - 使を新羅に遣って、僧の智達・間人御厩・依網稚子らを新羅の使に付けて大唐に送ってほしいと告げる。新羅が受け入れなかったので、智達らは帰国。
・1月13日 - 左大臣巨勢徳多が死去。
・4月 - 阿倍比羅夫が蝦夷に遠征する。降伏した蝦夷の恩荷を渟代・津軽二郡の郡領に定め、有馬浜で渡島の蝦夷を饗応。
・5月 - 皇孫の建王が8歳で薨去。天皇は甚だ哀しんだ。
・7月4日 - 蝦夷二百余が朝献する。常よりも厚く饗応し、位階を授け、物を与える。
・7月 - 僧の智通と智達が勅を受けて新羅の船に乗って大唐国に行き、玄奘法師から無性衆生義(法相宗)を受ける。
・10月15日 - 紀温湯に行く。
・11月5日 - 蘇我赤兄が有間皇子の謀反を通報。
・11月11日 - 有間皇子を絞首刑に、塩屋鯯魚と新田部米麻呂を斬刑にする。この年 - 沙門の智喩が指南車を作る。
斉明天皇5年(659年・66歳)
・1月3日 - 紀温湯から帰る。
・3月1日 - 吉野に行く。
・3月3日 - 近江の平浦に行幸。
・3月10日 - 吐火羅人が妻の舎衛婦人と共に来る。
・3月17日 - 甘檮丘の東の川辺に須弥山を造り陸奥と越の蝦夷を饗応。
・3月 - 阿倍比羅夫に蝦夷国を討たせる。阿倍は一つの場所に飽田・渟代二郡の蝦夷241人とその虜31人、津軽郡の蝦夷112人とその虜4人、胆振鉏の蝦夷20人を集めて饗応し禄を与える。後方羊蹄に郡領を置く。粛慎 (みしはせ)(オホーツク文化人)と戦って帰り、虜49人を献じる。
・7月3日 - 坂合部石布と津守吉祥を唐国に遣わす。
・7月15日 - 群臣に詔して、京の内の寺に盂蘭盆経を説かせ、七世の父母に報いさせる。
斉明天皇6年(660年・67歳)
・1月1日 - 高句麗の使者、賀取文ら百人余が筑紫に到着。
・3月 - 阿倍比羅夫に粛慎 (みしはせ)を討たせる。比羅夫は、大河のほとりで粛慎に攻められた渡島の蝦夷に助けを求められる。比羅夫は粛慎を幣賄弁島まで追って彼らと戦い、これを破る。
・5月8日 - 賀取文らが難波館に到着。
・5月 - 勅して百の高座と百の納袈裟を作り、仁王般若会を行う。皇太子(中大兄皇子)が初めて漏刻を作る。阿倍比羅夫が夷50人余りを献じる。石上池のほとりに須弥山を作り、粛慎 (みしはせ)47人を饗応。国中の百姓が、訳もなく武器を持って道を往来。
・7月16日 - 賀取文らが帰る。覩貨邏人の乾豆波斯達阿が帰国のための送使を求め、妻を留めて数十人と西海の路に入る。
・7月 - 百済が唐と新羅により滅亡。
・9月5日 - 百済の建率の某と沙弥の覚従らが来日。鬼室福信が百済復興のために戦っていることを伝える。
・10月 - 鬼室福信が貴智らを遣わして唐の俘百余人を献上し、援兵を求め、皇子の扶余豊璋の帰国を願う。天皇は百済を助けるための出兵を命じ、また、礼を尽くして豊璋を帰国させるよう命じる。
・12月24日 - 軍器の準備のため、難波宮へ行幸。
斉明天皇7年(661年・68歳)
・1月6日 - 西に向かって出航。
・1月8日 - 大伯海に至る。大田皇女が皇女を産み、大伯皇女と名付ける。
・1月14日 - 伊予の熟田津の石湯行宮に泊まる。
・3月25日 - 娜大津に着き、磐瀬行宮に居す。
・4月 - 百済の福信が、使を遣わして王子の糺解の帰国を求める。
・5月9日 - 朝倉橘広庭宮に遷幸。
・5月23日 - 耽羅が初めて王子の阿波伎らを遣わして貢献。
・7月24日 - 朝倉宮で崩御。
・8月1日 - 皇太子が天皇の喪に付き添い、磐瀬宮に到着。
・10月7日 - 天皇の喪が帰りの海路に出航。
・10月23日 - 天皇の喪が難波津に着く。
・11月7日 - 飛鳥の川原で殯した。9日まで発哀。

陵・霊廟 
陵(みささぎ)は、宮内庁により奈良県高市郡高取町大字車木にある越智崗上陵(おちのおかのえのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。遺跡名は「車木ケンノウ古墳」で、直径約45メートルの円墳である。ただし、研究者の間では明日香村の牽牛子塚古墳が陵墓として有力視されており、そのほか同村の岩屋山古墳、橿原市の小谷古墳も候補としてあげられている。また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。

研究 
河内祥輔は、舒明天皇には敏達・推古両天皇の皇女である田眼皇女も妃にいたにも関わらず、敏達天皇の皇曾孫に過ぎず且つ一度婚姻経験のある皇極天皇が皇后になったのを疑問として、天智天皇の生母として後世に「皇后」としての地位を付与されたとする説を採る。また、仮説としながらも寶女王の天皇在位を斉明天皇としてのみとして、舒明天皇崩御後から孝徳天皇即位までは内乱による天皇空位期であり、上宮王家滅亡から古人大兄皇子殺害までの「事件」は内乱による「戦い」であった可能性を指摘している。

乙巳の変と皇極王権否定説 
乙巳の変はこれまでの大王(天皇)の終身性を否定し、皇極天皇による譲位を引き起こした。佐藤長門は乙巳の変は蘇我氏のみならず、蘇我氏にそれだけの権力を与えてきた皇極天皇の王権そのものに対する異議申し立てであり、実質上の王殺しとする。ただし、首謀者の中大兄皇子は皇極の実子であり実際には大臣の蘇我氏を討つことで異議申し立てを行い、皇極は殺害される代わりに強制的に退位を選ばせざるを得ない状況に追い込まれた。ところが、次代の孝徳天皇(軽皇子)の皇太子となった中大兄は最終的には天皇と決別してしまった。孝徳天皇の王権を否定したことで後継者としての正統性を喪失した中大兄皇子は、自己の皇位継承者としての正統性を確保する必要に迫られて乙巳の変において否定した筈の皇極天皇の重祚(斉明天皇)に踏み切った。

だが、排除した筈の大王(天皇)の復帰には内外から激しい反発を受け、重祚した天皇による失政もあり、重祚を進めた中大兄の威信も傷つけられた。斉明天皇の崩御後に群臣の支持を得られなかった中大兄は百済救援を優先させるとともに群臣の信頼を回復させるための時間が必要であったため、自身の即位を遅らせたとする。
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✳1淡海三船
淡海三船『前賢故実』より
時代:奈良時代後期
生誕:養老6年(722年)死没延暦4年7月17日(785年8月26日)
改名:御船王→元開(法名)→御船王→淡海三船
主君:孝謙天皇→淳仁天皇→称徳天皇→光仁天皇→桓武天皇
氏族:淡海真人
父:池辺王
淡海 三船(おうみ の みふね)は、奈良時代後期の皇族・貴族・文人。始め御船王を名乗るが、臣籍降下し淡海真人姓となる。天智天皇の玄孫。大友皇子の曽孫。式部卿・葛野王の孫、内匠頭・池辺王の子。官位は従四位下・刑部卿。勲等は勲三等。

経歴 
天平年間に唐僧・道璿に従って出家し、元開と号す。

孝謙朝の天平勝宝3年(751年)30人ほどの諸王に対して真人姓の賜姓降下が行われた際、勅命により還俗して御船王に戻ったのち、淡海真人の氏姓を与えられて臣籍に降下、淡海三船と名を改めた。のち、式部少丞・内豎を歴任するが、天平勝宝8歳(756年)朝廷を誹謗したとして、出雲守・大伴古慈斐と共に衛士府に禁固され、間もなく放免されている。

淳仁朝では、尾張介・山陰道巡察使を経て、天平宝字5年(761年)従五位下・駿河守に叙任されるなど、地方官を歴任する。天平宝字6年(762年)文部少輔。天平宝字8年(764年)8月に美作守に任ぜられ再び地方官に転じる。同年9月に発生した恵美押勝の乱の際に、藤原仲麻呂が宇治から近江国へ逃れ各地に使者を派遣して兵馬の調達をしていたところ、造池使としてため池を造成するために近江国勢多にいた三船は造池使判官・佐伯三野と共に仲麻呂の使者とその一味を捕縛するなど、孝謙上皇側に加勢して活動する。乱後、三船は功労によって三階昇進して正五位上へ昇叙と勲三等の叙勲を受け、近江介に任ぜられた。また、天平神護2年(766年)になってから、功田20町を与えられている。

称徳朝では、兵部大輔・侍従を歴任し、天平神護2年(766年)には東山道巡察使に任じられる。しかし、巡察使として名誉や栄達を気にして地方官に対する検察が厳格に過ぎ、特に下野国の国司らの不正行為(正税の未納・官有物の横領)に関して、下野介・弓削薩摩のみに対して外出を禁じて職務に就かせず、さらに薩摩が恩赦を受けたのちにさらに弁舌を振るって罪に問おうとしたことが問題とされ、翌神護景雲元年(767年)6月に巡察使を解任され、8月には大宰少弐に転じている。

光仁朝に入ると、宝亀2年(771年)の刑部大輔と京官に服し、のち大学頭・文章博士などを歴任して、宝亀11年(780年)従四位下に叙せられている。

桓武朝の延暦3年(784年)刑部卿に転じるが、翌延暦4年(785年)7月17日卒去。享年64。最終官位は刑部卿従四位下兼因幡守。

人物 
聡明で鋭敏な性質で、多数の書物を読破し文学や歴史に通じていた。また書を書くことを非常に好んだという。奈良時代末期に文人として石上宅嗣と双璧をなし、二人が「文人の首」と称されたという。若いときに唐人の薫陶を受けた僧であったこともあり、外典・漢詩にも優れていた。『経国集』に漢詩5首を載せ、現存最古の漢詩集『懐風藻』の撰者とする説が有力である。また、『釈日本紀』所引「私記」には、三船が神武天皇から元正天皇までの全天皇(当時は帝に数えられていなかった曽祖父の弘文天皇と、すでに諡号を贈られていた文武天皇を除く)と15代帝に数えられていた神功皇后の漢風諡号を一括撰進したことが記されている。「文武天皇」の初出は『懐風藻』であり、この諡号にも三船が関与した可能性はある。『広辞苑』第7版では「淡海三船」は「神武天皇から光仁天皇までの漢風諡号を選定したともいわれる」と記されている(ただし弘文天皇と淳仁天皇は除くと考えられる)。また、宝亀10年(779年)には鑑真の伝記『唐大和上東征伝』を記した。『続日本紀』前半の編集にも関与したとされる。『日本高僧伝要文抄』に『延暦僧録』の「淡海居士伝」が一部残っている。

子孫 
貞観15年(873年)に淡海朝臣姓を賜与された、淡海浜成・高主を三船の孫とする系図がある。――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
No.6 持統天皇 686−697年譲位 日本の第41代天皇

持統天皇(じとうてんのう、645年〈大化元年〉 - 703年1月13日〈大宝2年12月22日〉)は、日本の第41代天皇(在位:690年2月14日〈持統天皇4年1月1日〉 - 697年8月22日〈持統天皇11年8月1日〉)。天武天皇の皇后。史上三人目の女性天皇。

在位期間:690年2月14日 - 697年8月22日
時代:飛鳥時代
先代:天武天皇
次代:文武天皇
誕生:645年 崩御:703年1月13日
陵所:檜隈大内陵・野口王墓古墳
皇居:飛鳥浄御原宮・藤原宮

女帝
諱は鸕野讚良(うののさらら、うののささら)。和風諡号は2つあり、『続日本紀』の703年(大宝3年)12月17日の火葬の際の「大倭根子天之廣野日女尊」(おほやまとねこあめのひろのひめのみこと)と、『日本書紀』の720年(養老4年)に代々の天皇とともに諡された「高天原廣野姫天皇」(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)がある(なお『日本書紀』において「高天原」が記述されるのは冒頭の第4の一書とこの箇所のみである)。漢風諡号「持統天皇」は代々の天皇とともに淡海三船により、熟語の「継体持統」から持統と名付けられたという。

生涯  壬申の乱の前まで
父は天智天皇(中大兄皇子)、母は遠智娘といい、母方の祖父が蘇我倉山田石川麻呂である。父母を同じくする姉に大田皇女がいた。大化5年(649年)、誣告により祖父の蘇我石川麻呂が中大兄皇子に攻められ自殺した。石川麻呂の娘で中大兄皇子の妻だった造媛(みやつこひめ)は父の死を嘆き、やがて病死した。『日本書紀』の持統天皇即位前紀には、遠智娘は美濃津子娘(みのつこのいらつめ)ともいうとあり、美濃は当時三野とも書いたので、三野の「みの」が「みや」に誤られて造媛と書かれる可能性があった。美濃津子娘と造媛が同一人物なら、鸕野讃良は幼くして母を失ったことになる。

斉明3年(657年)、13歳で叔父の大海人皇子(後の天武天皇)に嫁した。中大兄皇子は彼女だけでなく大田皇女、大江皇女、新田部皇女の娘4人を弟の大海人皇子に与えた。斉明7年(661年)には、夫とともに天皇に随行し、九州まで行った。天智元年(662年)に筑紫国の娜大津で鸕野讃良皇女は草壁皇子を産み[4]、翌年に大田皇女が大津皇子を産んだ。天智6年(667年)以前に大田皇女が亡くなったので、鸕野讃良皇女が大海人皇子の妻の中でもっとも身分が高い人になった。

壬申の乱 
天智天皇10年(671年)、大海人皇子が政争を避けて吉野に隠棲したとき、草壁皇子を連れて従った。『日本書紀』などに明記はないが、大海人皇子の妻のうち、吉野まで従ったのは鸕野讃良皇女だけではなかったかとされる。大海人皇子は翌年に決起して壬申の乱を起こした。皇女は草壁皇子と忍壁皇子を連れて、夫に従い美濃国に向けた脱出の強行軍を行った。疲労のため大海人一行と別れて伊勢国桑名にとどまったが、『日本書紀』には大海人皇子と「ともに謀を定め」たとあり、乱の計画に与ったことが知られる。壬申の乱のときに土地の豪族・尾張大隅が天皇に私宅を提供したことが『続日本紀』によって知られる。この天皇は天武天皇とされることが多いが、持統天皇にあてる説もある。

天武天皇の皇后 
大海人皇子が乱に勝利して天武天皇2年正月に即位すると、鸕野讃良皇女が皇后に立てられた。

『日本書紀』によれば、天武天皇の在位中、皇后は常に天皇を助け、そばにいて政事について助言した。

679年に天武天皇と皇后、6人の皇子は、吉野の盟約を交わした。6人は草壁皇子、大津皇子、高市皇子、忍壁皇子、川島皇子、志貴皇子で、川島と志貴が天智の子、残る4人は天武の子である。天武は皇子に互いに争わずに協力すると誓わせ、彼らを抱擁した。続いて皇后も皇子らを抱擁した。

皇后は病を得たため、天武天皇は薬師寺の建立を思い立った。

681年、天皇は皇后を伴って大極殿にあり、皇子、諸王、諸臣に対して律令の編纂を始め、当時19歳の草壁皇子を皇太子にすることを知らせた。当時、実務能力がない年少者を皇太子に据えた例はなかった。皇后の強い要望があったと推測される。

685年頃から、天武天皇は病気がちになり、皇后が代わって統治者としての存在感を高めていった。686年7月に、天皇は「天下の事は大小を問わずことごとく皇后及び皇太子に報告せよ」と勅し、持統天皇・草壁皇子が共同で政務を執るようになった。

大津皇子の謀反 
大津皇子は草壁皇子より1歳年下で、母の身分は草壁皇子と同じであった。立ち居振る舞いと言葉遣いが優れ、天武天皇に愛され、才学あり、詩賦の興りは大津より始まる、と『日本書紀』は大津皇子を描くが、草壁皇子に対しては何の賛辞も記さない。草壁皇子の血統を擁護する政権下で書かれた『日本書紀』の扱いがこうなので、諸学者のうちに2人の能力差を疑う者はいない。2人の母は姉妹であって、大津皇子は早くに母を失ったのに対し、草壁皇子の母は存命で皇后に立って後ろ盾になっていたところが違っていた。草壁皇子が皇太子になった後に、大津皇子も朝政に参画したが、皇太子としての草壁皇子の地位は定まっていた。

しかし、天武天皇の死の翌10月2日に、大津皇子は謀反が発覚して自殺した。川島皇子の密告という。具体的にどのような計画があったかは史書に記されない。皇位継承を実力で争うことはこの時代までよくあった。そこで、大津皇子に皇位を求める動きか、何か不穏な言動があり、それを察知した持統天皇が即座につぶしたのではないかと解する者がいる。謀反の計画はなく、草壁皇子のライバルに対して持統天皇が先制攻撃をかけたのではないかと考える者も多い。いずれにせよ、速やかな反応に持統天皇の意志を見る点は共通している。

持統天皇の称制と即位 
天武天皇は、2年3ヶ月にわたり、皇族・臣下をたびたび列席させる一連の葬礼を経て葬られた。このとき皇太子が官人を率いるという形が見られ、草壁皇子を皇位継承者として印象付ける意図があったともされる。ところが、689年4月に草壁皇子が病気により他界したため、皇位継承の計画を変更しなければならなくなった。鸕野讃良は草壁皇子の子(つまり鸕野讃良の孫にあたる)軽皇子(後の文武天皇)に皇位継承を望むが、軽皇子は幼く(当時7歳)当面は皇太子に立てることもはばかられた。こうした理由から鸕野讃良は自ら天皇に即位することにした。その即位の前年に、前代から編纂事業が続いていた飛鳥浄御原令を制定、施行した。同年の12月8日には、双六を禁止している。持統天皇の即位の儀式の概略は、天武天皇の葬礼とともに、『日本書紀』にかなり具体的に記されている。ただし以前の儀式が詳しく記されていないので正確なところは不明だが、盾、矛を立てた例は前にもあり、天つ神の寿詞を読み上げることと、公卿が連なり遍く拝みたてまつり、手拍つというのは初見である。また前代にみられた群臣の協議・推戴はなかった。全体に古式を踏襲したものとみなす見解もあるが、新しい形式の登場に天皇の権威の上昇を見る学者が多い。即位の後、大赦を行い、天皇は大規模な人事交代を行い、高市皇子を太政大臣に、多治比島を右大臣に任命した。ついに一人の大臣も任命しなかった天武朝の皇親政治は、ここで修正されることになった。

持統天皇の治世 
天武天皇の政策の継承 
持統天皇の治世は、天武天皇の政策を引き継ぎ、完成させるもので、飛鳥浄御原令の制定と藤原京の造営が大きな二本柱である。第一回神宮式年遷宮と新しい京の建設は天武天皇の念願であり、既に着手されていたとも、持統天皇が開始したとも言われる。未着手とする説では、その理由が民の労役負担を避けるためだったと説かれるので、後述の伊勢行幸ともども、天武の治世と微妙に異なる志向がある。また、官人層に武備・武芸を奨励して、天武天皇の政策を忠実に引き継いだ。墓記を提出させたのは、天武天皇の歴史編纂事業を引き継ぐものであった。民政においては、戸籍を作成した。庚寅の造籍という。687年7月には、685年より前の負債の利息を免除した。奴婢(ぬひ)身分の整頓を試み、百姓・奴婢に指定の色の衣服を着るよう命じた。こうした律令国家建設・整備政策と同時に持統天皇が腐心したのは、天武の権威を自らに移し借りることであったようである。天武天皇がカリスマ的権威を一身に体現し、個々の皇族・臣下の懐柔や支持を必要としなかったのとは異なっている。持統天皇は、柿本人麻呂に天皇を賛仰する歌を作らせた。人麻呂は官位こそ低かったものの、持統天皇から個人的庇護を受けたらしく、彼女が死ぬまで「宮廷詩人」として天皇とその力を讃える歌を作り続け、その後は地方官僚に転じた。天武との違いで特徴的なのは、頻繁な吉野行幸である。夫との思い出の地を訪れるというだけでなく、天武天皇の権威を意識させ、その権威を借りる意図があったのではないかと言われる。他に伊勢国に一度、紀伊国に一度の行幸を記録する。『万葉集』の記述から近江に一度の行幸も推定できる。692年3月3日の伊勢行幸では、農事の妨げになるという中納言・三輪高市麻呂のかん言を押し切った。この行幸には続く藤原京の造営に地方豪族層を協力させる意図が指摘される。持統天皇は、天武天皇が生前に皇后(持統)の病気平癒を祈願して造営を始めた大和国の薬師寺を完成させ、勅願寺とした。

外交政策 
外交では前代から引き続き新羅と通交し、唐とは公的な関係を持たなかった。日本書紀の持統4年(690年)の項に以下の主旨の記述がある。持統天皇は、筑後国上陽咩郡(上妻郡)の住人大伴部博麻に対して、「百済救援の役でその方は唐の抑留捕虜とされた。その後、土師連富杼、氷連老、筑紫君薩夜麻、弓削連元宝の子の四人が、唐で日本襲撃計画を聞き、朝廷に奏上したいが帰れないことを憂えた。その時その方は富杼らに『私を奴隷に売り、その金で帰朝し奏上してほしい』と言った。そのため、筑紫君薩夜麻や富杼らは日本へ帰り奏上できたが、その方はひとり30年近くも唐に留まった後にやっと帰ることが出来た。自分は、その方が朝廷を尊び国へ忠誠を示したことを喜ぶ。」と詔して、土地などの褒美を与えた。新羅に対しては対等の関係を認めず、向こうから朝貢するという関係を強いたが、新羅は唐との対抗関係からその条件をのんで関係を結んだようである。日本からは新羅に学問僧など留学生が派遣された。

文武天皇への譲位 
持統天皇の統治期間の大部分、高市皇子が太政大臣についていた。高市は母の身分が低かったが、壬申の乱での功績が著しく、政務にあたっても信望を集めていたと推察される。公式に皇太子であったか、そうでなくとも有力候補と擬せられていたのではないかと説かれる。その高市皇子が持統天皇10年7月10日に薨去した。『懐風藻』によれば、このとき持統天皇の後をどうするかが問題になり、皇族・臣下が集まって話し合い、葛野王の発言が決め手になって697年2月に軽皇子が皇太子になった。 この一連の流れを持統天皇による一種のクーデターとみなす説もある。持統天皇は8月1日に15歳の軽皇子に譲位した。文武天皇である。日本史上、存命中の天皇が譲位したのは皇極天皇に次ぐ2番目で、持統は初の太上天皇(上皇)になった。

譲位後の持統上皇 
譲位した後も、持統上皇は文武天皇と並び座して政務を執った。文武天皇時代の最大の業績は大宝律令の制定・施行だが、これにも持統天皇の意思が関わっていたと考えられる。しかし、壬申の功臣に代わって藤原不比等ら中国文化に傾倒した若い人材が台頭し、持統期に影が薄かった刑部親王(忍壁皇子)が再登場したことに、変化を見る学者もいる。持統上皇は大宝元年(701年)にしばらく絶っていた吉野行きを行った。翌年には三河国まで足を伸ばす長旅に出て、壬申の乱で功労があった地方豪族をねぎらった。

崩御 
大宝2年(702年)の12月13日に病を発し、22日に崩御した。宝算58。1年間の殯(もがり)の後、火葬されて天武天皇陵に合葬された。天皇の火葬はこれが初の例であった

人物評価・歴史学上の論点
『日本書紀』は、持統天皇を「深沈で大度」、「礼を好み節倹」、「母の徳あり」などとする。

女帝持統の役割と野心 
持統天皇は、7世紀から8世紀の日本古代に特徴的な女性天皇(女帝)の一人である。他の女帝についてしばしば政権担当者が別に想定されるのと異なり、持統天皇の治世の政策は持統天皇が推進した政策と理解される。持統天皇が飾り物でない実質的な、有能な統治者であったことは、諸学者の一致するところである。『日本書紀』には天武天皇を補佐して天下を定め、様々に政治について助言したとあり、『続日本紀』には文武天皇と並んで座って政務をとったとあるので、持統の政治関与は在位期間に限られていない。持統天皇は天武天皇とともに「大君は神にしませば」と歌われており、天皇権力強化路線の最高到達点とも目される。

政治家としての持統天皇の役割・動機は、天武天皇から我が子の草壁皇子・孫の軽皇子に皇位を伝えることであったとするのが通説である。持統天皇は草壁皇子が天武天皇の後を嗣ぐことを望み、夫に働きかけて草壁を皇太子に就け、夫の死後に草壁のライバルであった大津皇子を排除した。天武天皇の葬礼が終わったあとに草壁皇子を即位させるつもりだったが、その実現前に皇子が死んだために、やむなく自らが即位したと解する。近年では、女帝一般が飾り物ではなく、君主として実質的な権力を振るったと考える傾向もあり、鸕野讃良皇女自身が初めから皇位に向けた政治的野心を持っていたとする説が出てきた。天武天皇が自らを漢の高祖になぞらえたらしいことから、持統天皇は自らをその妻で夫の死後政治の実権を握った呂太后になぞらえたのではないかと推測する学者もいる。

持統天皇による謀略説 
持統天皇の積極的性格と有能さを前提として、彼女による様々な謀略が説かれている。壬申の乱では鸕野讃良皇女が大海人皇子に協力したとするのが通説だが、彼女こそが乱の首謀者であるという説がある。大津皇子の謀反については、持統天皇の攻撃的意図を見ない人の方が少ない。大津皇子の無実を説くか、そうでなくともわずかな言葉をとらえて謀反に仕立て上げられたと考える学者が多い。関連して『万葉集』の歌にまつわる対大津監視スパイ説がある。万葉学者の吉永登は、石川郎女と寝たことを津守通に占いで看破されて大津皇子が詠んだ歌について、津守は占いではなく密偵によって知ったのではないかという。直木孝次郎がこれを支持して持統の指示によるのではないかと推測している。

血縁 
父:天智天皇
母:蘇我遠智娘
同母姉弟:大田皇女、建皇子
夫:天武天皇
子:草壁皇子
孫:珂瑠皇子(文武天皇)、氷高皇女(元正天皇) 、吉備内親王(長屋王妃)

子孫 
持統天皇の子は草壁皇子ただ1人のみであったが、その系統は天皇家の嫡流として奈良時代における文化・政治の担い手となった。しかしながら、皇統の神聖さとその維持を目的として、近親婚が繰り返されたために、天武天皇と持統天皇の男系子孫の多くは病弱で短命であった。そのような状況が、奈良時代における、皇位継承に関する様々な紛争の要因となった。そして、玄孫の基王と孝謙・称徳天皇が亡くなった後、天智天皇系の光仁天皇が即位し、天武・持統天皇の血統の天皇は途絶えた。光仁天皇の皇后には、称徳天皇の姉妹である井上内親王が立てられ、その子の他戸親王(持統天皇の来孫)が立太子された。しかし、他戸親王は謀反の罪に問われて庶人に落とされ、そのまま没した。また、他戸親王の姉・酒人内親王は桓武天皇の妃となり朝原内親王(平城天皇の妃)を産んだが、朝原内親王は子を成さなかった。臣籍降下した中では、昆孫の峯緒王が承和11年(844年)に高階真人姓を賜り高階氏の祖となった。高階氏出身の高階貴子(持統天皇の10親等の子孫)が藤原道隆の妻となり、その子孫にあたる坊門殖子が高倉天皇の典侍となり後鳥羽天皇を産んだため、現在の皇室は持統天皇の血を引く。(高階峯緒の子、高階師尚は養子であるという風説が古くからあるが、あくまで伝承の域を出ない。)また、皇族の身分をはく奪された来孫の氷上川継、曾孫の説のある高円広成・高円広世など、歴史からは姿を消したものの、彼らを通じて持統天皇の血をひく子孫がいる可能性がある。

:草壁皇子
:文武天皇・元正天皇・吉備内親王
曾孫:聖武天皇(文武天皇の子)・高円広成(同上・異説あり)・高円広世(同上・異説あり)・膳夫王(吉備内親王の子)・桑田王(同上)・葛木王(同上)・鉤取王(同上)
玄孫:孝謙・称徳天皇(聖武天皇の子)・基王(同上)・井上内親王(同上)・不破内親王(同上)・安積親王(同上)・磯部王(桑田王の子)
来孫:酒人内親王(井上内親王の子)・他戸親王(同上)・氷上志計志麻呂(不破内親王の子)・氷上川継(同上)・石見王(磯部王の子)
昆孫:朝原内親王(酒人内親王の子)・高階峯緒(石見王の子)

万葉歌人  百人一首「春過ぎて」の歌
万葉歌人としても『万葉集』巻1雑歌28に藤原宮御宇天皇代(高天原廣野姫天皇 元年丁亥11年譲位軽太子尊号曰太上天皇)天皇御製歌として名を留めている。

「春過而 夏來良之 白妙能 衣乾有 天之香來山」
春過ぎて 夏来るらし 白妙の 衣干したり 天香具山(定訓)
春過ぎて夏ぞ來ぬらし白妙の衣かはかすあまのかぐ山(「古来風躰抄』)
この歌は『小倉百人一首』にも選ばれている。「春すぎて夏來にけらし白妙の 衣ほすてふ天の香具山」(『小倉百人一首』)

陵・霊廟
天武天皇・持統天皇 檜隈大内陵(奈良県高市郡明日香村)
陵(みささぎ)は、宮内庁により奈良県高市郡明日香村大字野口にある檜隈大内陵(桧隈大内陵:ひのくまのおおうちのみささぎ)に治定されている。天武天皇との合葬陵で、宮内庁上の形式は上円下方(八角)。遺跡名は「野口王墓古墳」。大化2年に出された薄葬令により天皇としては初めて火葬された。この陵は古代の天皇陵としては珍しく、治定に間違いがないとされる。天武天皇とともに合葬され、持統天皇の遺骨は夫の棺に寄り添うように銀の骨つぼに収められていた。しかし、1235年(文暦2年)に盗掘に遭った際に骨つぼだけ奪い去られて遺骨は近くに捨てられたという。藤原定家の『明月記』に盗掘の顛末が記されている。また、盗掘の際に作成された『阿不幾乃山陵記』に石室の様子が書かれている。『明月記』には「女帝の御骨においては、銀の筥を盗むため、路頭に棄て奉りしと言う。塵灰と言えども探しだし、拾い集めてもとに戻すべきであろう。ひどい話だ。」とあり、崩御の500年後に夫・天武天皇と引き離され打ち捨てられた持統天皇の悲惨さを物語っている。上記とは別に、奈良県橿原市五条野町にある宮内庁の畝傍陵墓参考地(うねびりょうぼさんこうち)では、持統天皇と天武天皇が被葬候補者に想定されている。遺跡名は丸山古墳(五条野丸山古墳)。また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。

持統天皇を主題とする作品 
・漫画 
里中満智子『天上の虹 持統天皇物語』
長岡良子『古代幻想ロマンシリーズ・眉月の誓』
大和和紀『天の果て地の限り』
そにしけんじ『ねこねこ日本史 第2巻』
・小説 
阿夫利千恵『妖の女帝 持統天皇』
小石房子『鉄の女帝持統』
近藤精一郎『白鳳の女帝―持統天皇私伝』
三田誠広『炎の女帝 持統天皇』        
坂東眞砂子『朱鳥の陵』
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No.7 元明天皇 707−715年譲位 日本の第43代天皇
元明天皇(げんめいてんのう、661年〈斉明天皇7年〉 - 721年12月29日〈養老5年12月7日〉)は、日本の第43代天皇(在位:707年8月18日〈慶雲4年7月17日〉- 715年10月3日〈和銅8年9月2日〉)。

在位期間:707年8月18日 - 715年10月3日
時代:奈良時代
先代:文武天皇
次代:元正天皇
誕生:661年~崩御:721年12月29日
陵所:奈保山東陵
和風諡号:日本根子天津御代豊國成姫天皇
父親:天智天皇
母親:蘇我姪娘
皇配:草壁皇子
子女:元正天皇・文武天皇・吉備内親王
皇居:藤原京・平城京

諱は阿閇(あへ)。阿部皇女とも。天智天皇の皇女で、母は蘇我倉山田石川麻呂の娘・姪娘(めいのいらつめ)。持統天皇は父方では異母姉、母方では従姉で、夫の母であるため姑にもあたる。大友皇子(弘文天皇)は異母兄。天武天皇と持統天皇の子・草壁皇子の正妃であり、文武天皇と元正天皇の母。藤原京から平城京へ遷都、『風土記』編纂の詔勅、先帝から編纂が続いていた『古事記』を完成させ、和同開珎の鋳造等を行った。

略歴 
天武天皇4年(675年)に、十市皇女と共に伊勢神宮に参拝したという記録がある。天武天皇8年(679年)頃、1歳年下である甥の草壁皇子と結婚した。同9年(680年)に氷高皇女を、同12年(683年)に珂瑠皇子を産んだ。同10年2月25日(681年3月19日)に草壁皇子が皇太子となるものの、持統天皇3年4月13日(689年5月7日)に草壁皇子は即位することなく早世した。姉で義母でもある鸕野讃良皇女(持統天皇)の即位を経て、文武元年8月17日(697年9月7日)に息子の珂瑠皇子が文武天皇として即位し、同日自身は皇太妃となった。

慶雲4年(707年)4月には夫・草壁皇子の命日(旧暦4月13日)のため国忌に入ったが、直後の6月15日(707年7月18日)、息子の文武天皇が病に倒れ、25歳で崩御してしまった。残された孫の首(おびと)皇子(後の聖武天皇)はまだ幼かったため、中継ぎとして、初めて皇后を経ないで即位した。ただし、義江明子説では持統上皇の崩御後、文武天皇の母である阿閇皇女が事実上の後見であり、皇太妃の称号自体が太上天皇に代わるものであったとする。

慶雲5年1月11日(708年2月7日)、武蔵国秩父(黒谷)より銅(和銅)が献じられたので和銅に改元し、和同開珎を鋳造させた。この時期は大宝元年(701年)に作られた大宝律令を整備し、運用していく時代であったため、実務に長けていた藤原不比等を重用した。

復元された平城京の第一次大極殿
和銅3年3月10日(710年4月13日)、藤原京から平城京に遷都した。左大臣石上麻呂を藤原京の管理者として残したため、右大臣藤原不比等が事実上の最高権力者になった。

同5年(712年)正月には、諸国の国司に対し、荷役に就く民を気遣う旨の詔を出した。同年には天武天皇の代からの勅令であった『古事記』を献上させた。翌同6年(713年)には『風土記』の編纂と好字令(「諸国郡郷名著好字令」)を詔勅した。

715年には郷里制が実施されたが、同年9月2日、自身の老いを理由に譲位することとなり、孫の首皇子はまだ若かったため、娘の氷高(ひたか)皇女(元正天皇)に皇位を譲って同日太上天皇となった。女性天皇同士の皇位の継承は日本史上唯一の事例となっている。養老5年(721年)5月に発病し、娘婿の長屋王と藤原房前に後事を託し、さらに遺詔として葬送の簡素化を命じて、12月7日に崩御した。宝算61。

和銅発見の地、埼玉県秩父市黒谷に鎮座する聖神社には、元明天皇下賜と伝えられる和銅製蜈蚣雌雄一対が神宝として納められている。また、養老6年(722年)11月13日に元明金命(げんみょう こがねの みこと)として合祀され今日に至る。

元明天皇に関する歌 
『万葉集』に以下の歌が残されている。

勢の山を越ゆる時に、阿閇皇女の作らす歌
これやこの大和にしては我が恋ふる 紀路にありといふ名に負ふ勢の山
越勢能山時阿閇皇女御作歌
此也是能 倭尓四手者 我戀流 木路尓有云 名二負勢能山 [巻1-35]
和銅元年戊申 天皇の御製
大夫(ますらを)の鞆の音すなり物部の 大臣(おほまへつきみ)楯立つらしも
大夫之 鞆乃音為奈利 物部乃 大臣 楯立良思母 [巻1-76]
諡号 
和風諡号は日本根子天津御代豊国成姫天皇(やまと ねこ あまつみよ(みしろ) とよくに なりひめの すめらみこと、旧字体:−豐國成姬−)である。漢風諡号の元明天皇は代々の天皇と共に淡海三船によって撰進されたとされる。

陵・霊廟 :奈保山東陵

奈保山東陵前の立札
陵(みささぎ)は、宮内庁により奈良県奈良市奈良阪町にある奈保山東陵(なほやまのひがしのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は山形。

崩御にさきだって、「朕崩ずるの後、大和国添上郡蔵宝山雍良岑に竈を造り火葬し、他処に改むるなかれ」、「乃ち丘体鑿る事なく、山に就いて竈を作り棘を芟り場を開き即ち喪処とせよ、又其地は皆常葉の樹を植ゑ即ち刻字之碑を立てよ」といういわゆる葬儀の簡素化の詔を出したので、崩御後の12月13日、喪儀を用いず、椎山陵に葬った。

陵号は『続日本紀』奉葬の条には「椎山陵」、天平勝宝4年閏3月の条には「直山陵」、遺詔に「蔵宝山雍良岑」とある。延喜諸陵式には「奈良山東陵」とあり、兆域は「東西三町南北五町」とし、守戸五烟を配し、遠陵に列した。

中世になると陵墓の正確な場所がわからなくなったが、『前王廟陵記』は那富士墓の位置に、『大和志』は大奈辺古墳に、幕末の修陵の際に現在の陵墓に治定され、修補を加え、慶応元年3月16日、広橋右衛門督を遣わして竣工の状況を視し、奉幣した。

遺詔の「刻字之碑」は、中世、陵土の崩壊を見て田間に落ちていたのを発掘し、奈良春日社に安置したのを、明和年間に藤井貞幹が見て『東大寺要録』を参酌して元明天皇陵刻字之碑を考定した。文久年間の修陵の際にこれを陵側に移し、明治29年藤井の「奈保山御陵考」によって模造碑を作り、かたわらに建てた。

また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。

元明天皇が登場する作品 
・漫画 
里中満智子『天上の虹 持統天皇物語』
里中満智子『長屋王残照記』
長岡良子『古代幻想ロマンシリーズ・天ゆく月船』
長岡良子『古代幻想ロマンシリーズ・眉月の誓』
・小説 
小石房子『元明女帝――かぐわしき天平の母』
永井路子『美貌の女帝』
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No.8 元正天皇 680−748年譲位
日本の第44代天皇
元正天皇(げんしょうてんのう、680年〈天武天皇9年〉- 748年5月22日〈天平20年4月21日〉)は日本の第44代天皇(在位:715年10月3日〈霊亀元年9月2日〉- 724年3月3日〈養老8年2月4日〉)。

在位期間:715年10月3日 - 724年3月3日
時代:奈良時代
先代:元明天皇
次代:聖武天皇
誕生:680年 崩御:748年5月22日
和風諡号:日本根子高瑞浄足姫天皇
諱:氷高・日高・新家
父親:草壁皇子
母親:元明天皇
皇居:平城京

父は天武天皇と持統天皇の子である草壁皇子、母は元明天皇。文武天皇の姉。諱は氷高(ひだか)・日高、又は新家(にいのみ)。和風諡号は日本根子高瑞浄足姫天皇(やまとねこたかみずきよたらしひめのすめらみこと)である。漢風諡号の「元正天皇」は代々の天皇と共に淡海三船によって撰進されたとされる。日本の女帝としては5人目であるが、それまでの女帝が皇后や皇太子妃であったのに対し、結婚経験は無く、独身で即位した初めての女性天皇である。

来歴 
天武天皇の皇太子であった草壁皇子の長女として生まれる。母は阿閉皇女(のちの元明天皇)。天皇の嫡孫女として重んじられたようで、天武天皇11年(682年)8月28日に、日高皇女の病により、罪人198人が恩赦された。翌天武天皇12年(683年)、3歳下の同母弟・珂瑠(のちの文武天皇)が誕生。

父・草壁皇子は即位に到らず持統天皇3年(689年)に薨去し、祖母・持統天皇の即位の後、同母弟・珂瑠皇子が文武天皇元年(697年)に持統天皇から譲位されて天皇の位に即いた。当時氷高皇女は18歳であり、天皇の同母姉という立場が非婚に影響したものと思われる。

慶雲4年(707年)に文武天皇が崩御し、その遺児である首皇子(のちの聖武天皇)がまだ幼かったため、母の阿閉皇女が即位、元明天皇となった。和銅3年(710年)、平城京に遷都。和銅7年(714年)1月20日、二品氷高内親王に食封一千戸が与えられる。和銅8年/霊亀元年(715年)1月10日に一品に昇叙。

霊亀元年9月2日、皇太子である甥の首皇子(聖武天皇)がまだ若いため、母・元明天皇から譲位を受け即位。「続日本紀」にある元明天皇譲位の際の詔には「天の縦せる寛仁、沈静婉レンにして、華夏載せ佇り」とあり「慈悲深く落ち着いた人柄であり、あでやかで美しい」と記されている。歴代天皇の中で唯一、母から娘への皇位継承が行われた。 この皇位継承は、父が草壁皇子であるため、男系の血筋をひく女性皇族間での、皇位の男系継承である。

養老元年(717年)から藤原不比等らが中心となって養老律令の編纂を始める。

養老4年(720年)に、日本書紀が完成した。またこの年、藤原不比等が病に倒れ亡くなった。翌年長屋王が右大臣に任命され、事実上政務を任される。長屋王は元正天皇のいとこにあたり、また妹・吉備内親王の夫であった。不比等の長男・武智麻呂は中納言、次男・房前は、未だ参議(その後内臣になる)であった。

養老7年(723年)、田地の不足を解消するために三世一身法が制定された。これにより律令制は崩れ始めていく。

養老8年/神亀元年(724年)2月4日、皇太子(聖武天皇)に譲位し、太上天皇となる。譲位の詔では新帝を「我子」と呼んで譲位後も後見人としての立場で聖武天皇を補佐した。

天平15年(743年)、聖武天皇が病気がちで職務がとれなくなると、上皇は改めて「我子」と呼んで天皇を擁護する詔を出し、翌年には病気の天皇の名代として難波京遷都の勅を発している。晩年期の上皇は、病気がちで政務が行えずに仏教信仰に傾きがちであった聖武天皇に代わって、橘諸兄・藤原仲麻呂らと政務を遂行していたと見られている。

陵・霊廟:奈保山西陵

奈保山西陵前の立札
陵(みささぎ)は、宮内庁により奈良県奈良市奈良阪町にある奈保山西陵(なほやまのにしのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は山形。また皇居では、宮中三殿のひとつ皇霊殿において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。

在位中の元号
霊亀 - 元年9月2日践祚、3年11月17日改元(美濃国に美泉の祥瑞)養老 - 8年2月4日譲位

元正天皇が登場する作品 
・漫画 
里中満智子『天上の虹 持統天皇物語』
里中満智子『長屋王残照記』
里中満智子『女帝の手記―孝謙・称徳天皇物語』
長岡良子『古代幻想ロマンシリーズ・天ゆく月船』
・小説 
永井路子『美貌の女帝』毎日新聞社 1985年
豊田有恒『長屋王横死事件』講談社 1992年
三枝和子『女帝・氷高皇女』講談社 2000年
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――No.9 孝謙天皇 749−758年譲位、(称徳天皇) 重祚764−770年
日本の第46代および第48代天皇
孝謙天皇(こうけんてんのう)、重祚して称徳天皇(しょうとくてんのう;稱德天皇、718年〈養老2年〉- 770年8月28日〈神護景雲4年8月4日〉)は、日本の第46代天皇(在位:749年8月19日〈天平勝宝元年7月2日〉- 758年9月7日〈天平宝字2年8月1日〉)および第48代天皇(在位:764年11月6日〈天平宝字8年10月9日〉- 770年8月28日〈神護景雲4年8月4日〉)。

孝謙天皇 第46代天皇
称徳天皇 第48代天皇
在位期間:
孝謙天皇:749年8月19日 - 758年9月7日
称徳天皇:764年11月6日 - 770年8月28日
時代:奈良時代
先代:聖武天皇(第45代)・淳仁天皇(第47代)
次代:淳仁天皇(第47代)・光仁天皇(第49代)
誕生 718年 崩御 770年8月28日
陵所:高野陵
和風諡号:高野姫天皇
諱:阿倍
別称:宝字称徳孝謙皇帝
父親:聖武天皇
母親:光明皇后
皇配なし
子女なし

父は聖武天皇、母は藤原氏出身で史上初めて人臣から皇后となった光明皇后(光明子)。即位前の名は「阿倍内親王」。生前に「宝字称徳孝謙皇帝」の尊号が贈られている。『続日本紀』では終始「高野天皇」と呼ばれており、ほかに「高野姫天皇」「倭根子天皇(やまとねこのすめらみこと)」とも称された。

史上6人目の女帝で、天武系からの最後の天皇である。この称徳天皇以降は、江戸時代初期に即位した第109代明正天皇(在位:1629年 - 1643年)に至るまで、850余年、女帝が立てられることはなかった。

略歴 
皇太子 
聖武天皇と光明皇后の間にはついに男子が育たず(基王は早世)、阿倍内親王のみであった。聖武天皇と県犬養広刀自との間には安積親王が生まれたが、後ろ盾を持たなかったため即位は望み薄であり、天平10年1月13日(738年2月6日)に阿倍内親王が立太子し、史上唯一の女性皇太子となった。天平15年(743年)5月5日には元正上皇の御前で五節舞を披露している。

天平17年(744年)に安積親王が没し、聖武天皇の皇子はいなくなった。直後に聖武天皇が倒れて重態に陥った際、橘奈良麻呂は「皇嗣(皇位継承者)が立っていない」と黄文王を擁立する動きを見せている。当時の女帝は全て独身(未婚か未亡人)であり、阿倍内親王が即位してもその次の皇位継承の見通しが立たず、彼女に代わる天皇を求める動きが彼女の崩御後まで続くことになった。

孝謙天皇としての治世 
天平勝宝元年(749年)に父・聖武天皇の譲位により即位した。治世の前期は皇太后(光明皇后)が後見し、皇后宮を改組した紫微中台の長官で皇太后の甥にあたる藤原仲麻呂の勢力が急速に拡大した。天平勝宝8歳(756年)5月2日に父の聖武上皇が崩御し、新田部親王の子である道祖王を皇太子とする遺詔を残した。しかし翌天平勝宝9歳(757年)3月、孝謙天皇は皇太子にふさわしくない行動があるとして道祖王を廃し、自身の意向として舎人親王の子大炊王を新たな皇太子とした。この更迭劇には孝謙天皇と仲麻呂の意向が働いたものと考えられている。強まる仲麻呂の権勢にあせった橘奈良麻呂や大伴古麻呂らは、孝謙天皇を廃して新帝を擁立するクーデターを計画した。しかし事前に察知した仲麻呂により、関係者は同年5月に粛清された(橘奈良麻呂の乱)。以降仲麻呂の権勢はさらに強まった。

太上天皇時代 
天平宝字2年(758年)8月1日、孝謙天皇は病気の光明皇太后に仕えることを理由に大炊王(淳仁天皇)に譲位し、太上天皇となる。この日、孝謙上皇には「宝字称徳孝謙皇帝」、光明皇太后には「天平応真仁正皇太后」の尊号が贈られている。また、尊称として孝謙上皇には「上臺」、光明皇太后には「中臺」が用いられているが、「上臺」は中国南朝・隋・唐においては皇帝およびその機関に対する尊称であった。「皇帝」や「上臺」の称号は政権担当者である藤原仲麻呂の単なる唐風趣味ではなく、新天皇の正当性の保証者としての役割を大炊王および仲麻呂から期待されていたとみられている。仲麻呂は大炊王から「藤原恵美朝臣」の姓と「押勝」の名が与えられ、藤原恵美押勝と称するようになり、貨幣鋳造権も与えられている。仲麻呂は官庁を唐風に改名する(官職の唐風改称)など、さらに権勢を振るうようになった。

天平宝字3年(759年)、光明皇太后が淳仁天皇の父・舎人親王に尊号を贈ることを提案した。淳仁天皇は孝謙上皇に相談すると、上皇は皇太后に対して辞退する奏上を行うよう助言をしている。結局、皇太后が再三説得し、舎人親王に「崇道尽敬皇帝」の尊号を贈ることになったが、このことは孝謙上皇の影響力の大きさを明示したものとなった。天平宝字4年(760年)1月4日、仲麻呂は太師(太政大臣)に任命されているが、その際も孝謙上皇が淳仁天皇や百官が同席する場で突然口頭でその旨を宣言し、淳仁天皇が追認の形で正式な任命手続を取った。孝謙上皇は律令上は大臣任命の権限はないものの淳仁天皇が直ちにそれを認めたことで、孝謙上皇の影響力の大きさを明示するとともに仲麻呂にとっても光明皇太后亡き後も上皇と天皇からの二重の信任を受けていることを明示する意味合いを持っていた。

天平宝字4年(760年)7月16日に光明皇太后が崩御すると、孝謙上皇と仲麻呂・淳仁天皇の関係は微妙なものとなった。同年8月に孝謙上皇・淳仁天皇らは小治田宮に移り、天平宝字5年(761年)には保良宮に移った。ここで病に伏せった孝謙上皇は、看病に当たった弓削氏の僧・道鏡を寵愛するようになった。天平宝字6年(762年)5月23日(6月23日)に淳仁天皇は平城宮に戻ったが、孝謙は平城京に入らず法華寺に住居を定めた。ここに「高野天皇、帝と隙あり」と続日本紀が記す孝謙上皇と淳仁天皇・仲麻呂の不和が表面化した。6月3日に孝謙上皇は五位以上の官人を呼び出し、淳仁天皇が不孝であることをもって仏門に入って別居することを表明し、さらに国家の大事である政務を自分が執ると宣言した。不和の原因は道鏡を除くよう淳仁天皇と仲麻呂が働きかけた事や、皇統の正嫡意識を持つ孝謙上皇が淳仁天皇に不満を持ったことなどあげられている。

天平宝字7年(763年)から天平宝字8年(764年)には道鏡や吉備真備といった孝謙派が要職に就く一方で、仲麻呂の子達が軍事的要職に就くなど、孝謙上皇と淳仁天皇・仲麻呂の勢力争いが水面下で続いた。

藤原仲麻呂の乱 
天平宝字8年(764年)9月11日、仲麻呂が軍事準備を始めた事を察知した孝謙上皇は、山村王を派遣して淳仁天皇の元から軍事指揮権の象徴である鈴印を回収させた。これを奪還しようとした仲麻呂側との間で戦闘が起きたが、結局鈴印は孝謙上皇の元に渡り、仲麻呂は朝敵となった。仲麻呂は太政官印を奪取して近江国に逃走したが、9月13日に殺害された。

仲麻呂敗死の知らせが届いた9月14日には左遷されていた藤原豊成を右大臣とし、9月20日には道鏡を大臣禅師とした。さらに9月22日には仲麻呂によって変えられた官庁名を旧に復し、10月9日には淳仁天皇を廃して大炊親王とし、淡路公に封じて流刑とした。

重祚:称徳天皇としての治世 
淳仁天皇の廃位によって孝謙上皇は事実上、皇位に復帰した。後世では孝謙上皇が重祚したとして、これ以降は称徳天皇と呼ばれる。日本史上唯一の、出家のままで即位した天皇である。以降、称徳天皇と道鏡による政権運営が6年間にわたって続く事になるが、皇太子はふさわしい人物が現れるまで決められない事とした。

天平神護元年(765年)に飢饉や和気王の謀叛事件が起きるなど、乱後の政情は不安定であった。同年10月に称徳天皇は道鏡の故郷である河内弓削寺に行幸した。この弓削行幸中に道鏡を太政大臣禅師に任じ、本来臣下には行われない群臣拝賀を道鏡に対して行わせた。またこの際の行宮を拡張し、由義宮の建設を開始している。一方でほぼ同じ時期に淡路で廃帝・淳仁が変死を遂げている。11月には天皇即位とともに行われる大嘗会を行ったが、本来参加しない僧侶が出席するという異例のものであった。ただし即位式は行われていない。またこの年には墾田永年私財法によって開墾が過熱したため、寺社を除いて一切の墾田私有を禁じている。

天平神護2年(766年)10月には海龍王寺で仏舎利が出現したとして、道鏡を法王とした。道鏡の下には法臣・法参議という僧侶の大臣が設置され、弓削御浄浄人が中納言となるなど道鏡の勢力が拡充された。一方で太政官の首席は左大臣・藤原永手であったが、吉備真備を右大臣に抜擢するなど異例ずくめであった。こうして称徳天皇=道鏡の二頭体制が確立された。

称徳天皇は次々と大寺に行幸し、西大寺の拡張や西隆寺の造営、百万塔の製作を行うなど仏教重視の政策を推し進めた。一方で神社に対する保護政策も厚かったが、伊勢神宮や宇佐八幡宮内に神宮寺を建立するなど神仏習合がさらに進んだ。また神社の位階である神階制度も開始されている。一方で『続日本紀』では、政治と刑罰が厳しくささいなことで極刑が行われ、冤罪を産んだと評されている。神護景雲3年(769年)5月には称徳天皇の異母妹・不破内親王と氷上志計志麻呂が天皇を呪詛したとして、名を改めた上で流刑にされている。同じく称徳天皇の異母妹・井上内親王を妻としていた中納言・白壁王(後の光仁天皇)は天皇の嫉視を警戒し、酒に溺れた振りをして難を逃れようとしていた。

神護景雲3年(769年)、大宰府の主神(かんづかさ)中臣習宜阿曾麻呂が「道鏡が皇位に就くべし」との宇佐八幡宮の託宣を報じたとされた。これを確かめるべく、和気清麻呂を勅使として宇佐八幡宮に送ったが、清麻呂はこの託宣は虚偽であると復命した。これに怒った称徳天皇と天皇の地位を狙っていた道鏡は清麻呂を改名した上で因幡員外介として左遷し、さらに大隅国へ配流した(宇佐八幡宮神託事件)。10月から11月にかけては造営した由義宮に行幸し、同地を西京とする旨を宣した。神護景雲4年(770年)2月、称徳天皇は再び由義宮に行幸した。

死と後継 
行幸翌月の3月なかばに発病し、病臥する事になる。このとき、看病の為に近づけたのは宮人(女官)の吉備由利(吉備真備の姉妹または娘)だけで、道鏡は崩御まで会うことはなかった。道鏡の権力はたちまち衰え、軍事指揮権は藤原永手や吉備真備ら太政官に奪われた。 8月4日、称徳天皇は平城宮西宮寝殿で崩御した。宝算53。

称徳天皇は生涯独身であり、子をなすこともなかった。『続日本紀』宝亀元年(770年)八月癸巳条によると、崩御にあたって藤原永手や藤原宿奈麻呂・吉備真備ら群臣が集まって評議し、白壁王を後継として指名する「遺宣」が発せられたという。白壁王は光仁天皇として即位する。一方、『日本紀略』『扶桑略記』に引用された「藤原百川伝」によると、崩御後間もなく群臣が集まって評議し、吉備真備が文室大市もしくは文室浄三を推し、永手や宿奈麻呂・藤原百川は白壁王を推した。真備が自案に固執すると、永手らは白壁王を指名する称徳天皇の遺詔を読み上げた。このため白壁王が即位して光仁天皇となるが、この遺詔は偽造されたものであったという。

河内祥輔は『古代政治史における天皇制の論理』において、「藤原百川伝」の記述が『水鏡』に継承され、『大日本史』にも採用されたことから、吉備真備が出し抜かれた、藤原百川が暗躍したとされる経緯が一般的になったと指摘する。河内は百川が光仁擁立時は政治に参画する立場に無く、百川が暗躍したとする所説は桓武天皇の立太子の事情が誤って語られたものであると指摘。現在ではこの説が広く支持されている。なお、道鏡は失脚して下野国薬師寺別当に左遷され、弓削浄人も土佐に流された。墾田私有も宝亀3年(772年)に再開されている。

性格
孝謙天皇には、自らに反抗したものに、卑しい名前を付けるという性格があった。その性格の元には、名前や言の葉(=言葉)は一つ一つ、思いがこもった霊であり、大切にしなければならない、という孝謙天皇の考えがあった。一方で女性の地位向上に尽力し、多くの実績のある有力な女性に位階勲などを与えたことでも知られる。

橘奈良麻呂の乱では
・道祖王 - 麻度比(まどひ=惑い者の意)
・黄文王 - 久奈多夫禮(くなたぶれ=愚か者の意)
・賀茂角足 - 乃呂志(のろし=鈍いの意か)
・不破内親王の呪詛事件(これは誣告であった)では
・不破内親王 - 厨真人厨女(くりやのまひとくりやめ=台所の下女の意か)
・氷上川継 - 志計志麻呂(しけし=穢れる、荒れるなどの意。林陸朗の説)

宇佐八幡宮神託事件では
・和気清麻呂 - 別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)
・和気広虫 - 別部狭虫(わけべのさむし)など。

陵・霊廟
称徳天皇 高野陵(奈良県奈良市)陵(みささぎ)は、宮内庁により奈良県奈良市山陵町にある高野陵(たかののみささぎ、位置)に治定されている。宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「佐紀高塚古墳」で、墳丘長127メートルの前方後円墳である。ただし、本古墳は佐紀盾列古墳群を構成する前方後円墳であり、その比定は疑問視されている。また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の一つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。

作品 
・漫画
里中満智子 『女帝の手記-孝謙・称徳天皇物語』
清原なつの 『光の回廊』
井沢まさみ 『その時歴史が動いた コミック版 源平争乱・元寇編』内「悲しき女帝 許されざる恋-道鏡事件の真相-」
・小説
永井路子 『氷輪』
三田誠広 『天翔ける女帝 孝謙天皇』
小石房子 『法体の女帝 道鏡伝説異聞』
高井忍 『女帝大作戦』(『本能寺遊戯』に収録)
玉岡かおる『天平の女帝 孝謙称徳』
・映画
大映『妖僧』 - 役名は「女帝」で、藤由紀子が演じた。
テレビドラマ
TBS『唐招提寺1200年の謎 天平を駆けぬけた男と女たち』 - 南野陽子が演じた。
NHK大阪 『大仏開眼』 - 石原さとみが演じた。――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
No.10 広義門院* 1352−1353年
西園寺寧子(さいおんじ ねいし/やすこ、正応5年(1292年) - 正平12年閏7月22日(1357年9月6日))は、鎌倉時代から南北朝時代の女性。後伏見上皇の女御であり、光厳天皇及び光明天皇の実母。院号は広義門院。北朝を存続させるため、事実上の✳1治天の君の座に就き、天皇家の家督者として君臨した。女性で治天の君となったのも、皇室に出自せず治天の君となったのも、日本史上で広義門院西園寺寧子が唯一である。

続柄:後伏見上皇女御、光厳天皇・光明天皇生母
称号:広義門院
身位:女御、従三位・准三宮、女院
出生:正応5年(1292年)死去:正平12年閏7月22日(1357年9月6日)(享年66)
配偶者:後伏見天皇
子女:珣子内親王、光厳天皇、景仁親王、兼子内親王、光明天皇
父親:西園寺公衡
母親:藤原兼子

生涯 
前半生
 
正応5年(1292年)、従一位左大臣西園寺公衡と従一位藤原兼子の間に出生した。母兼子は藤原氏の下級貴族の出自だったが、父公衡の西園寺家は代々朝廷・鎌倉幕府間の連絡調整を担当する関東申次の要職を継承しており、公衡も関東申次として朝廷政務の枢要に当たっていた。当時、朝廷は持明院統と大覚寺統の両統が交互に政務を担当する両統迭立の状態にあったが、西園寺家は両統双方と姻戚関係を結んでいた。

乾元元年(1302年)、寧子は持明院統御所(富小路殿)で着袴の儀を執り行い、将来の持明院統への入内がほぼ約束された。そして、嘉元4年(1306年)4月、寧子は女御として持明院統の後伏見上皇の後宮に入った。

延慶元年(1308年)に後伏見上皇は弟の富仁親王を猶子とした上で、花園天皇として即位させた。翌延慶2年(1309年)正月、寧子は花園天皇の准母とされ、従三位に叙せられると共に、准三后及び院号(広義門院)の宣下を受けた。これにより寧子は国母待遇となり、後伏見上皇の本后の地位を得た(以下、本項では寧子を広義門院と呼ぶ)。広義門院はその後、後伏見上皇との間に量仁親王(後の光厳天皇、正和2年(1313年)出生)と豊仁親王(後の光明天皇、元亨元年(1321年)出生)をもうけた。

花園天皇の後に大覚寺統の後醍醐天皇が即位したが、後醍醐天皇は元弘元年(1331年)に倒幕計画の発覚により退位させられ(元弘の変)、量仁親王が光厳天皇として即位した。これにより後伏見上皇は治天の君となり、広義門院は名実備えた国母となった。しかし、その栄光も長くは続かず、元弘3年(1333年)には後醍醐側勢力が巻き返すと鎌倉幕府はあえなく滅亡し、後伏見上皇と光厳天皇もまた後醍醐天皇によってすぐに廃立された。

建武2年(1335年)、広義門院の甥西園寺公宗が後醍醐天皇を廃し、後伏見院政を復活して持明院統を再興する計画を立てたが、失敗に終わった。そして翌建武3年(1336年)、後伏見上皇が没したため、広義門院は出家した。その数か月後、またも世の形勢は変転し、後醍醐側勢力を打ち破った足利尊氏は光厳上皇を治天の君として迎えいれ、光厳院政が開始することとなった。広義門院は光厳上皇の実母として再び栄光を取り戻した。広義門院は故後伏見上皇の菩提を弔うため、延元4年(1339年)、洛南の伏見離宮に大光明寺を創建している。

治天の君となる 
ところが観応年間を中心とする観応の擾乱によって、広義門院は再度浮沈を味わうこととなる。正平6年(1351年)10月、尊氏を中心とする室町幕府勢力は足利直義との対抗上の必要から南朝と講和し、結果として光厳院政及び光厳の子崇光天皇の皇位がともに廃されることとなった(正平一統)。これを好機ととらえた南朝側は、翌正平7年(1352年)閏2月、尊氏の嫡男・足利義詮率いる幕府軍を破って一気に京都へ進入した。南朝側は北朝の断絶を図って、光厳上皇・光明上皇・崇光上皇及び前皇太子・直仁親王と北朝側の全上皇と皇位継承者を拉致し、大和賀名生へと連れ去った。

これにより北朝・幕府側には政務の中心たるべき治天の君・天皇が不在となり、全ての政務・人事・儀式・祭事が停滞することとなった。この停滞の影響は甚大で、公家・武家ともに政治機能不全に陥ってしまった。南朝に対する上皇・親王返還交渉が難航する一方で、光厳上皇の皇子、弥仁王が南朝に拉致されず京都に留まっていることも判明していた。南朝との交渉が決裂した時点で、弥仁王が天皇となることは決定した。その皇位継承に当たり、当時の先例では、神器がなくとも最低限、治天の君による伝国詔宣が必要とされていた。しかし、詔宣すべき上皇の不在が最大の課題となっていた。

この窮地を打開するため、在京であり光厳・光明・崇光の直系尊属である広義門院が上皇の代理として伝国詔宣を行う案が立てられた。6月3日、幕府を代表した佐々木道誉が勧修寺経顕を通して広義門院へ上皇の代理を申し入れたが、広義門院は三上皇・親王の拉致に全くなすすべなかった幕府及び公家達に強い不信感をあらわにし、義詮の申し出を完全に拒否した。広義門院の受諾を得るほかに解決策が皆無の幕府は、広義門院へ懇願を重ね、6月19日にようやく承諾を取り付けるに至った。

広義門院が上皇の役割を代行することは、事実上、広義門院が治天の君として院政を開始することを意味していた。実際、6月19日以降、政務・人事に関する広義門院の令旨が出され始めており、6月27日には「官位等を正平一統以前の状態に復旧する」内容の広義門院令旨(天下一同法)が発令され、この令旨により、それまで停滞していた政務・人事・儀式などが全て動き始めることとなった。弥仁王も同年8月に無事践祚を終え後光厳天皇となった。南朝は、上皇ら拉致により北朝・幕府側を回復不能の窮状へ追い込み、圧倒的な優位に立ったはずだったが、広義門院の政務受諾によりその優位性をほぼ完全に失ってしまったのである。

その後、広義門院は皇位継承・人事・荘園処分・儀礼など様々な政務に対し精力的に取り組み、治天の君としての役割を十分に果たした。正平8年(1353年)に後光厳へ政務権を継承した後も北朝家督者として君臨し続け、正平12年(1357年)に66歳で没した。

評価 
歴史家の今谷明は、広義門院による政務就任は公家ではなく幕府からの発案だったとの見解を提示している。中世当時、夫を亡くした妻がその家督を継ぐという後家家督慣行が武士の間に広く見られた。この慣行は公家社会には観察されないため、武家社会の慣行が治天広義門院の登場に影響したとしている。

また南北朝時代の頃から、荘園公領制を支えていた職の体系が動揺し始めており、それまで職(しき)の継承は世襲による場合が多かったのに対し、職が金銭で売買されたり、必ずしも世襲によらなくなるなど、職の遷代と呼ばれる現象が起きつつあった。治天広義門院の登場についても、天皇・治天という職が遷代化し始めたものとする見解があり、後の足利義満による皇位簒奪未遂へつながっていったとしている。

なお、彼女以後持明院統および北朝系の天皇において正配(皇后・中宮・女御)の冊立が行われなくなる。正配が復活するのは、女御は後陽成天皇の女御になった近衛前子、皇后(中宮)は後水尾天皇の女御から中宮になった徳川和子まで下ることになり、いずれも彼女の没後200年以上も後のことになる。
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✳1 治天の君
治天の君(ちてんのきみ)は、日本の古代末期から中世において、皇室の当主として政務の実権を握った上皇又は天皇を指す用語。治天の君は事実上の君主として君臨した。但し、「治天の君」については在位の天皇を含める立場と在位の天皇を含めず院政を行う上皇に限る立場とがある。

上皇が治天の君である場合、天皇は在位の君とよばれる。また上皇が治天の君として行う院政に対して、天皇が治天の君として政務に当たることを親政という。治天の君は、治天下(ちてんか)、治天(ちてん)、政務(せいむ)などとも呼ばれた。以下、本項では治天の君を「治天」という。

成立と意義 
「治天」は、古くは地神五代のうち天照大神以外の4人が君主号として用いたという記録がある。その後、天皇や皇族の敬称号として5世紀後半までに「治天下大王(あめのしたしろしめすおおきみ)」が成立していたが、その後は律令の整備によって使用されなくなっていた。

平安時代後期の院政の開始により、「治天」の語が再び登場した。それまでは、藤原北家が摂政・関白(天皇の代行者・補佐者)として政治実権を持つ摂関政治が行われていた。あくまで律令官制の最高位に君臨するのは天皇であり、その天皇を代行・補佐することが、摂関の権力の源泉となっていた。しかし、白河上皇に始まる院政では、上皇が子へ譲位した後も、直接的な父権に基づき政治の実権を握るようになったため、摂関政治はその存立根拠を失った。この変遷は、天皇の母系にあたる摂関家が、天皇の父系にあたる上皇に、権力を奪われたものとみることができる。

平安中期から後期頃から、特定の官職を一つの家系で担うことが貴族社会の中で徐々に一般化しつつあった。官職に就くことは、その官職に付随する収益権を得ることも意味しており、官職に就いた家系の長(家督者)は、収益を一族へ配分する権限・義務を持った。このような社会的な風潮は皇室へも影響し、皇室の当主となった者が、本来の天皇の権限を執行するようになったのだろうと考えられている。

この皇室の当主が、実質的な皇朝の君主であり、治天と呼ばれるようになった。複数の上皇が併存することもあったが、治天となりうるのは1人のみであり、治天の地位を巡って上皇・天皇同士の闘争さえ発生した(保元の乱)。治天が実質的な君主になると、天皇はあたかも東宮(皇太子)のようだ、とも言われた。実際、院政が本格化すると皇太子を立てることがなくなっている。

治天となりうる資格要件は大きく2つある。まず、天皇位を経験していること。次に、現天皇の直系尊属であること。この結果、治天になれなければ、自らの子孫へ皇位継承できないことを意味しており、治天の座を獲得することは死活問題であった。ただし、鎌倉時代以降になると、皇位に就かなかった後高倉院が治天となったり、光明天皇の直系尊属ではない光厳上皇が治天となったように、前述の資格要件が必ずしも満たされない場合も出現した。

ただし、「治天の君」という言葉が出現するのは後嵯峨院政後の後深草上皇・亀山天皇の並立状態以降に生まれたとされている。

略史 
平安後期 
応徳3年(1086年)に白河天皇が皇子の堀河天皇へ譲位し、院政を開始した時が、治天の成立だと考えられている。堀河天皇は皇位にありながら、政治の実務は白河上皇が行っていた。堀河天皇が崩御してその皇子鳥羽天皇が即位しても白河法皇が政務を担った。白河法皇が崩御すると、崇徳天皇に譲位し既に上皇となっていた鳥羽上皇が治天となり、院政を開始した。白河法皇も鳥羽法皇も積極的な政策展開を行い、専制的な院政の典型とも、院政の最盛期とも評されている。

保元元年(1156年)、鳥羽天皇が崩御すると、崇徳上皇と後白河天皇の兄弟が治天の座を巡って争い、後白河天皇が勝利した(保元の乱)。後白河天皇は2年後の保元3年(1158年)に譲位すると院政を開始した。平清盛による院政停止や高倉院政の開始によって治天の地位から追われたことがあったが、清盛の死去と高倉上皇の崩御によって復活、それからは建久3年(1192年)に崩ずるまで治天の地位を保った。

さて、白河院政の後期以降、院への荘園寄進が非常に集中するようになり、皇室は莫大な経済基盤を得ることとなった。これらの荘園はいくつかのグループに分けられ、別々に相続されていった。例としては、鳥羽天皇が皇女の八条院に相続した荘園群である八条院領、後白河が長講堂という寺院に寄進した長講堂領などがある。治天の君は皇室の当主として、これらの厖大な荘園群を総括する権限を有していた。

鎌倉期 
後白河天皇の次に治天となったのは、その孫の後鳥羽天皇だった。治承・元暦年間(1180年代)の治承・寿永の乱の結果、東国に鎌倉幕府が成立し、独自の支配権を獲得していたが、治天として専制を指向する後鳥羽上皇には、幕府の存在が我慢ならないものだった。

承久3年(1221年)、まだ誕生して間もなく、源実朝暗殺により将軍不在となった幕府の体制を不安定と見た後鳥羽上皇は、幕府の武力排除を試みたが、幕府軍に敗北してしまった(承久の乱)。これにより、後鳥羽上皇及びその直系の上皇・天皇は追放されたが、その結果、後鳥羽上皇の血統に無くかつ世俗に在る皇男子が、後鳥羽上皇の甥で高倉天皇の孫に当たる、当時10歳の茂仁王だけとなり、幕府は茂仁王を後堀河天皇として即位させた。後堀河天皇の父行助入道親王が天皇家の家督者として、治天に就任することとなったが、行助入道親王は天皇位に就いたことがなく、また既に出家していたため、治天の資格要件を欠いていた。しかし緊急事態であることが考慮され、特別に治天となり、事実上の法皇(天皇の例に倣い崩御後に「後高倉院」の院号を贈られた)として院政を布いた。これは、既に治天の存在が不可欠になっていたことを表している。

承久の乱以降、治天がそれ以前と同等の権力を有することはなく、重要事項は幕府と協議した上で決定することが常態化した。後堀河上皇の没後、四条天皇も12歳で崩御すると、次代の天皇を指名するべき治天が存在しないという事態を招いた。公家の間では順徳天皇の皇子忠成王を擁立する動きがあったが、幕府は土御門天皇の皇子邦仁王を名し、結果邦仁王が後嵯峨天皇として即位した。これは天皇の指名には幕府の承認が必要であるという先例になり、治天の権威が低下しただけでなく、治天の権限の一部を幕府が掌握したことになる。

後嵯峨院政の末年には次代の治天の座を巡って後深草天皇の系統(持明院統)と亀山天皇の系統(大覚寺統)が対立した。治天である後嵯峨法皇は没する直前に手ずから譲り状を認めたが、明記されたのは長講堂領以外の荘園の相続であり、皇統のことは何も記さず「六勝寺ならびに鳥羽殿以下のことは治天下に依りその沙汰あるべし」(六勝寺並びに鳥羽離宮を次の治天の君に与える)と記されたのみであった。幕府は中宮であった大宮院に問い合わせると、大宮院は後嵯峨天皇の意志は亀山天皇系にあるとした。このため亀山天皇が治天となり、政務を執ることになったが、後深草天皇系はこれに反発して幕府に力添えを頼んだ。幕府の調停の結果、双方が交互に治天の地位に就く両統迭立が行われるようになった。同時に長講堂領は持明院統に、八条院領は大覚寺統に相続されるようになり、経済面でも両統は同程度の実力を持つに至った。

文保2年(1318年)に即位した大覚寺統の後醍醐天皇は、上記の状況を大きく変革した。まず、父であり治天でもある後宇多上皇の院政を停止し自ら政務に当たる親政を始め、また、2度にわたって倒幕を企てたが、いずれも天皇位への権力集中(権力の一元化)を指向したものだと見られている。

室町期 
1333年(元弘3年)に始まる後醍醐の建武の新政は数年で失敗に至り、当時最大の実力者だった足利尊氏が幕府政権を樹立することとなった。その際、尊氏は、持明院統の光厳上皇を治天とし、その弟の光明天皇を即位させ、自らは征夷大将軍に就任する。後醍醐天皇は治天の地位を否定したけれども、社会はそれを必要としていたことを表している。後に美濃守護土岐頼遠が光厳上皇に矢を射掛ける事件を起こした際に、尊氏から事件の処理を任された弟の足利直義は幕府内外から起こる頼遠助命の声を無視してその斬首を強行した。直義は光厳上皇の治天としての権威のみが、室町幕府の政治的な正統性を保障していることを理解していたのである。

正平7年/観応3年(1352年)、北朝・幕府と対立していた南朝は、観応の擾乱に乗じ、北朝側の治天・天皇・皇太子を拉致することに成功した。建前であっても、政治決定には治天の裁可を必要としていたため、幕府及び北朝側の公家は北朝の再開に取り組むこととなった。治天・天皇・皇太子の奪還は困難と見られたため、出家していた弥仁王(光厳天皇の皇子)を後光厳天皇とし、京都に残る天皇家の中で最高位者だった広義門院(西園寺寧子、後伏見天皇の女御、光厳・光明の生母)が治天の権能を行使することで対応した。女性で、しかも皇室の出自でない者が治天となるのは前代未聞の事態だったが、これにより北朝は存続することができた。どのような形であれ、治天という存在が政治上、必要不可欠だったのである。

続いて、後光厳の子の後円融上皇である。後円融上皇は明徳4年(1393年)に崩御した。後円融上皇の皇子後小松天皇は、元中9年/明徳3年(1392年)に南北朝合一を実現して後醍醐天皇以来の唯一の天皇となり、皇子称光天皇に譲位して院政を行い、正長元年(1428年)に称光天皇が崩御して皇統が絶えると、伏見宮家から後花園天皇を立てて院政を続けた。

しかし、永享5年(1433年)に後小松上皇が崩御すると院政は事実上の終焉を迎え、それと共に治天の君という存在もまた自然消滅することとなる。実際、次に上皇になった後花園上皇は譲位後に程なく応仁の乱に巻き込まれ、実質的な院政をほとんど行う期間も無く崩御した。その後、財務上の理由などから、天皇の譲位自体が不可能な状況が続くことになる。

江戸時代になると、光格上皇まで院政が度々執られるようになるが、この頃には院政はもはや形式上の存在でしかなくなっていた。

明治以降 
明治時代になると、旧皇室典範の制定と共に太上天皇や譲位といった制度が廃止され、同時に治天の君という概念は消滅した。

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No.11 明正天皇 1629−1643年譲位
明正天皇 日本の第109代天皇
(めいしょうてんのう、1624年1月9日〈元和9年11月19日〉 - 1696年12月4日〈元禄9年11月10日〉)は、日本の第109代天皇(在位:1629年12月22日〈寛永6年11月8日〉- 1643年11月14日〈寛永20年10月3日〉)。諱は興子(おきこ)。幼名は女一宮。

在位期間:1629年12月22日 - 1643年11月14日
元号:寛永
時代:江戸時代
征夷大将軍:徳川家光
先代:後水尾天皇
次代:後光明天皇
誕生1624年1月9日(元和9年11月19日)崩御1696年12月4日(元禄9年11月10日)
陵所:月輪陵
諱:興子
称号:女一宮
父親:後水尾天皇
母親:徳川和子
皇居:京都御所

経歴 
元和9年11月19日(1624年1月9日)、後水尾天皇と女御徳川和子の間の最初の子として生まれる。

寛永6年(1629年)10月29日、7歳で内親王宣下を受けて興子内親王の名を与えられ、11月8日に父の譲位を受けて践祚した。後水尾天皇の突然の譲位は、数年前よりの紫衣事件や、将軍徳川家光の乳母春日局が無官のまま参内した事件等によって、江戸幕府への憤りを積もらせた結果と一般的に解釈されている。皇女の即位は皇子の不在(夭逝)によるものであったが、これにより称徳天皇以来859年ぶりに女帝(女性天皇)が誕生した。後水尾天皇から譲位の相談を受けた中和門院は、主要な公家10人余に覚書を配布したが、その二条目には、女性天皇は不都合なものではないから、一時的に女一宮(明正天皇)に皇位を預け、皇子誕生の暁には譲位すべきとある(「女帝の儀は苦しかるまじき、左様にも候わば、女一宮に御位預けられ、若宮御誕生の上、御譲位あるべき事」)。

明正天皇の在位中は後水尾上皇による院政が敷かれ、明正天皇が朝廷における実権を持つことはなかったとされる。女帝の存在や後水尾上皇の院政、皇嗣等をめぐって朝幕関係の緊張は継続した。東福門院の入内は徳川家が天皇の外戚になることを意図して図られたが、実際に明正天皇が即位すると、公家や諸大名が彼女に口入させて朝廷や朝幕関係に影響を与えることも警戒されるようになった。幕府は、寛永14年(1637年)には、摂政二条康道の関白への転任を認めない姿勢を示し、女帝の親政を否定した。

寛永19年(1642年)9月2日、東福門院の意向で藤原光子(後の壬生院)所生の素鵞宮(後光明天皇)を儲君に立て、同閏9月19日に同宮を東福門院の養子に迎えることで妥協が図られ、翌寛永20年、21歳の明正天皇は素鵞宮(元服して紹仁親王)に皇位を譲り、太上天皇となった。譲位直前の9月1日、将軍徳川家光は4か条からなる黒印状を新院となる明正天皇に送付した。そこでは、官位など朝廷に関する一切の関与の禁止および新院御所での見物催物の独自開催の禁止(第1条)、血族は年始の挨拶のみ対面を許し他の者は摂関・皇族と言えども対面は不可(第2条)、行事のために公家が新院御所に参上する必要がある場合には新院の伝奏に届け出て表口より退出すること(第3条)、両親の下への行幸は可、新帝(後光明天皇)と実妹の女二宮の在所への行幸は両親いずれかの同行で可、新院のみの行幸は不可とし、行幸の際には必ず院付の公家が2名同行する事(第4条)などが命じられ、厳しく外部と隔離されることとなった。こうした徳川家を外戚とする明正天皇を取り巻いた事実は、東福門院より後に徳川家からの入内が行われなかったことと深く関わっていると考えられている。のちに出家して、太上法皇となる。元禄9年(1696年)11月10日、崩御。宝算74。

在位中の元号 
寛永 (1629年11月8日) - (1643年10月3日)
諡号・追号・異名 
明正の名は、女帝の元明天皇とその娘の元正天皇から取ったとされる。

陵・霊廟
月輪陵(京都府京都市)
陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市東山区今熊野泉山町の泉涌寺内にある月輪陵(つきのわのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は石造九重塔。また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の一つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
No.12 後桜町天皇 1762−1771年譲位
日本の第117代天皇
後桜町天皇(ごさくらまちてんのう、1740年9月23日〈元文5年8月3日〉- 1813年12月24日〈文化10年閏11月2日〉)は、日本の第117代天皇(在位: 1762年9月15日〈宝暦12年7月27日〉- 1771年1月9日〈明和7年11月24日〉)。諱は智子(としこ)、幼名は以茶宮(いさのみや)・緋宮(あけのみや)。

元号:宝暦 明和
時代:江戸時代
征夷大将軍:徳川家治
先代:桃園天皇
次代:後桃園天皇
誕生:1740年9月23日(元文5年8月3日)崩御1813年12月24日(文化10年閏11月2日)
陵所:月輪陵
諱:智子
称号:以茶宮
父親:桜町天皇
母親:藤原舎子
皇居:平安宮(京都御所)
皇室史における最後の女性天皇である。
2020年(令和2年)現在、皇室史における最後の女性天皇である。

略歴 
天皇時代 

宝暦12年(1762年)、異母弟桃園天皇の遺詔を受けて践祚。だが、実際には桃園天皇の皇子英仁親王(のちの後桃園天皇)が5歳の幼さであったこと、桃園天皇治世末期に生じた宝暦事件では、天皇が幼い頃から自分に付き従っていた側近たちを擁護して側近の追放を要請した摂関家との対立関係に陥ったことから、英仁親王が即位した場合に同じ事態が繰り返されることが憂慮された。このため、五摂家の当主らが秘かに宮中で会議を開き、英仁親王の将来における皇位継承を前提に、中継ぎとしての新天皇を擁立することを決定し、天皇の異母姉である智子内親王が英仁親王と血縁が近く、政治的にも中立であるということで、桃園天皇の遺詔があったということにして即位を要請したのである。

この決定は、皇位継承のような重大事は事前に江戸幕府に諮るとした禁中並公家諸法度の規定にも拘らず、「非常事態」を理由に幕府に対しても事後報告の形で進められた。また、明正天皇以来119年ぶりの女帝誕生となった。

即位および大嘗祭は男帝同様に挙行された。女帝の礼服(即位用の正装)と束帯(通常の正装・男帝の黄櫨染に相当)は明正天皇の例に従って白の無地を用いた。礼服はほぼ男子の礼服に準じた形式で(纐纈裳が加わる)、束帯は裳唐衣五衣のいわゆる十二単であった。明正天皇の時にはまだ復興していなかった大嘗祭・新嘗祭の装束としては、御斎服・帛御服があるが、前者は男子同様の仕立てで髪型が大垂髪であることだけが異なり、後者は白平絹の裳唐衣五衣である。普段は大腰袴姿であった。

代初めの小朝拝にも出御、在位中は正月の諸礼などの対面儀礼にも出御することが多かった。しかし例年の節会の出御は少なく、新嘗祭の出御は譲位直前の1度だけであった。また庭上に降りる四方拝も、御座は設けるものの出御に及ばない例であった。基本的には男帝と同じ儀礼をこなしながらも、種々の便宜上出御を見合わせることも多かったようである。なお、譲位後は色物の装束を着用しており、その控え裂が國學院大學に所蔵されている。

✳1太上天皇として 
在位9年の後、明和7年11月(西暦1771年1月)、甥である後桃園天皇に譲位して太上天皇となった。しかし安永8年(1779年)、皇子を残さぬまま後桃園天皇は崩御した。後桜町上皇は廷臣の長老で前関白の近衛内前と相談し、伏見宮家より養子を迎えようとしたが、結局現関白九条尚実の推す9歳の師仁王(閑院宮典仁親王六男、諡号は光格天皇)に決まった。皇統の傍流への移行以後も、後桜町上皇は幼主をよく輔導したといわれる。上皇はたびたび内裏に「御幸」し、光格天皇と面会している。ことに寛政元年(1789年)の尊号一件に際し、「御代長久が第一の孝行」と言って光格天皇を諭したことは有名である。このように朝廷の権威向上に努め、後の尊皇思想、明治維新への端緒を作った光格天皇の良き補佐を務めたことから、しばしば「国母」といわれる。天明2年(1782年)、天明の京都大火に際しては青蓮院に移り、ここを粟田御所と号した。生母青綺門院の仮御所となった知恩院との間に、幕府が廊下を設けて通行の便を図っている。天明7年(1787年)6月、御所千度参りに集まった民衆に対し、後桜町上皇から3万個のリンゴ(日本で古くから栽培されている、和りんご)が配られた。晩年は母方の実家として自分を支えた二条家の当主である左大臣二条治孝を関白に就けることを望んだ。しかし、治孝は関白としては「非器」とみなされて、朝廷・幕府両方から現任の鷹司政煕の慰留が行われ、最終的に後桜町上皇の崩御によって阻止されることになった。文化10年(1813年)、74歳で崩御。後桜町院の追号が贈られた。ちなみに、その後に崩御した光格天皇以降は「院」でなく「天皇」の号を贈られたため、最後の女帝であるとともに崩御後に「院」と称された最後の天皇でもある

文化人(歌人) 
古今伝授に名を連ねる歌道の名人であった。文筆にもすぐれ、宸記・宸翰・和歌御詠草など美麗な遺墨が伝世している。また、『禁中年中の事』という著作を残した。和歌の他にも漢学を好まれ、譲位後、院伺候衆であった唐橋在熙・高辻福長に命じて、『孟子』『貞観政要』『白氏文集』等の進講をさせている。

陵・霊廟 月輪陵(京都府京都市)陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市東山区今熊野泉山町の泉涌寺内にある月輪陵(つきのわのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は石造九重塔。また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。

✳1 太上天皇  譲位した天皇の尊称
光格上皇
太上天皇(だいじょうてんのう、だじょうてんのう)は、譲位により皇位を後継者に譲った天皇の尊号、または、その尊号を受けた天皇。由来は、中国の皇帝が位を退くと「太上皇」と尊称されたことにあるとされる。元々は譲位した天皇が自動的に称する尊号であったが、嵯峨天皇の譲位以降は新天皇から贈られる尊号に変化した。

略称は「上皇」である。また、出家した太上天皇を、「太上法皇(法皇)」と称する。ただし、これは法的な根拠のある身位ではなく、太上法皇も太上天皇に含まれる。また、太上法皇の称号が用いられた初例は宇多法皇とされており、聖武上皇や清和上皇などそれ以前の退位後に出家した太上天皇には太上法皇(法皇)を用いるのは正確な表現ではない。

「院」とも称され、太上天皇が治天の君として政務を執った場合、その政治を院政という(太上天皇がみな院政をしいた訳ではない)。三宮(后位)と合わせて「院宮」といい、更に、皇族や有力貴族を含めた総称を「院宮王臣家」といった。院の御所が仙洞御所と呼ばれたことから、「仙洞」も上皇の謂として用いられる。

なお、2019年(平成31年)4月30日を以って退位した第125代天皇明仁の退位後の称号について、「天皇の退位等に関する皇室典範特例法(平成29年法律第63号)」では歴史上用いられた「太上天皇」ではなく、略称である「上皇」を正式称号としている。

概要
日本史上最初の太上天皇となった持統天皇(飛鳥時代)
日本の皇室における譲位の初例は皇極天皇であったが、この時点では君主号は「天皇」ではなく「大王」であり、当然「太上天皇」という称号もなかったため「皇祖母尊」(すめみおやのみこと)という臨時の尊号が設けられた。また、その後皇極天皇自身が、斉明天皇として重祚している。 その後、大宝令において太上天皇の称号が定められたことで、持統天皇11年(文武天皇元年)8月1日(697年8月22日)、持統天皇が文武天皇に譲位し、史上初の太上天皇(上皇)になった。

日本の皇室には、江戸時代後期仁孝天皇に譲位した光格上皇まで、計59人の上皇が存在した。つまり、歴代天皇のうち半数近くが退位して上皇となっている。ただし、平安時代以降「天皇の崩御」という事態そのものが禁忌として回避されるようになり、重態となってから譲位の手続きが行われて上皇の尊号が贈られ、直後に崩御した例が多い。 醍醐天皇は譲位後8日、一条天皇は10日、後朱雀天皇は3日で崩御している。後一条天皇に至ってはその崩御があまりにも急であったためそれさえも間に合わず、その事実を隠したまま譲位の手続きを進め、それが完了してからはじめて崩御を公表するありさまであった。江戸時代の後光明天皇などでも同様のことがあった。後桃園天皇に至っては、正式な在位終了日が崩御日の10日後という異常な状態のままになっている。これは、あくまでも「天皇の崩御」ではなく「上皇の崩御」として取り扱うための便法である。

持統天皇以来、太上天皇の称号は退位した天皇が自動的に称するものであり、特段の儀式は必要なかった。時代が下って嵯峨天皇は、自らの異母弟である淳和天皇への譲位に際し、太上天皇の称号の辞退を申し出た。太上天皇は在位の天皇を親権者として支えることから、天皇と同格の権威と権限を有するものとされていたが、嵯峨天皇の場合、兄に過ぎず親権者ではない平城上皇との間で権力の分掌をめぐって深刻な対立を生じ、ついにクーデターで兄を排除せざるを得なくなった。このため、二重権力の弊害を避けるために太上天皇を辞退したものである。ただ淳和天皇はこれを受け入れず、最終的には淳和天皇が嵯峨天皇に対して太上天皇の称号を奉上する(淳和天皇が嵯峨天皇に対して太上天皇の称号を宣下する)ことで解決がはかられた。これにより、太上天皇の意味合いは、新天皇から与えられる地位に変化したのである。これを踏まえて歴史学界では、一般に、平城までの太上天皇はそのまま「太上天皇」と呼び、嵯峨天皇以降の太上天皇を「上皇」と呼び分ける慣習となっている。

なお、仁明天皇や後醍醐天皇のように、退位と死去がほぼ同日だったため、退位後も存命だったにもかかわらず太上天皇の宣下が見送られたケースもある。また淳仁天皇は、藤原仲麻呂の乱の結果として強制的に皇位を追われ、淡路国に流されたまま死去したことから、「淡路廃帝」と呼ばれて歴代天皇として認められず、尊号は贈られなかった。安徳天皇も弟の後鳥羽天皇の即位により廃帝とみなされた。仲恭天皇は即位の礼も経ないまま位を追われたため、即位の事実自体を認められず「九条廃帝」「後廃帝」と呼ばれてやはり歴代天皇から外され、宣下はなされなかった。なお、 淳仁天皇と仲恭天皇については、明治天皇によって改めて尊号が追号された。

光厳天皇は後醍醐天皇の政権奪取により廃位され、即位の事実自体も否定されたが「皇太子を辞退したことに対する褒賞」として特例で太上天皇の称号を認められた。崇光天皇も観応の擾乱のさなか足利尊氏の南朝への降伏(正平一統)により北朝が一時的に消滅したため廃位となったが、融和策を採った南朝側の配慮で太上天皇とされている。後村上天皇・長慶天皇は南朝により太上天皇とされた可能性があるが、北朝側は承認しなかった。後亀山天皇も北朝側から歴代天皇として認められず、かろうじて太上天皇の称号は得たものの、これは足利義満が朝廷の反対を押し切って独断で決めた強引なものであり、それさえも「天皇になっていない太上天皇」の扱いを受けた。

天皇号が絶えていた時期にも、太上天皇号は変わらず用いられた。右に「曾孫太上天皇昭仁」とある。「昭仁」は桜町天皇の諱で、当時は太上天皇。亡き曽祖父・霊元天皇に捧げたもの(江戸時代後期)
孝謙天皇は、いったん退位して太上天皇となったのち、後任の淳仁天皇を廃位した上で自ら称徳天皇として重祚し、天皇に復帰した。上皇から天皇に復帰したのは、ほかに後醍醐天皇の例があるが、こちらは元弘の乱に敗れて御謀叛方となった後醍醐天皇側があくまで退位を拒み、京都では光厳天皇が在位し、自らは隠岐に流されている間も「自分が正統な天皇である」と主張し続けた結果であり、本人は最後まで重祚とは認めなかった。2017年現在の皇統譜も、後醍醐側の主張を容認し、光厳を歴代外の天皇としている。

同時に多数の上皇が並立した最多記録は、正安3年1月28日(1301年3月9日)から嘉元2年7月16日(1304年8月17日)まで、後深草上皇・亀山上皇・後宇多上皇・伏見上皇・後伏見上皇の5名の上皇が存在した期間である。

その他、天皇としての即位を経ずに太上天皇位を受けた者が2名(後高倉院・後崇光院)おり、死後に太上天皇号を贈られた者が2名(誠仁親王、陽光院・閑院宮典仁親王、慶光天皇)いる。足利義満は、朝廷の事実上の支配者として君臨したことを踏まえ、死に際して太上天皇の尊号を贈られたが、後継者の足利義持が辞退した。閑院宮典仁親王は生前に尊号が贈られることが決定していたが、幕府の反対により受けることはなかった(尊号一件)。

皇室典範制定後の動き 
明治時代の旧皇室典範起草時、『高輪会議』における伊藤決裁により、「譲位規定を削る」、「太上天皇の規定も削る」とされ、戦後の皇室典範にも引き継がれている。

旧皇室典範が制定されて以降、第123代大正天皇、第124代昭和天皇、第125代天皇明仁の皇位継承においては「諒闇践祚」、すなわち天皇の崩御後、直ちに皇嗣が践祚し即位する形が採られたため、太上天皇(上皇)の奉上・宣下・譲位はいずれも行われなくなっていた。しかし、2017年に第125代天皇明仁の退位を行うための特例法である天皇の退位等に関する皇室典範特例法(退位特例法)が定められ、2019年4月30日に第125代天皇明仁が退位し、翌日5月1日に徳仁が即位した。なお、特例法第3条で「退位した天皇は、上皇とする。」と規定されており、光格上皇以前の歴史上用いられた「太上天皇」ではなく「上皇」が退位後の正式称号である。
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