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[下調べ]言霊信仰 8神道

 神道を調べてなかったと思いWikipediaで見てみました。なぜ丸ごとコピ―を張り付けるかというと、Wikipediaをただ読んでも全く頭に入らないからです。補正しながらだと何とか少しは分かるので、そうしています。大雑把に全体を知ることが出来て便利です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~Wikipediaより~

神道
成立年 不明(縄文時代から古墳時代にかけて原型が形成されたとされる)
日本の宗教。惟神道(かんながらのみち)ともいう。教典や具体的な教えはなく、開祖もおらず、神話、八百万の神、自然や自然現象などにもとづくアニミズム的・祖霊崇拝的な民族宗教である。
自然と神とは一体として認識され、神と人間を結ぶ具体的作法が祭祀であり、その祭祀を行う場所が神社であり、聖域とされた。明治維新より第二次世界大戦終結まで政府によって事実上の国家宗教となった。この時期の神道を指して国家神道と呼ぶ。

神道は古代日本に起源を辿ることができるとされる宗教である。宗教名の多くは日本語では「○○教」と呼称するが、宗教名は神教ではなく「神道」である。伝統的な民俗信仰・自然信仰・祖霊信仰を基盤に、豪族層による中央や地方の政治体制と関連しながら徐々に成立した。また、日本国家の形成に影響を与えたとされている宗教である。

神道には確定した教祖、創始者がおらず、キリスト教の聖書、イスラム教のコーランにあたるような公式に定められた「正典」も存在しないとされるが、『古事記』、『日本書紀』、『古語拾遺』、『先代旧事本紀』、『宣命』といった「神典」と称される古典群が神道の聖典とされている。森羅万象に神が宿ると考え、また偉大な祖先を神格化し、天津神・国津神などの祖霊をまつり、祭祀を重視する。浄明正直(浄く明るく正しく直く)を徳目とする。他宗教と比べて現世主義的といった特徴がみられる。神道とは森羅万象を神々の体現として享受する「惟神の道(かんながらのみち、神と共にあるの意)」であるといわれる。教えや内実は神社と祭りの中に伝えられている。『五箇条の御誓文』や、よく知られている童歌『通りゃんせ』など、日本社会の広範囲に渡って神道の影響が見受けられる。

神道は奈良時代以降の長い間、仏教信仰と混淆し一つの宗教体系として再構成されてきた(神仏習合)。一方で伊勢神宮や出雲大社のように早くから神仏分離して神事のみを行ってきた神社もある。明治時代には天皇を中心とした国民統合をはかるため、全ての神社で神仏分離が行われた。

神道と仏教の違いについては、神道は地縁・血縁などで結ばれた共同体(部族や村など)を守ることを目的に信仰されてきたのに対し、仏教はおもに人々の安心立命や魂の救済、国家鎮護を求める目的で信仰されてきたという点で大きく相違する。

神道は日本国内で約85,000の神社が登録され約8400万人の支持者がいると『宗教年鑑』(文化庁)には記載がある『宗教年鑑 平成29年版』が、支持者は神社側の自己申告に基づく数字であり、地域住民をすべて氏子とみなす例、初詣の参拝者も信徒数に含める例、御守りや御札等の呪具の売上数や頒布数から算出した想定信徒数を計算に入れる例があるためである。このため、日本人の7割程度が無信仰を自称するという多くの調査結果とは矛盾する。

分類 
皇室神道(=宮中祭祀)皇居内の宮中三殿を中心とする皇室の神道である。皇室神道では、新年の四方拝や歳旦祭、五穀豊穣や国家・国民の安寧を祈る新嘗祭(天皇即位後初の新嘗祭は大嘗祭という)などが行われる。

神社神道 神社を中心に、氏子・崇敬者などによる組織によっておこなわれる祭祀儀礼をその中心とする信仰形態である。

民俗神道 
民間神道ともいう。民間でおこなわれてきた信仰行事をいう。道祖神・田の神・山の神・竈神など。修験道や密教や仏教、あるいは道教の思想と習合している場合も多い。いざなぎ流なども入る。

教派神道(神道十三派) 
教祖・開祖の宗教的体験にもとづく。創唱宗教的色彩が濃い。

古神道(≒原始神道) 
江戸時代の国学によって、儒教や仏教からの影響を受ける前の神道が仮構され、復古神道・古道・皇学・本教などと称された。明治時代以降に古神道だけを取り出し新たな宗派として設立されたものも古神道と称している場合がある。近代以降の学問で研究されて国学色を排除してからは、純神道・原始神道ともいう。

国家神道 特に近代(明治維新より第二次世界大戦終結まで)において国家の支援のもとにおこなわれた神道を指す名称である。

橘家神道(きつけしんとう) 
橘諸兄の子孫である玉木正英が江戸時代に家伝宗教から興した神道。口伝や秘伝が多く「鳴弦」「蟇目」「守符」「軍陣」などの秘儀を行ったとされる。その一方、吉田神道、陰陽道の影響も受けていると言われる。橘家神道はほぼ消滅したとされるが、その修法や思想などが民間信仰に残っていると言われる。

雲伝神道(うんでんしんとう) 慈雲が説いた神道。慈雲は真言宗僧だが、仏教色を感じさせず、古事記日本書紀を中心にした復古神道的思想で、日本を世界の要とし「真心」を重要視した神道を興した。また儒教的な面もあったが、明治以降に断絶した。

三輪流神道(みわりゅうしんとう) 僧の慶円が説いた奈良の三輪山を中心に、三輪の神と伊勢の神を一体とし、大日如来を含めた神道。大神神社にて両部神道や神仏混交の影響などを受け、室町時代に発生し、伊勢神道や真言宗や陰陽道なども混ざり合った信仰。明治時代に廃絶に至るも、一部に細々と存続している。現在の「大神教」であり、能「三輪」に影響を与えている。

烏伝神道(うでんしんとう) 賀茂規清が江戸時代に興した神道説。万物や現象等は神霊や霊魂が影響するという思想。また人の誕生は「幸魂」、死は「奇魂」が作用すると説いた。しかしその教義は人を惑わすとして、規清は、流罪になり、死去した。烏伝神道は廃絶したが、その一部は禊教に継承された。

以上のような分類をすることができるが、今日、単に「神道」といった場合には神社神道を指すことが多い。

また、何に重きを置くかによって「祭り型」「教え型」という分け方も提唱されている。

祭り型神道(社人神道 - 儀礼を中心とする)
これは上記の「皇室神道」「神社神道」「民俗神道」等のことである。
⚪教え型神道(学派神道 - 教学を中心とする)
⚪神仏習合系 - 両部神道・山王一実神道など
⚪神儒習合系 - 儒家神道・理学神道・伊勢神道(=度会神道)・垂加神道など
⚪家元神道 - 唯一神道(=吉田神道)など
⚪復古神道 - 平田篤胤・大国隆正ら
⚪国学系の教団 - 出雲大社教・神道修成派など
⚪霊学系の教団 - 神道天行居など

その他の新宗教
⚪山岳信仰系 - 実行教・御嶽教など
⚪霊示系(創唱宗教) - 黒住教・金光教・天理教(正確には天理教は政府の弾圧を避けるために教派神道となり現在は諸派に分類されている)・大本など
⚪大本系新宗教 - 生長の家・世界救世教・白光真宏会など
⚪救世教系新宗教(いわゆる「手かざし」系) - 世界真光文明教団・崇教真光・ス光光波世界神団・神慈秀明会など、

以上のように分けられる。なお、陰陽道系の土御門神道は上記の家元神道の一つではあるが、教え型とも祭り型とも決められるものではない。

由来と教義
神道の起源はとても古く、日本の風土や日本人の生活習慣に基づき、自然に生じた神観念である。このためキリスト教、仏教のような開祖が存在せず、縄文時代を起点に弥生時代から古墳時代にかけてその原型が形成されたと考えられている

「神道」という名称については「かんながらの道(神道)」と言う意味である。中国の『易経』や『晋書』の中にみえる神道は「神(あや)しき道」と言う意味であり、これは日本の神道観念とは性質が異なる別個のものである。同様のケースに、卑弥呼の時代の宗教感に対し鬼道という表現がなされるが、これは当時の中国における鬼道が異国の諸宗教に対して用いられていたことからも、日本での呼称とは全くの別物であることが分かる。

日本における「神道」という言葉の初見は『日本書紀』の用明天皇紀にある「天皇、仏法を信(う)けたまひ、神道を尊びたまふ」であるが、このように外来の宗教である仏教と対になる日本固有の信仰を指したものだった。

解釈は多様であり、仏教や儒教に対して日本独自の宗教を神道とする説、稲作の様な自然の理法に従う営みを指して神道とする説などがある。

明治20年代(19世紀末)になると、西欧近代的な宗教概念が日本でも輸入され、宗教としての「神道」の語も定着し始め、同30年代(20世紀初)には宗教学が本格的に導入され、学問上でも「神道」の語が確立した。

もともと、神道にはイエス・キリストや釈迦のようなカリスマ的創唱者が存在しなかった。政権による土着の民俗信仰との支配的な祭政一致がおこなわれた神道が教義を言語で統一的に定着させなかったのは、古代より「神ながら 事挙げせぬ国」だったからであるとも言われている。そのため、外来諸教と融合しやすい性格を有することになったともいう。神道のような土着の民俗信仰と宗派宗教の併存例は世界各地でみられるものであるが、その多様性は特異なものである。

実際には、仏教公伝の当初から、廃仏派の物部氏と崇仏派の蘇我氏の間で抗争もあった。中世には、伊勢神道をはじめとして、吉田神道などの諸派が反本地垂迹説など複雑な教理の大系をつくりあげてゆく。近世後期には、平田篤胤がキリスト教の最後の審判の観念の影響を受けた幽明審判思想を唱えたり、その門人等が天之御中主神を創造神とする単一神教的な観念を展開するなど、近代に連なる教理の展開を遂げた。また、近世以降の儒家神道も勢力はさほどではなかったものの、そこで主張された名分論は各神道説に影響を与え、尊王攘夷思想を広めるとともに討幕の国民的原理ともなっていった。

近代には神道事務局祭神論争という熾烈な教理闘争もあったが、結局は、政府も神道に共通する教義体系の創造の不可能性と、近代国家が復古神道的な教説によって直接に民衆を統制することの不可能性を認識したため、大日本帝国憲法によって信教の自由が認められた。もっとも、それには欧米列強に対して日本が近代国家であることをあきらかにしなければならないという事情もあった。

神道における「神」
神道は多神教だが、祖霊崇拝性が強い。1881年の神道事務局祭神論争における明治天皇の裁決によって伊勢派が勝利の後、天照大神が最高の神格を得たが、敗北した出雲派的なものが未だに強く残っていたり、氏神信仰などの地域性の強いものも多い。
気象、地理地形等の自然現象に始まりあらゆる事象に「神」の存在を認める。いわゆる「八百万の神々」である。アイヌの信仰にも共通点があり、アイヌ語の「カムイ」と「神(かみ)」という語の関係も深いと考えられている。また、生前業績があった人物を、没後神社を建てて神として祀る風習なども認められる(人神)。 自然を感じ取り、そのもののままでは厳しい自然の中で、人間として文化的な生活を営むのにふさわしい環境と状態を、自然との調和に配慮しながらバランスを取り調節して行き、人民生活を見回って、生活する為の知恵や知識のヒントを与えたり、少し手伝ってあげたり、体や物を借りた時や何かやって貰った時などには少しお礼をしたり。それが、日本の「神(かみ)」が行っていた仕事の一つである。日本人にとって「神」は、とても身近な存在であった。日本の神は地域社会を守り、現世の人間に恩恵を与える穏やかな「守護神」であるが、天変地異を引き起こし、病や死を招き寄せる「祟る」性格も持っている(荒魂・和魂)。このように神は自然神から人格神へ、精霊的な神から理性的神へ、恐ろしい神から貴い神へ、進化発展があったと捉えることが出来る。

人間も死後神になるという考え方があり、神話に描かれる一族の先祖(祖霊崇拝)や社会的に突出した人物、地域社会に貢献した人物、国民や国のために働いた人物、国家に反逆し戦乱を起こした人物、不遇な晩年を過ごし死後怨霊として祟りをなした人物(御霊信仰)なども、「神」として神社に祭られ、多くの人々の崇敬を集めることがある。

神道の研究 
平安時代以前より出雲において日本神話とのかかわりが議論されていたらしく、『出雲風土記』には他所風土記とは違い、そういった性格を色濃くみることができる。

鎌倉時代には伊勢神宮の神官による学問的研究がはじまり、徐々に現在の神祇信仰の形を取るに至った。そして、そうした伊勢派の努力はやっと江戸末期のお伊勢参りの確立によって知識人よりも祖霊性の強い庶民の一部からも支持を得ることに成功した。一方で、本居宣長が江戸期に『古事記』の詳細な注釈を行い、国学の主流を形成していった。これら神道や国学の目覚めが欧米列強に植民地化されつつあったアジアの中で、日本の自覚を促し、明治維新を成功に導く思想的流れの一角を成した。神道が形成される過程において、古代は仏教から強く影響を受け、近世では儒教の日本への流入が大きい。伊勢派のはたしたことはそれに対抗する神道側の努力だったと考えるべきだろう。

神道史の本格的な研究は宮地直一によって体系化された。彼は神代史(神話)と歴史を区別した講義を國學院大學の前身である皇典講究所開催の神職講習会で行い、『神祇史』(皇典講究所國學院大學出版部)として1910年(明治43年)に出版している。

神道の成立期については諸説出されている。主な説として次の四説があげられている。その第一説は、7世紀後半・8世紀、律令祭祀制。天武・持統天皇朝説。この説は大方の了承を得られる妥当な学説と考える。第二説は、8・9世紀、平安時代初期説。提唱者は高取正男。第三説は、11・12世紀、院政期成立説。提唱者は井上寛司。第四説は、15世紀、吉田神道成立期説。提唱者は黒田俊雄。。

戦前の教科書の神と神代 
戦前は、学校の教科書などに、「神」についての認識の仕方の説明が載っていた。尋常小学校の歴史や修身の教科書などには、少年少女向けの歴史物語として、神話の説明が記載されている。神話の世界はとても人間的な世界で、そこには「神」と「人」を隔てる断絶は存在しない。神もまた、人間のように仕事をし、生活をしている。昭和8年の『少年國史物語』では、「神代の物語」の項目に、「どこの國でも大昔の事ははつきりとは分らないものだが」と前置きをして、神代の事から始まる日本の歴史についての、以下の説明がある。「神代といふのは、我が國の大昔に相當の身分であつた方たちを後の世の人が尊敬して、すべて神として崇めてゐるところから、その方たちの時代を指してさう呼んでゐるのである。」

現代の神道
神道に属する神々を祭神とする社を神社(じんじゃ)といい、全国の神社の大部分は神社本庁が統括している。なお、神社本庁は「庁」と称しているが、行政機関ではなく宗教法人の一つである。

皇室と神道
宮中祭祀に見られるように、皇室と神道は歴史的事実として密接なかかわりを持つことが上げられる。また、神道の信仰の対象としての天皇とその祖先神の存在がある。

多くの日本国民が仏教と神道の習慣と信仰を両立させているように、皇室も神道の祭祀と仏教の行事を共に行っていた。皇室の神道色が強まったのは、朝廷の復権を志向して光格天皇が行った宮中祭祀の復活によってであり、それまではむしろ仏教色が強かった。明治天皇の代で行われた神仏分離や神道国教化に伴い、仏教と皇室の直接的な関係は薄れたが、皇室菩提寺であった泉涌寺と宮内省の特別な関係は日本国憲法施行時まで続いた。

主な信仰 
⚪八幡信仰(八幡神社)
古くは八幡神と呼ばれる皇祖神の須佐之男命・五十猛神を、現在は応神天皇、神功皇后として幅広く信仰されている。宇佐国造の祀った宇佐八幡宮がその起源で、早くに神仏習合が進み、朝廷だけでなく源氏など武家の氏神としても全国に広まった。

⚪伊勢信仰(神明神社)
古代に皇祖神の天照大御神を伊勢神宮に祀り、大日如来と習合しつつも早くに神仏分離をした。朝廷からの崇拝を受けたが、歴史的に天皇が参拝した例は極僅かである。現在は神明神社が各地に鎮座する。

⚪天神信仰(天神神社)
延喜式に複数社見えるよう、本来天神は天津神を指す言葉であったが、菅原道真が死後怨霊として恐れられた後に神仏習合し天満大自在天神として神格化された御霊信仰。太宰府天満宮や北野天満宮を中心として広まり、主に雷神・学問の神として信仰される。

⚪稲荷信仰(稲荷神社)
穀物神の宇迦之御魂神を祀る伏見稲荷大社を起源とし、江戸時代には神大市比売や大年神などと共に、商売繁盛、諸産業の神として厚く信仰された。秦氏の神ともされるが、もとは海神族の神であったと考えられる。

⚪熊野信仰(熊野神社)
多くの名で語られるが総じて皇祖神の須佐之男命を祀る。出雲国造の祀った熊野大社や、熊野国造の祀った熊野那智大社、熊野速玉大社を起源とし、物部氏族系が多く祀る。仏教や修験道などとも深く結びついた。

⚪諏訪信仰(諏訪神社)
出雲神の子で、海神族の諏訪氏の祖・建御名方神とその妻・八坂刀売神を祀る。洲羽国造、科野国造の祀った諏訪大社を起源とし、古代は狩猟、農耕、風、水の神、鎌倉時代には武神として武家にも広く信仰された。

⚪祇園信仰(八坂神社、津島神社)
元はインド由来の祇園牛頭天王と須佐之男命が集合した信仰。京都府の八坂神社や津島神社、須賀神社を中心に、牛頭天王の八柱の御子・八王子権現と共に蘇民将来説話から疫病除災の神として信仰された。

⚪白山信仰(白山神社)
白山比咩神社を起源とし、白山比咩神と呼ばれる菊理媛神(宇迦之御魂神と同神か)を祀る。水の神として信仰される他、伊弉諾尊と伊弉冉尊の仲をとり持った神話から、縁結びの神としても信仰される。

⚪山王信仰(日吉神社)
比叡山の山の神として古くから大山咋神(少名毘古那神と同一か)を祀る。日吉大社を起源として早くに神仏習合し、山王権現として各地の日吉神社や日枝神社に祀られる。疫病除災の神として信仰される。

⚪山神信仰(山神社)
山の神である大山津見神を祀り、鉱山などでは合わせて金山毘古神と共に信仰される。山への信仰や農耕神としても信仰を集める。

⚪浅間信仰(浅間神社)
大山津見神の娘・木花之佐久夜毘売を祀るが、元は保食神であったか。富士山本宮浅間大社を起源とし、和邇氏族系によって祀られている。富士山との関連で火山の神、火中出産神話から安産の神として信仰される。

⚪春日信仰(春日神社)
中臣氏の祖・天児屋命、天美津玉照比売命、建御雷神の三柱の他、国譲り神話から経津主神も合わせて祀る。春日大社を起源とし、中臣氏族系によって祀られる。

⚪鹿島信仰(鹿島神社)
中臣氏の祖・建御雷神を祀る。本宗の鹿島神宮は春日大社の直接的な起源ともされており、地震を起こす鯰を封じる神とされた他、建御名方神に勝利したことから武道の神としても幅広く信仰されている。

古代 
伊勢神宮・出雲大社

奈良時代 
神仏習合、厭魅

平安時代 
延喜式(第9-10巻を通常「神名帳」と称し、全国の朝廷、国司が祭る社格を定めた一覧表になっている)
斎宮・斎院・御霊信仰

中世 
伊勢神道、神道五部書、中世日本紀、度会神道(鎌倉時代)

近世 
神儒合一、国学、復古神道、垂加神道(江戸時代)、烏伝神道(経済と性に重きを置いた神道で、幕末期に賀茂規清によって大成された)、禊教(幕末に井上正鉄が唯一神道をもとに興した一派)、黒住教(幕末に黒住宗忠が興した天照大神の陽気に生命を求める神道)、天理教、不二道(幕末に小谷三志が広めた富士講の一派で、日常道徳に重きを置いた)。

近代 
国家神道、神仏分離、祭政一致、皇典講究所、教派神道、國學院、皇學館大学、神社整理(神社合祀)、神道指令

参拝の方法 
簡易な参拝

以下は一般的な参拝の流れである。神社によっては作法が異なることがある。多くの場合、その旨の表示がある。

参拝を行う日は毎月1日と15日がよいとされる。参拝する前に、本来は神の前に向かう前に心身を清める禊が必要である。これは神が「穢れ」を嫌うとされることによるが、現代であれば、一般参拝では入浴・シャワーなどで身体を清潔にしてから参拝する心がけが望ましい。神社に到着し、鳥居や神門をくぐる際は「小揖(身体を15度折り曲げるお辞儀。会釈に相当)」するのが望ましい。このときには脱帽し、服装もきちんと整えるようにする。

次に手水舎にて手水を使い、手口を洗う。これは拍手と神拝詞奏上を行なう手口(さらには心)を清める意味合いを持つ、一つの禊である。手水の作法としては、

まず、手水舎の前で小揖する。
柄杓を右手で持って水をすくい、その水を左手にかけて清める。
柄杓を左手に持ち替え、右手を洗い清める。
柄杓を再度右手に持ち替え、すくった水を左手に受けて溜め、この水で口をすすぐ。口をすすぐ際には口が直に柄杓に触れないようにする。
これらが終わった後、使った柄杓を洗い清めるが、このときは水を入れた柄杓を立て、柄に水を流すようにして洗う。柄杓を洗うのには次の人のための配慮という意味合いもある。
洗い終わった柄杓は元の位置に伏せて置き、最後に口と手を拭紙やハンカチなどでぬぐう。
最後にもう一度小揖する。
これらの作法は一連の動作で行うのが好ましい。
なお、巫女の補助がつく場合には、作法は巫女の指示にしたがうようにする。手水を使い終わったら拝礼をおこなうために参道を通り社殿へと向かう。神前ではまず神への供物として(供物を捧げる他にお祓いの意味もあるといわれる)賽銭箱に賽銭を奉納する。次に賽銭箱の近くにある鈴鐘を鳴らすが、これには邪気を払う、清らかな音色で神を呼び寄せて参拝に訪れたことを神に告げる、参拝者を敬虔な気持ちにするとともに神霊の発動を願うなどの意味合いがあるとされる。

鈴鐘を鳴らした後に拝礼をおこなう。拝礼の基本的な作法は、現在は「再拝二拍手一拝」(或いは「二拝二拍手一拝」「二礼二拍手一礼」)が主に利用されている。
すなわち、

拝(身体を90度折り曲げるお辞儀)を二度おこなう。
拍手を二度打つ。より具体的には、両手を胸の高さで揃えて合わせ、右手を下方向に少し(指の第一関節ほど)ずらし、その状態で両手を二度打ち合わせて音を出し、ずらした右手を再び揃えて祈念を込め最後に両手を下ろす。
一拝する。
神拝詞を奏上する場合は、再拝→神拝詞奏上→再拝二拍手一拝の順で行う。
というもの。再拝二拍手一拝の前後に深揖(身体を45度折り曲げるお辞儀。最敬礼に相当)を行うとより丁寧である。祈願を行う場合は二拍手と一拝の間に氏名及び居住地と願い事を(声に出して、あるいは心の中で)陳べるのが一般的となっている。また、神恩感謝を述べたい場合も同様である。参拝時は、目を閉じることなく目を開けたままが望ましい。 正式参拝や祈祷などで玉串を捧げる場合は、上記の深揖と再拝の間で、玉串に祈念を込めて根本を神前に向けるようにお供えする。

明治維新前は神仏習合の影響が大きく、拝礼の作法は地域によりさまざま(手を合わせて祈る、三拍手、四拍手など)であったが、明治8年に式部寮から頒布された官国幣社の祈年祭に関する要綱を定めた「神社祭式」に、「再拝拍手」と記されたことから統一化が始まる。現在の二礼二拍手一礼、再拝二拍手一拝は、明治40年「神社祭式行事作法」が制定され、その中でひとつの作法が定義され、「再拝→二拍手→押し合せ→祝詞奏上→押し合せ→二拍手→再拝」という形式になり、昭和17年に内務省神祇院教務局祭務課が編集した「神社祭式行事作法」という書が明文社から発行され、「再拝、二拍手、一揖」「拍手の数を二とす」と記載し昭和18年1月1日より施行されその後第二次世界大戦中から、円滑な祭式作法を遂行するため軍隊でも実践採用された経緯がある。現在でも一部の神社では作法が異なっており、例えば、出雲大社や宇佐神宮、彌彦神社では「四拍手」である。伊勢神宮や熱田神宮での神事では「八度拝、八開手」となっている。

注意事項 
身内に不幸があった人は50日間(仏式の49日)を経過するまで神社参拝は控える必要がある。死穢の観念からである。
神前に捧げる御饌は、火を通したもの(熟饌)を供える場合、神聖な炎として厳粛に起こされた火を用いるのが望ましい。
一部で女性は音をたてて拍手してはいけないという珍説を信じる者がいるが、間違いである。そもそも拍手は音をたてるものであり、音を微かにたてる拍手は「忍び手」と言って、性別関係なく葬儀で用いるものである。

神道諸派
伯家神道(白川神道・白川伯王家)・伊勢神道・吉田神道・両部神道・山王一実神道・法華神道・土御門神道(天社土御門神道)・吉川神道・垂加神道・出雲神道・物部神道・忌部神道・復古神道(古道)・国家神道・神社本庁・教派神道・神道十三派・神道大教・黒住教(神道黒住派)・神道修成派・出雲大社教・扶桑教・実行教・神道大成教・神習教・御嶽教・神理教・禊教・金光教・大本・
天理教 - 天理教は政府から弾圧をさけるために神道十三派に入ったが、現在では神道十三派を抜け、諸派に分類されている。また、記紀神話を用いず、泥海古記(どろうみこうき)と呼ばれる独自の創世神話を持っている。
神宮教・アニミズム・太陽神


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