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【無】実朝暗殺のあたりのことについて

源実朝が1219年に暗殺されました。
1221年の承久の乱の二年前です。

自著『 真相追究 公武政略と武士 』で書いたように、源実朝は頼朝の実子ではありませんし、そもそもウバイドでもなくタカスです。
源頼家も頼朝の実子ではありませんが、頼家は重要なウバイドの人物で裏に回りましたが、実朝を殺害する公暁は頼家の実子ではありません。

実朝の暗殺は國體としては想定外でしたが、そもそも鎌倉幕府の将軍はもはや誰でもよかったので、國體政略の進行自体に大きな影響は与えていません。

「史実」では北条義時は刀持ちを源仲章と代わったことになっていますが、実際は義時はそのまま刀持ちをやっていて、目の前で公暁による実朝殺害を目の当たりにしています。

『 吾妻鏡 』では刀持ち役が仲章に代わって、実朝と共に殺害されたことになっていますが、これは『 吾妻鏡 』が敢えて史実と異なることを伝えています。
(慈円の『 愚管抄 』は仲章は松明持ちだったとまた別の内容を記していて、國體参謀慈円が敢えて別の事を書いて偽史を教えています)
北条氏など鎌倉川の國體衆との今後の動きを伝えるために、仲章は偽装死して京都に戻ります。

実朝が殺害されるタイミングでは、すでに承久の乱の青図は完成しているので、実朝がいなくなっても予定通り承久の乱に向かって動くことを、仲章を通じて京都と鎌倉で確認しています。

源仲章は、宇多源氏で、孝元天皇の皇子大彦命の後裔である沙沙貴山君を祖とする皇別氏族であり、阿倍氏と同族で、源氏に潜入した皇別です。
『 鎌倉殿の13人 』ではとても性格が嫌らしく描かれていますが、全く実際とは異なります。

『 鎌倉殿の13人 』で、不自然に有力御家人が亡くなっていったり、実朝が北条氏の専横に嫌気して後鳥羽上皇に近づくなど、いずれも國體政略に沿って起こされたもので、不自然さというか無理やりさを感じるのもそういうことだと思って観ると國體政略が透けて見えて参考になります。


以上です。
ありがとうございます。

※ 今回の話はサニワメソッドで確認済みです。


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