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大和豪族の真の本拠地

蘇我氏と物部氏の両方が存在している頃、継体天皇時代前後の大和国(※当時はまた律令国制度がないので大和国は存在しないので便宜的国名を使用)の有力豪族の分布図は教科書などでも目にするものです。

記紀に記されている内容の影響からか、その豪族たちの本拠地が大和国のそれらの分布図のエリアのみと考えられているように思います。
わたしも國體ワンワールド史観を学ぶ前は、その大和国の分布図に違和感を覚えずに「そうなんだあ」と思って記憶していました。
そして、それでいて、豪族によっては河内国、摂津国(※同)などにも領土を持っているということも説明されていて、飛び地で領土を持っていて不思議に感じていました。

当時の最有力豪族であった葛城氏は、名前の通り葛城一帯を押さえているわけですが、どちらかというと山手です。
燃料としての薪や製鉄のために木々が必要なので山林を押さえている意味はわかりますし、葛城の辺りは中央構造線が走っているので水銀は採れそうで、水銀が採れたエリアで見られる「丹生」がつく丹生谷もあり、当時の水銀はシナへの輸出もなされる資源だったので、葛城氏がこのエリアを押さえている理由もわからなくもないです。

しかし、食糧の生産性で考えたら高くなさそうなエリアで、古代は人口=経済=国力となるような時代でしたから、食糧生産は重要であり、余剰作物が多くあってこそ鍛冶などを抱えられますし、兵士も養うことができます。
水銀で外貨獲得して、それを給料として抱えるというのは、あまり現実的とは思えません。
一番有力な豪族が食糧生産性が高さそうなエリアを基盤に、最有力まで上り詰められるのかという疑問が湧きます。

と、前置きが長くなりましたが、言いたかったことは大和国の豪族の分布は不自然ということです。
今回は、分布図に名前を残す各豪族の本拠地や領有しているエリアがどこだったのかを探りました。

今回書く内容はこの場限りであり、書籍などにすることはありません。
※内容は他への転載は厳禁です。あなた限りで読んでください。

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