『長距離漫画家の孤独』製作よもやま話
文=樽本周馬(国書刊行会編集部)
2023年1月22日(日)読売新聞朝刊の書評欄にて辛島デイヴィッドさんによるエイドリアン・トミネ/長澤あかね訳『長距離漫画家の孤独 通常版』の書評が掲載されました。去年4月に刊行された本の書評が今出るのも異例で、大変嬉しいことです。この機会に小社Twitterでポソポソとつぶやいていた本書の製作にまつわる裏話をまとめておきたいと思います。
まずは本書『長距離漫画家の孤独』について改めて簡単に紹介します。
エイドリアン・トミネは1974年カリフォルニア生まれの日系アメリカ人4世(現在ブルックリン在住)で、洗練されたグラフィック・ノヴェルと「ニューヨーカー」誌の表紙イラストレーションでも知られるアーティストです。最近の「ニューヨーカー」表紙では、「コロナ禍におけるライフスタイル」を的確に描いた2020年12月7日号表紙が話題となりました。
去年2022年には短篇集『キリング・アンド・ダイング』、『サマーブロンド』(共に長澤あかね訳、小社刊)収録の短篇数篇がジャック・オディアール監督によって映画化、『パリ13区』というタイトルで日本でも公開され小規模ながらヒットしました。
今年はさらに長篇Shortcoming(2007)が本人の脚本により映画化されるなど、いまアメリカで最も活躍しているグラフィック・ノヴェリストといっても過言ではありません。グラフィック・ノヴェル、イラストレーション、映画と各方面で活躍するトミネですが、彼はあくまで漫画家Cartoonistなのです。それを高らかに宣言したのが2020年に刊行された本書『長距離漫画家の孤独』The Loneliness of the Long-Distance Cartoonistです。
本書は漫画による回想録であり、トミネがいかにしてグラフィック・ノヴェリストとして40代の若さで「名声」を築いたかを綴る内容となっています。しかし、その内容は名声自慢とは程遠いもので、数多の屈辱・災難の連続、その情けない有様を余すところなくトミネ独特のタッチで描いているのが特徴の一つです。
1982年(トミネ8歳)から2018年(44歳)まで、大体1~2年ごとにいろんな土地でのエピソードが1頁6コマで語られます。
本書の体裁は見ての通りモレスキンのノートブックを模したもので、本文もブルーの方眼紙の上に書かれた仕様となっています。一見モノクロ1色なのですが、方眼紙(ブルー)も印刷していますので、実は2色刷り。これが制作費過多に影響していまして……という話は後述します。
エピソードの多くは、世界各地でのサイン会・トークショーでのツラい出来事で、上記画像2点は2003年の東京、タワーレコードでの「事件」を描いたもの。ダニエル・クロウズは映画化もされた『ゴースト・ワールド』で知られる、トミネが尊敬するグラフィック・アーティストですが、尊敬しつつも、クロウズの真似と語られる(罵られる)過去もあり、トミネにとっては複雑な関係の人なので、それを踏まえると上記のエピソードはツラすぎる事件といえるでしょう。しかし、これを冷静に漫画として描くトミネも凄い。こういうエピソードの連続が本書となります。
翻訳刊行後、SNS上でのたくさんの感想、雑誌での書評が出ました。その一部はネットでも読めることができます。以下にその一部を紹介します。
〈本書は、トミネ作品への愛おしさが生まれるとともに、「本」という形への愛着に至るまで近年稀に見るパーフェクトな一冊としておすすめしたい〉
(すずきたけしさんによる書評、「ダ・ヴィンチweb」より)
〈日本では、やたらとマンガ家が主人公のマンガが多く、大家の自叙伝的なマンガも多い。そうした作品は、その作家の休止符の趣があり、読者もその後の見方が変わったりする。本作は、めずらしい海外の作品例だが、これもまた(「長距離マンガ家」という言葉に引っ張られてか)作家が自らを振り返る休息時間を封じ込めたように感じられる。休んで、また描きはじめる。その瞬間を鮮やかに捉えた場面は、異常とも言える装丁にも関わってくる。「本っていう物質はホントに面白い」と、実感する。〉(足立守正さんによる書評、「QJWeb」より)
この二つの書評で「本」という形について言及されていますが、そのとおり、本書はエイドリアン・トミネの「異常とも言える」装幀へのこだわりが実現された本となっています。なお、トミネは本書で海外漫画賞の最高峰であるアイズナー賞の最優秀自伝賞、そして最優秀装幀賞を受賞しています。
本書装幀はトミネが愛用しているモレスキンノートを完璧に再現しています(これは絶対にこの形でないといけない、というのは本書を最後まで読んだ方は納得されると思います)。モレスキンノートはご存じのとおり頑丈な表紙と付属ゴムバンドが特徴の世界中で愛用されているノートブックです。日本版でもこれを再現しないといけない。ただし、そのまま再現しても面白くないし、日本版独自のアイデアも入れてみたい。前作『キリング・アンド・ダイング』装幀では、原書カバーがプラスチック+シルクスクリーン印刷だったのを、日本版はUV加工にしてみました。
しかし、今回の装幀はあまりにシンプルなのでアレンジが難しい。結果はどうなったか──以下に、原書と日本版を並べて比較・紹介してみましょう。
表紙は青シール部分以外はほぼ原書通り、ゴムバンドも同様です。原書の青いシールは日本でいうオビの要素で、日本版はここに題名・著者名・訳者名を入れました。空押しをしてシール貼り、これは手間と費用がとてもかかります(シールは手貼りですので)。四角いイラスト部分もシール貼り。なお、タイトル部分は原書はシルクスクリーン印刷ですが、日本版は白の箔押しにしました。各国版はタイトルをその国の言語にしているパターンが多いのですが、日本の翻訳書は原書タイトルを大きく出してデザインすることが多いので、それを踏まえたものと言えます。
原書の背の出版社表記は、ショップでの値段シール仕様(D+Qというのはカナダの出版社Drawn &Quarterlyのこと)。通常、雑に貼られる値札やシールをシルクスクリーン印刷でわざわざ再現する、というの原書デザインの面白さですが、日本版では黄色の箔押しでさらに無駄に豪華になってます。ちなみに箔でこんな細かい文字が綺麗に抜けるのは日本の技術の凄さです。
原書の裏表紙は推薦文とバーコードをこれまた空押し・シール貼り。この要素は日本ではオビで代用できるので、日本版の裏表紙は何も無し、としました。原書の推薦文はトミネが尊敬する長距離漫画家によるもので、日本版のオビには以前からトミネ作品を評価していた長距離漫画家そしてイラストレーターでもある江口寿史さんにお願いしました。
オビ裏に本書の内容を数ページ掲載しているのは、本書が出荷時からシュリンクされているため書店で中身が見られないので、サンプルとして入れています(シュリンクする理由としては、ゴムバンドがあるため、オビが巻けない、という事情もあります)。
原書と日本版の違いとして大きいのは、上の背表紙の写真でわかるように本の厚さでして、これは原書の本文用紙と同じものが日本ではどうしても入手不可能で、いろんな用紙で見本を作り似たものを選んだ結果、この違いが出てしまいました。ただ、数人の方から「原書よりノートブックに近い」という感想もいただきましたので、結果オーライとなったかなとホッとしました。
ゴムバンドつきの本というのは、トミネの本書以前にも、同じくモレスキンノート愛用者である作家ブルース・チャトウィンの『ソングライン』がモレスキン仕様で刊行されたことがあるようです。ただ日本ではおそらく本書が初でしょう。なぜならば、普通の本にはゴムバンドは必要ないから、です。したがって、製作過程ではゴムバンドの強度など確かめるために、何度も試作品をつくりました。通常のノートブックだとビヨ~ンと伸びてしまうのが結構あったりしたからです。
以上のような本書の「異常」装幀について、日本版のデザイナーである山田英春さんがTwitterで以下のような画像で紹介してくれていました。曰く「編集のT本氏が激しく苦労した原書の特異な造本の再現」……
装幀でここまでやってしまうと、やはり相当な製作費がかかってしまいます。本文もすでに触れたように、本文は一見モノクロなのに、方眼(ブルー)も印刷しているので2色(そして1ページだけ3色!)、結構かかってます。定価計算をすると、通常だと6000円ぐらいになってしまう。それをいろいろ画策して、なんとか本体4200円+税に抑えました。漫画本としてはこれでも高いと思われるでしょうが、ある種のアートブック、芸術作品として捉えてほしいのです。ゴムバンド仕様は初版(2000部)のみ、としてその後の版(初版と区別して通常版、内容はまったく同じ)ではゴムバンドは無し、ただし定価を600円下げて本体3600円+税としました。
さて、この日本版について、著者でありブックデザイン担当でもあるエイドリアン・トミネはどう思っているのか? トミネは自身のインスタグラムで自著の各国版が出るたびにこまめに紹介するのですが、この日本版は刊行後しばらく経っても掲載されませんでした。やはり他の国にはないオビなどが気に入らないのか……などとやきもきしていたのですが、刊行4ヶ月後の投稿でようやく紹介してくれました。
これを読んで、アッと驚いたのは、コメントがあることです。通常はどの国の版か、出版社名しか書かれないのに、日本版のみ「Impeccable production, printing,and design」と書かれている! 恥ずかしながらImpeccableという単語を知らなかったので、「imで始まる単語はあまりいい意味ではないのでは……」と一瞬不安になりましたが(これもトミネ的な不安)、辞書で調べると「非の打ちどころのない、抜群の」という意味でした。これで本書の製作過程における苦労がすべて消え去ったのでした。(終)
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長距離漫画家の孤独 通常版
エイドリアン・トミネ /長澤あかね 訳
A5変型判・168頁
ISBN978-4-336-07423-2
定価3,960円 (本体価格3,600円)
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