【刊行カウントダウン】リー・マッキンタイア『エビデンスを嫌う人たち』解説全文公開!
2024年5月刊行予定、リー・マッキンタイア『エビデンスを嫌う人たち――科学否定論者は何を考え、どう説得できるのか?』(西尾義人訳)の刊行カウントダウンとして、いち早く内容をお届け、解説全文を公開いたします!
その前に、簡単に本書のご説明を――
地球平面説、気候変動否定、コロナ否定、反ワクチン、反GMO、そして陰謀論。
科学的証拠(エビデンス)があっても、それを真実とは認めない人々は分断を生んでいます。
彼らはなぜ荒唐無稽な物語を信じてしまうのでしょう?
その謎をさぐるべく、神出鬼没の科学哲学者は陰謀論者の国際会議に潜入し、炭鉱労働者と夕食を囲み、モルディブの海をダイビングする……。彼らの本音と最新科学の成果から、科学否定論者に共通する5つの特徴を見出し、対話の可能性、説得の方法を考えます。
「真実が事実に基づかない、信じることが真実の証」とされるトランプのやり方に代表されるポストトゥルース。折しも今秋は大統領選があります。
インターネットを通じて勢力を増し、この政治の世界にまで影響を及ぼしている科学否定の拡大を止める、反撃の狼煙となる一冊です!
さて、お待たせしました。横路佳幸氏の解説をどうぞ。
♰
解説「対立から対話へ――科学否定論者とのよりよい向き合い方」
横路佳幸
本書『エビデンスを否定する人たち――科学否定論者は何を考え、どう説得できるのか?』(原著:How to Talk to a Science Denier: Conversations with Flat Earthers, Climate Deniers, and Others Who Defy Reason, The MIT Press, 2021)は、科学否定論について論じた本である。科学否定論とは読んで字のごとく、科学で広く支持されている事実や証拠、合意を否定する考えを指す。例えば、地球温暖化をはじめとする昨今の気候変動は人類の活動のせいではないだとか、ワクチンは有効どころかむしろ有害であるといった言説は、現代の代表的な科学否定論である。他には、怪しげな民間療法を信じ切るあまりに標準治療の効果を否定したり、2019年末から世界中で猛威を振るった新型コロナウイルスをただの風邪と一笑に付す主張も同様と言える。極端なものになると、地球が球体ではなく平面だと主張する地球平面説(フラットアース)まである。
おそらく一連の科学否定論のおかしな点を暴き出すことはさほど難しくないだろう。また、そうした言説を信じ込む者がいかに偏見に満ちているかを示す心理学の文献も、探せばたくさん見つけることができる。しかし本書が目的としているのは、科学否定論者を論破することでもその不合理さを糾弾することでもない。まして、理解することを諦め「危うきに近寄らず」とばかりに彼らから遠ざかるわけでもない。その逆である。科学否定論者一人ひとりに会って共感し、敬意をもって傾聴・対話し、信頼関係を育む――こうした親身な姿勢が彼らとのよりよい向き合い方へと繫がる、というのが本書の要をなす主張だ。
もちろん、聞こえのいいスローガンをただ唱えるだけでは机上の空論で終わる可能性がある。そこで著者のマッキンタイアはまず、社会心理学の成果を用いて信頼関係に基づいた対話の有効性を理論的に補強する(第2・3章)。次いで、その「実践編」として様々な人々と実際に会って議論を交わし、ときには潜入取材まで敢行している(第1章、第4~8章)。それゆえ本書は、豊富な知識と堅実な論証で裏打ちされた論考でありながら、科学否定論のリアルな実態に迫る重厚なノンフィクションでもある。この解説では、そんな地に足のついた本書の内容や教訓、課題について大摑みに述べることにしたい。
著者マッキンタイアについて
まずは著者について。リー・マッキンタイアは、1962年生まれの科学哲学者・科学史家である。現在、ボストン大学哲学・科学史センター研究員等を務めている。研究者としては、科学的方法を心理学といった社会科学分野に取り込むことに関する研究でキャリアをスタートさせた。また、1990年代に躍進を遂げた「化学の哲学」という分野の興隆にいち早く貢献したことでも知られている。しかし次第に、疑似科学や科学否定論と絡み合う現実の社会問題にも強い関心を抱くようになり、近年は科学哲学にあまり馴染みがない一般読者に向けた読み物を次々と上梓している。わが国では、『ポストトゥルース』(大橋完太郎監訳、人文書院、2020年)と『「科学的に正しい」とは何か』(網谷祐一監訳、ニュートンプレス、2024年)がすでに刊行されており、本書は著者三冊目の邦訳書ということになる。1つ目の邦訳書では事実が政治によって捻じ曲げられる現象が、2つ目の邦訳書では科学と疑似科学の線引き問題が論じられている。どちらも科学否定論と切っても切り離せないテーマなので、本書とあわせて是非手に取ってみてほしい。
科学否定論者の5つの類型
科学否定論には長い歴史がある。その始まりは、かつてアメリカで取り沙汰されたタバコの有害性をめぐる疑惑にまで遡る。タバコは20世紀前半にはアメリカ全土で広く普及していたものの、当初から健康被害が問題視され、1950年代に入ると、医学誌上で喫煙と肺がんの因果関係を示す証拠が相次いで報告された。肺がんによる死亡者数が実際に急増していた当時のアメリカ社会では、徐々にではあるが反タバコの機運が高まり始めていた。こうした状況に強い危機感を覚えたのがタバコ産業界である。当時の大手タバコ企業各社は巨額の資金をバックに大胆な戦略に打って出ることにした。医学誌に広告を掲載したり御用学者に研究資金を提供することで、喫煙と肺がんの因果関係に疑問を呈するキャンペーンを繰り広げたのである。キャンペーンの目的は、何もないところに「論争」を作り出すことにあった。
もちろん今では、喫煙習慣が肺がんのリスクを高めることは広く知られており、タバコにまつわる科学否定論に同調する人もあまり見かけなくなった。しかしすでに触れた通り、科学否定論という大きな枠組みそのものは、社会の変化に伴い形を変えながらも今なお衰える気配がない。本書で取り上げられているのは、地球平面説の他、気候変動・ワクチン・遺伝子組み換え作物・新型コロナウイルスをめぐる否定論である。もちろんこれらにはすべて異なる出自と動機があり、各立場内部も決して一枚岩ではない。しかし本書で何度も言及があるように、どの科学否定論にも特筆すべき共通項がある。それは次の5つである。
こうした5つの特徴は、相互に絡み合うことで科学否定論者の信念をより強固なものにする。その結果、科学否定論はときに社会に無視できない問題を引き起こすだろう。ひどい場合には、人命を奪うものにさえなりうる。
共感・敬意・傾聴
では、科学否定論者の考えを変えるにはどうしたらよいのか。最初に思い浮かぶのは、彼らに自分の無知な部分や不合理な点を自覚してもらうことかもしれない。客観的なデータを提供し、自分たちの証拠集めや推論方法がいかに不適切であるかを教えればきっとわかってくれるはず、というわけだ。
だがこうした提案には限界があると著者は指摘する。例えば、ワクチンの有効性に疑念を持ち始めて間もない人に対してなら、これは理にかなったアプローチかもしれない。しかし、ワクチンを打つと自閉症になる等の誤った情報を長年にわたって信じてきた筋金入りの反ワクチン派の人々には、私たちの言葉はほとんど届かない。なぜなら、データを提供する私たちのことを彼らはそもそも信頼してくれないからである。どれだけ正確なデータでも、信頼できない相手にまともに耳を貸す人はいない。また、筋金入りの科学否定論者になってくると、科学の否定が自分のアイデンティティになっている場合も多い。共通の価値観で繫がった仲間やコミュニティは居心地もいい。そうした状況では、自分に不利な証拠に触れることは、これまでの価値観やコミュニティへの帰属意識に脅威をもたらす。だからこそ彼らは、自分のアイデンティティを守ろうとして科学否定により一層のめり込んでいくのである(この心理的傾向は社会心理学で「アイデンティティ保護認知」として知られる)。つまり、彼らは証拠や知識が足りないから筋金入りの科学否定論者になっているというより、アイデンティティに組み込まれているからそうなっている可能性がある。十分な証拠があれば誰でも科学的判断を尊重するようになるというのは楽観論でしかない。
となると、筋金入りの科学否定論者を翻意させるのは不可能なのだろうか。著者によると、ここで打開策の鍵となるのが先に見た「共感・敬意・傾聴」に基づく対話である。情報不足を補ったり5つの誤りを指摘するだけでは不十分だったのは、そうした指摘をしてくる人を信頼していなかったからだ。裏返せば、信頼関係を構築し敬意を怠らなければ、対話と説得は可能かもしれない。どんな意見やアイデンティティも、信頼できる相手との個人的な繫がりから大きな影響を受けるだろう。したがって、まずは彼らと実際に会って膝を交えて話し合い、共感と敬意に基づいて個人的な繫がりを作る。そして信頼関係を築き上げた上で、質問をしてみたり客観的な証拠を見せるなどして疑いの種をまく。こうしたステップを踏めば、筋金入りの科学否定論者であっても意見とアイデンティティを変えるきっかけを作り出すことができる。彼らを説得するには、ただ証拠を提示すればよいというのではなく、「誰がどうやって証拠を提示するか」という視点が必要だったのだ。
「科学肯定論者」へのメッセージ
ここまで本書の基本的な主張を見てきたが、実を言えば、その主張自体は新しいものではない。多くの識者が指摘するように、共感や敬意といったオープンマインドな姿勢は、科学否定論者に限らず、陰謀論にのめり込んだ人や政治的に対立する思想を持つ相手と対話するのに必須の心構えである。しかし本書の特色は、その心構えを実行に移す積極的な行動力にある。例えば本書第7章では、著者の元来の友人で、遺伝子組み換え作物の安全性に懸念を持つ環境生物学者との対話が行われているが、それは一方的な主張の押し付け合いではない。相手の話に耳を傾けながら疑問を忌憚なくぶつけ合い、ときには相手の応答を称える。こうしたやり取りは、共感や傾聴の実践であると同時に、うまく分かり合えない者同士でも互いへの敬意を忘れなければ建設的な対話ができることの証左である。
もちろん、親身な対話が毎度実を結ぶわけではない。実際、著者は友人である環境生物学者の考えを変えることは最後までできなかった。しかし、科学否定論者と直接話し合うことを通じて、科学を否定する裏で彼らが抱えている一人ひとりの思いや不安を理解することはできる。また、今すぐに説得できなくとも、疑いの種をまくことは相手の凝り固まった思想をしなやかに解きほぐす端緒となる。そうした方針の下、様々な現場に足を運んで試行錯誤しながら対話を行う著者の様子は、科学否定論の分析で頭でっかちになりがちな他の類書では見られない、本書の見所の1つである。とりわけ、フラットアース国際会議へ潜入取材を試みた第1章は、地球平面説論者の等身大の姿を浮かび上がらせる丹念なルポタージュになっている。
こうした特色からもわかる通り、本書は科学否定論をテーマとしながらも、科学否定論者に向けて書かれた本ではない。あえて言えば、本書は「科学肯定論者」を戒めている本である。科学否定論者は確かに科学について無知だ。しかし科学肯定論者もまた科学否定論について無知だったのだ。科学否定論にはまり込む背景には往々にして、社会的な孤立感や疎外感があることは本書でも度々指摘されている。そこに拍車をかけるように私たちはしばしば彼らを馬鹿にするような態度をとる。反ワクチン派の人々を「反ワク」と呼ぶのはその一例だ。しかしこれでは彼らの思想をより先鋭化させ、対立を煽るだけだろう。科学の否定に対抗するには――やや逆説的に聞こえるが――科学を否定する人々に私たちの方から歩み寄らなくてはならない。科学否定論は、決して物分かりの悪い人々が抱える個人の問題というわけではなく、その心理的背景や影響の大きさを考えると、社会全体で対処すべき複雑な社会問題の1つである。本書はそうした示唆を他ならぬ「科学肯定論者」に対して与えているように読める。
私たちに残された宿題
本書は読者に学びを与えると同時に「宿題」もまた残している。1つは、これは邦訳書の宿命とも言えるものだが、わが国における科学否定論に言及がないことだ。本書の舞台であるアメリカでは、私たち日本人が想像する以上に、地球平面説を支持したり気候変動を否定する人が多くいる。特に巨大な利権や政治的思惑が渦巻く気候変動問題は、本書でも詳しい説明があるように、保守とリベラルという政治的対立の場外乱闘のような様相を呈している。翻って日本ではどうなっているかというと、幸いにも地球平面説はもちろん気候変動を否定する人は(ゼロではないが)ごくわずかだ。アメリカと比べるとワクチンを忌避する人の割合も低く、一般の人々による科学への信頼度も比較的高い。
すると日本は科学否定論から縁遠い国のように聞こえるが、もちろんそんなことはない。がん治療における標準治療の有効性、一部の食品添加物の安全性に対する疑義・否定は日本でもお馴染みの例だろう(その背景にはしばしば「スピリチュアル」や「オーガニック食品」への志向がある)。中には、日本独自と言える科学否定論が広がりを見せたケースもある。その1つが、2010年代の子宮頸がんワクチンをめぐる疑念だ。子宮頸がんワクチンの効果と安全性は以前から確立されていたものの、日本では接種直後から神経障害等の体の不調を訴える声が相次いだ。そうした副反応への懸念が新聞やテレビでセンセーショナルに報道された結果、接種率は大きく低迷することになった。現在、日本人女性の子宮頸がんの罹患率及び死亡率は、主要先進国の中で異例の上昇傾向にある。その後の調査で、報告された副反応とワクチンの間に有意な関連性はないと判明しているが、不安と恐怖が渦巻いた末に科学的知見が疑われ否定される一例となってしまった。
その他、わが国では3・11の原発事故以来、科学的根拠に基づく安全性に対して様々な懸念が飛び交っている。2023年には、処理水(原発で発生した汚染水に含まれる放射性物質をほとんど取り除いた水)の海洋放出をめぐるニュースが日本中を駆け巡ったことも記憶に新しい。このように、日本でも様々な科学否定論/懐疑論が絶え間なく流布している。その社会心理的な背景を探り、5つの類型がどこまで当てはまるのか検証することは、本書がやり残している「応用編」となるだろう。
本書の「宿題」はもう1つある。それは読了後に浮かぶ疑問とでも言うべきものである。著者は「共感・敬意・傾聴」に基づく対話をせよと言うが、実際にはそのバランスを保つことは非常に難しい。科学否定論者に共感し傾聴すればするほど、その思想に触れる機会が増え、その結果説得するつもりが逆に「丸め込まれる」かもしれない。かといって共感し傾聴しているふりをしようものなら、それを相手に見抜かれた瞬間に対話は完全に失敗に終わるだろう。また、説得が功を奏して彼らが考えを改めたとしても、仲間との縁を断ち切れず、結局元のコミュニティに逆戻りしてしまうのならまさしく焼け石に水である。さらに、もっと根本的なことを言えば、科学否定論者と実際に対話にあたることができるのは一体誰なのだろうか。科学者や心理学者、科学哲学者が打って出れば対話は意味を持つかもしれない。しかし、そのどれにも当てはまらない素人(この解説を書いている、形而上学や倫理学が専門の研究者である私も含む)にできることは限られている。少なくとも先に見た5つの類型を知っているぐらいでは、科学否定論に対抗するにはあまりに無力ではないのか。となるとやはり「危うきに近寄らず」というのも一概には間違っていないのではないか。
しかし一連の疑問で本書の価値が下がることはまったくない。なぜなら、あなたがいま手にしているこの本は「なるほど勉強になった」という感想で終わる本では決してないからだ。著者の主張に納得して自分でも実践してみるなり、逆に反発して科学否定論者から遠ざかるなり、どのような形でもよいから「自分ならどうするか」を自問自答することが、本書が私たちに残している最大の「宿題」である。突き詰めれば対人関係のあり方に行き着く限り、おそらくそこに「正解」はない。だが、自分なりの答えを探し当てることはできる。科学否定論というレンズを通じて本書が提起しているのは、科学であれ政治であれ宗教であれ、自分とはまったく考えの相容れない人々とどのように向き合っていくかを、今一度真摯に見つめ直すことではないだろうか。
著者 リー・マッキンタイア(Lee McIntyre)
1962年生まれ。哲学者。ボストン大学研究員(科学哲学・科学史センター)。『ポストトゥルース』(大橋完太郎監訳、居村匠/大﨑智史/西橋卓也訳、人文書院)、『「科学的に正しい」とは何か』(網谷祐一監訳、高崎拓哉訳、ニュートンプレス)など著書多数。
訳者 西尾義人(にしお・よしひと)
1973年生まれ。翻訳者。国際基督教大学教養学部語学科卒。訳書に、ピーニャ=グズマン『動物たちが夢を見るとき』、ヴァン・ドゥーレン『絶滅へむかう鳥たち』(共に青土社)などがある。
解説 横路佳幸(よころ・よしゆき)
1990年生まれ。2019年慶應義塾大学大学院文学研究科博士課程を単位取得退学。2020年同大学で博士号(哲学)を取得。専門は哲学・倫理学。名古屋学院大学専任講師。著書に『同一性と個体――種別概念に基づく統一理論に向けて』(慶應義塾大学出版会)、訳書にダンカン・プリチャード『哲学がわかる 懐疑論――パラドクスから生き方へ』(岩波書店)がある。
エビデンスを嫌う人たち
科学否定論者は何を考え、どう説得できるのか
リー・マッキンタイア 著
西尾義人 訳
2024年5月25日発売予定
四六判・432頁
定価2,640円(税込)
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