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電車のもつメタファー性

電車はあらゆるメタファーとして作品に登場している

私が初めて電車を使った比喩表現に気が付いたのは、「鉄道員」だった。鉄道員といっても、1956年のイタリア映画だ。(なんなら「鉄道員(ぽっぽや)」はまだ見たことがない)
ストーリーとしては、こんな感じだ。
主人公のアンドレは、息子二人と娘をもつ三児の父であったが、仕事であった鉄道一筋で、長男と長女からはその厳格な性格が嫌われていた。そんなある日、アンドレの運転する鉄道に身を投げ自殺をした若者がいた。その後、アンドレの運転への集中は欠けていき、赤信号に気が付かず、衝突事故を起こしかけてしまう。その結果、左遷となり、酒におぼれることとなる。それと同じ時に、長女の不倫、長男が家出、アンドレの身勝手な行動があり、アンドレは家族からも友人からも見放されてしまう。末っ子が父を探すため、いろんな酒場を回り、旧友たちのいる酒場へアンドレを連れて行く。そこでは、優しくアンドレを受け入れてくれた。そして、家族とも仲をより戻していく。
問題は最後のシーン。アンドレの運転する鉄道のレーンが他の分岐していたレーンと交わり一つにつながるシーンがある。このシーンこそ、本批評のテーマである電車のメタファーなのだ。つまり、ここで何を表しているのかというと、レーンは人の人生そのもので、周りのレーン(アンドレからすると家族であり、友人である)と一度は異なる道に進もうが、再び交わり、人生を共にするということを表しているのだ。
これは単なる一例であり、「電車」を使った表現は他にもたくさんある。今回は、軽くそれらを紹介しながら、電車の持つメタファー性について考察していきたい。



線路の意味するもの~スタンド・バイ・ミー~

スタンド・バイ・ミーという超名作にも、電車(この場合は線路)が少年たちの少年故の冒険性・危険性が潜んでいると考えられる。
電車とは、そもそも移動の手段であり、移動の目的も多種多様だ。買い物かもしれないし、仕事かもしれないし、人と会うためかもしれない。これらにもたくさんあるが、今あげた三つの目的は、現代的にみれば「日常的」な行動だ。
スタンド・バイ・ミーの舞台は、1959年のアメリカのオレゴン州だ。ゴーディーたちの住む町は、オレゴン州のなかでもかなりの田舎だ。(実際は架空の町だ)1959年のアメリカでは、電車自体は珍しいものではなかったが、彼らの住む町、つまりノスタルジーを感じるような風景からは電車は都会的であったに違いない。
スタンド・バイ・ミーでは、電車は「非日常的」なものとして扱われている。それは少年たちの夏の冒険として、その冒険の道しるべとして、電車(線路)は扱われていた。それは、田舎民にとっての冒険の象徴としての電車であり、それは他の作品でも使われている「冒険的表現方法」だ。冒険の象徴は他にもあり、少年少女や夏といったのもすべて冒険的表現方法といえるだろう。逆に、田舎の象徴として上げられるのは、自然そのものだろう。田舎といえば、人がいない。人がいないということは、自然の出す微かな音、虫の鳴き声がでかでかと聞き取れる。などが考えられる。
そして、その非日常的な冒険には、必ずと言っていいほど危険が付きまとう。危険性というものも、電車に轢かれる寸前という危険として表現されている。


自分を見つける旅としての電車~エヴァンゲリオン~

新世紀エヴァンゲリオンでも、電車はよく表現として使われる。
エヴァ自体のテーマの一つに、「少年期特有の自己同一性の探求」があるだろう。シンジは、自分が生きる理由、生きていていいという理由を常に探していた。誰かに指示され、その通りに生きてきた(生きていくしかなかった)シンジは、自分の価値とは何かという「自己同一性の探求」を常にしていた。
自己探求を旅と表現するならば、旅の移動の手段として電車が使われたわけだ。
「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序」では、シンジが人のいないところに行きたい、人と関わりたくないと思って電車に乗る場面がある。ここでは、周りの人がだんだんいなくなっていくことで、都心部である第3新東京市からだんだん人の少ない田舎の方へ向かっていることを表している。電車の中の情景だけでもいろいろな表現が存在する。

電車は多義的な象徴に成り得る

電車を使ったメタファーは多種多様だ。それを可能にしているのが、「電車に乗る目的の多様さ」だと私は考える。そしてその目的にも、メタファー性が含まれている。
例えば、移動。電車では地理的な移動をが可能であり、その移動によって、登場人物の心情の変化を表すことも可能だ。それは地理的移動による経験と時間経過によるものだろう。「千と千尋の神隠し」でも、心情の変化が電車の中で行われていたりもした。
「スタンド・バイ・ミー」でも語ったように、田舎では現在では車社会であり、その昔は歩きや自転車が移動の手段であったと考えると、田舎から見る都会の憧れの、都会に行くという冒険のメタファーにもなり得る。そもそも、ある程度成熟した大人ならば、電車に乗ることへの憧れも経験的になくなるだろう。つまり、電車が憧れ、冒険のメタファーとなる対象は、少年少女に限られてくる。
このように、電車といっても多種多様な表現に使用可能であり、それは電車の包含する意味が沢山あり、それは人々にとって「変化」を表しうるからだと私は考える。

最後に

物事を批評的に語るのは、これが初めてであり、つたない部分が多々あったと思われるが、この批評で言いたかったことはただ一つ。
鉄道員(Il Ferroviere)を見ろということだ

それでは、ここまで読んでいただきありがとうございました。
これからも、雑談や批評をしていくので、興味があればいいね・フォローよろしくお願いいたします。


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