ものすごく壮大なくだらないお話。

明日からケンジトシが開幕ということで、なんとなく気分が高揚して落ち着かないので、自分を宥めるために真っ白な画面に文字を打ち込んでいます。


最近のインタビューを拝見していて嬉しいなと思うのが、届ける側として受け取る側である人達のことをきちんと意識してくれているところです。しかも受け取る側に対しての注文なく、自由に見てくれていいよ想像してくれていいよという懐の深さが、肩の力を抜いて作品に触れようという気にさせてくれます。敷居を低くしているというか、門戸を広く開けてくれている気がする。前に河原さんが中村倫也は舞台にお客を連れてきてくれる役者だと言っていたのを覚えているけれど、倫也さん自身もより多くの人に演劇を触れてほしいと願っているのかなと思ったりしました。


特に今回のケンジトシは難解そうなので観劇初心者の私からすれば、かなりハードルの高い作品になります。それでも開幕がこんなにも嬉しくて、自分が見に行ける日が待ち遠しく思えるのは倫也さんの言葉のおかげです。安堵できる言葉を形にしてくれて本当にありがとうございます。


ここからは少し脱線するんですが……倫也さんが表現者として何かを届けようと表舞台に立ち、自分がそれを受け取る側でいる限り、ものすごーく大きな視点それこそ宇宙規模とかで考えたら、点と点で繋がっているようにも感じられました。



現実的な意味での繋がりとかではもちろんなくて、私は表現をするって真っ暗な宇宙に紙飛行機を飛ばすようなものだなと考えていて(表現というと言葉が大きいけれど、Twitterでつぶやいたりこうして文章を書いたりし写真を投稿したり、現代人はなにかしら表現してると思ってます)



どんな人に届くかなんてわからない、どう受け取られるかもわからない、そもそも届くことすらないのかもしれない。そんな風に無数に放たれた紙飛行機の中で、中村倫也という名前が書かれた作品を手に取った自分がいる。届けようとしてくれて、それを受け取った自分がいる。その事実はとってもシンプルなものだけど、それがいちばん大切にしたいことだなと思ったりしました。



なんか何が言いたいのか自分でもよくわからなくなってきたし、風呂敷広げすぎてうまくまとめられなかったのでこの辺で終わります!でも表現者と受け手とかファンとしての距離感を考えてると自分が見えてきて楽しかったです。



こんな雑すぎる文章読んでくださりありがとうございました!明日からの日々が素晴らしいものでありますように。

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