ヤングケアラーだった頃のこととかいろいろと思い出した。

当時、私の家は父方の祖父、両親、弟、私の5人家族だった。
まだ元気だった頃の祖父は、電車に乗って、福島に住んでいるいとこの家に遊びに行ったり、市場やスーパーに買い物に行ったりもしてた。
でも、いつからだろうか。
大好きだった買い物にも行かなくなり、いとこの家にも行かなくなった。
足腰が弱くなって、歩けなくもなった。
歩けなくなったのに、自分でトイレに行こうとして、何度も何度も転んでた。
私は、「いつまでも元気でいてくれる」って思っていたのに、少しづつ弱っていく祖父を見るのがイヤだった。
足腰が弱くなり、歩かなくなった頃から少しずつ認知症の症状が出始めた。
それが、私が中3の頃だった。
自分の家にいるのに、「家に帰りたい!!」と叫び出す。
夜中に「おーい!おーい!」と私を呼び出し、部屋に行くと「何にもない」と何事もなかったかのように眠り出す。
変わっていく祖父の姿に、何もできない悔しさから何度も泣いたこともあった。
それでも救いだったのは、弟の同級生のお母さんにケアマネージャーという仕事をしている人がいて、その方とつながることが出来たこと。
その方が、介護施設につないでくれて、デイサービスやショートステイなどのサービスを使うことができたこと。
施設に行っている間は、自分の時間を作ることができたこと。
たぶん、その方とつながれなかったら、私は精神的にも体力的にも壊れていたと思う。

高校生になって、進路を考えなきゃいけない時期。
元々、私は国語の先生になりたくて、大学進学をめざしてた。
祖父の介護をしながら、受験勉強もしてた。
国立の教育学部に行きたくて、めっちゃ勉強してたけど、両親からは「就職してほしい」って言われて、大学進学をあきらめた。
その頃の祖父は、きっと苦しんでいたんだと思う。
大切な家族の顔も名前も忘れてしまう。
心の中ではわかっていて、名前を呼びたいって思ってても、わからなくなってしまう。
今いる場所も、何をしているのかもわからない。
何もかもがわからなくなって、生きている意味を失ったんじゃないか。
私はそう思った。
私は、「祖父を支えてあげたい。忘れられてもいいから、少しでもそばにいてあげたい」と思い、部活をやめて、家に早く帰る努力をした。
友達から遊びのお誘いを受けても、なるべく断るようにした。
「付き合い悪い」って思われていたかもしれないけど、その頃の私の最善な判断だった。
両親は2人とも仕事をしていて、弟は事情があって家にいなかった。
ヘルパーさんに来ていただいていたけど、来れない時間もある。
誰もできないなら、私がやるしかない。
そう思って、高校を辞める決意をしました。
でも、「高校だけはちゃんと卒業してほしい」と両親に懇願され、高校には通った。
でも、学校から帰ると、毎日祖父のお世話をしてた。
当時の私は、ヤングケアラーだった。
今でこそ、ヤングケアラーという言葉ができて、陽の光が当たるようになったけど、私が在宅介護をしていた当時は、ヤングケアラーなんて言葉はなかった。
当然、助けを求められる場所もなくて、助けを求められる人もいなかった。
両親は無関心、弟は家にいない。
1人でやっていけるのか不安だった。
でも、近所の人も手伝ってくれて、私のことを気にかけてくれた。
「大丈夫?体壊してない?」って声をかけてくれて、なんとかやっていけた気がする。 

でも、そんなヤングケアラー生活も、突然終わりを迎えた。
祖父が病院に運ばれたという連絡があった。
その日は平日で、私は学校があったし、ちょうど家にはヘルパーさんが入ってくれる日だった。
私は、寝坊して、学校に遅刻しそうだったので、祖父の顔を見ずに、「じゃあ、行ってくるね!」と声だけかけた。
「行ってらっしゃい」と言ってくれたのが、祖父の声を聞いた最後だった。
ヘルパーさんから聞いた話では、「嘔吐してた。息も苦しそうだったから救急車を呼んだ」との事だった。
学校が終わってから、祖父の運ばれた病院に行ったけど、間に合わなかった。
祖父の顔には白い布がかけられてて、手を握っても冷たくなっていた。
何もできなくて悔しくて、寂しくなった。
そして、私は、介護の道を歩むことを決めた。

高校卒業してから、私はずっと介護の仕事をしている。
祖父に何もしてあげられなかった分を取り戻すかのように。
今の私にとって、利用者さんの笑顔が最大の薬であり、「ありがとう」の言葉が嬉しい。
屈託のない笑顔を守りたい。
最期を迎えるとき、「この国に生まれて幸せだった」と思ってほしい。
だから、私は4年後、政治家をめざす。
介護を受けている方が「迷惑をかけているくらいなら…」と思わなくてもいい社会を作りたい。
そのために、自分の経験を生かせたら…と思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?