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KokugoNote #15 高1国語総合

皆さん、こんばんは!

更新が遅れていますが、昨日1/28と本日1/29の内容を確認しますね。

「働くことの意味」の文章では、内田樹さん曰く、「労働する」=「贈り物をする」ということだ、とあり、そのおさらいから昨日は始めました。
「働くことがどうして贈り物をすることになるのか?」という疑念を払拭(ふっしょく)しないと、これ以上先に進めないので、この点から考えてみたいと思います。

物事を考えるときに、とにかく具体的に身近なものに置き換えてみるが肝要です。


■まず働くことについて。
皆さんは高校生なので、働く=アルバイトをする、という連想をすると思います。    こういう流れが想像できます。                           求人票を見つける →時給やお店の場所、シフトの制約などを確かめる
 →面接を受ける →合格する →働く →月末に給料が振り込まれる →笑顔になる!
ですね。

※ちなみに、大阪の最低賃金は2020年1月現在、964円です。短期間で稼ぐには、より時給の高いアルバイトを選ぼうとするのは当然ですが、仕事内容にもよるので、よく吟味することが大切ですね。将来関わる自分の仕事の下積みとしてアルバイトをするのもひとつだと思います。楽しく働いている人たちがそこにいるか、お客さんとして見てみることで判断するのもひとつだと思います。ただの「作業」にならないように、働くことが大切ですね。

■次に贈り物をすることについて。                         誕生日や記念日、日頃の感謝を伝えたい時が近づく → 貯金を銀行から下ろす 
 → プレゼントを買いに行く →隠しておく →サプライズで渡す → 皆、笑顔になる!
ですね。

共通点は、事前調査とお金(稼ぐか使うかはさておき)です。どうやらこの「働くこと」と「贈り物をすること」は、時系列では整合性かありそうです。一般的には、お金を稼いでから何かプレゼントをするという過程が合理的な行動だと思います。では、筆者の内田さんが伝えたいことはそういうことなのでしょうか?

いやいや、誰もが想像できることを改めて言うことはないでしょう。
プレゼントするにはお金が必要なんだぜ!ということを言わなくてはいけないのは、ドロボーに対してであって、働けない若者たちに対して、ではないですね。働けない若者に、アルバイトして、誰かに何かをプレゼントしようぜ!などと声をかけて、「よーし!なんだかやる気が湧いてきた!明日からバリバリ働くぞー!」という無邪気な人はなかなか想像しにくい。

内田さんはこう言ったのです。
労働というものは「時間の順逆が狂った形で構造化されている」のだと。

つまり、誰かに何かをプレゼントしようと思っていなくても贈ってしまったら、
いつの間にか、その行為は「労働」と見做(みな)され、
副次的に賃金を得ることになっていた、という状態が望ましいのだ、と。


ここも具体的に考えますね。
例えば、カメラが好きな子がいたとする。
美しい写真やセンスの良い画像は誰しも魅了されるので、SNSなどにアップしたら、
「いいね!」をつけてくれる機会が増えます。思いもよらず、10万回いいね!がついてしまった。そうすると、出版社が「写真集を作りませんか?」とか話を持ちかけてきて、結果的に収入を得ることになってしまった、という流れを考えてみました。
他にも、料理好きの人で、Twitterにアップしていたらフォロワーが5万人を超えたので、ブログで展開して、収益を得ることになってしまった、ということもよく見られる現象です。自分の好きなことをとことん追求してみたら、そのことに共感する「他者が出現する」のです。これが「いつの間にか贈り物をしていた」状態です。

その他者が「便利なものを作ってくれて、ありがとう」と感謝してくれる時、この作者(カメラ好きの子、料理好きの子たちなど)は、「自分の存在意義:フランス語で、Raison d'être レーゾンデートルと言いますが」を実感し、嬉しくなるのです。それが「働く」ということなのですよ、そういう訳です。ポイントは「それを望む他者が必要なのだ!」ということでした。

内田さんからは例として、
島崎さんのカナダのレストランでのお皿洗いシステムのこと、
唐揚げの数を調整してくれたアルバイトの子のこと、が挙げていました。
・数十年後も島崎システムが採用されていたことにびっくりしたという話。
・規定通りの注文を改めて、ささやかなサービスを積み増ししたという話。

いずれも「機転を働かせて、誰かを喜ばせようとする気持ちで何かをした」ことですね。
注意することは、それらは元々、与えられた仕事ではなかったということです。しなくてはいけない仕事ではなかったけれども、自分で考えて、できる範囲で皆をハッピーにしようとしたのです。このように、新たに価値を創る行為、自分が主体になって贈り物をする行為、
これを、働くというのだ、と内田さんは強調したのでした。

「価値を創る」というのは、今までなかったものを生み出す、ということです。例えば、
先生は授業でも言いましたが、「板書したことをノートにそのまま写す」というのは、
新たな価値を生み出してはいません。「板書したことを自分でアレンジして、オリジナルのノートを創り出す」ことは、新たな価値を生み出すことになります。それを見た他の子が、同じように形式を真似したいという声が出るのなら、それは「良い贈り物をした」と、「労働した」と、言えるのです。それが、お金になるかどうかは、そのノートの作り方を望む人が増えるかどうかです。日常的なことでも、それは「働く」ことになっていた、という場合があるのです。例えば、近藤麻理恵さんは「ときめき片づけ」を実践して、掃除や片付けの本を出版し、世界的にミリオンセラーになっていたりしますね。            ※彼女のブログを一度見てみると良いです。

話を戻します。
「今の若い人たち」は、内田さんの捉え方と違って「お金を稼いでから、贈り物をする」という捉え方です。

今の若い人たちは、最初の「お金を稼ぐ」という段階で、「いったいどのくらいの報酬を受け取ることができるのか?」、「仕事の内容は私を満足させるものか?」、「それらが満たされないのなら働かない」と考えます。非常に合理的な考え方です。けれども、「それらが満たされること」は極めて稀(まれ)なことです。

また、求人票を発行する側は、あなたは何ができるのですか?その報酬に見合った仕事ができるのですか?あなたの仕事ぶりは採用する私たちを満足させてくれますか?と逆に質問されたら、あなたは少し動揺してしまわないですか?

だから結局、この考え方のままでは「贈り物をする」には届かない。損得を最初に考えてしまうと、この罠に陥ります。

この話は、あなたはどのように生きるのかという問題提起なのです。内田さんは、まずは、損得を考えずに自分のリソースを「持ち出し」て、何か作り出そうとしてみることが、結局、人生を豊かにすることになるのではないかと伝えていると、先生は解釈しました。

どのように生きるべきか?                             一昨年リバイバルヒットした、吉野源三郎(1937)『君たちはどう生きるか』新潮社 にも通じることだと思いますが、世の中の仕組みを知らないと、きっと自分も楽しくなり、周りの人も楽しくなる生き方は難しいのでしょう。

なので、まずは勉強です!

と言ってしまうと、えっ?と苦笑いされてしまいそうですが、テストのための勉強ではなく、自分ひとりが楽しむ趣味であっても、広く世の中にSNSなどで、皆が困っていることを解決するアイディアを公開すること、それが勉強です。学校では、そのためのアイディアを交換することに授業を活用すれば良いのです。教室であっても、部活動であっても、皆でハッピーになれるように、自分のできる範囲で、自分が決めたことを実行に移すのみです。他の人にはできない何かを主体性、代替不能性を持って行動することで、人生を豊かにしましょう!

これで「働くことの意味」をいったん終えますね。
次回、哲学対話というのを、実践してみたいと思います。

乞うご期待!


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