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Kokugo_Note 高2現代文B・国語表現 #47

 
 第1学期後半は、小説と評論をそれぞれ1本ずつ取り扱った。テーマは「個人の幸福とは何なのか?」だ。
 小説は、中島敦『山月記』、評論は、見田宗介「幸福について」である。前者は、中国の説話集『唐人説会』に収められた「人虎伝」をベースにしており、「尊大な羞恥心と臆病な自尊心」で知られる?主人公 李徴の物語である。
 この物語では、様々な不運に見舞われ、失意のどん底に突き落とされると、自制心を抑えられない人々は、他者に対して冷酷無比な獣になり得ることを示すとともに、一方で、夢破れた主人公の薄幸をテーマにしている。
 ※先日の小田急線の無差別刺傷事件にも当てはまるかもしれない。
 その点を踏まえて、李徴が本当に望んでいたのは、どういう幸福のカタチだったのだろうか?を考えさせるために、見田宗介氏の文章を扱ってみた。

 今回も記述問題だけを取り出してみようと思う。 ※ちなみに、定期考査は基本的に40日に一度行われるもので、履修内容を丁寧に把握し、説明できるようになったかどうかを試している。

 ▼ ① ひとつ目は『山月記』で、「偶然に山中で出逢った友人の袁傪が、虎になった李徴の頼みで、茂みから詠み上げられる詩を記録する場面」だ。「格調高雅、意趣卓逸」と絶賛するものの、「第一流の作品となるにはどこか非常に微妙な点において欠けるところがあるのではないか」と考え込んでしまうのは、何故だろうか?本文に根拠を求めて、論じなさい、という出題をした。


 ▼ ② ふたつ目も『山月記』で、主人公 李徴は「詩人として名をなす」ために官職を辞したが上手くいかず、「妻子の衣食のため」復職するも納得のいく仕事にはならず、虎に身を堕として唯一、「人間だった時の記憶がなくなればどんなに幸せだろう」という表現が見られた。なぜ虎になったかを自己分析した李徴の話を聞いていた袁傪一行も「詩人の薄幸を嘆じた」のだった。
 いったい幸せとは何なのだろう?あなたはどうしたら幸せになれるのか?幸せを持続させるためにはどうしたら良いのか、考えるところを述べよ、というのが課題だ。

前回と同様に、解答例を挙げることにする。


 ▼①について:李徴の詩に欠けていたもの

 a. 李徴自身の思想や感性が詩に表現されていたとしたら、欠けていたのは本人も自覚していたように「人間性」ではないか。「飢え凍えようとする妻子」よりも「乏しい詩業」を優先し、虎としての生活の中で「人間が次第に失われていく」という状態にあったので、それが伝わったのだろう。

b. 李徴は天才でなくて、秀才だったに違いない。科挙という試験は、詩人としての才だけ評価されるのではなく、記憶力の強さによるところが大きいようだ。李徴は「性、狷介」とあるように真っ当な評価を避けていきてきたため、詩の才能があるかどうかということにも気付かずにいたのだろう。そういう意味で、袁傪が最初の評価者なのかもしれない。

 c. 李徴の自嘲癖から考えてみると、多くの癖がそうであるように、李徴本人もまたその自覚がない。自分自身を卑下することで、その人から生み出された詩がより良いものであるはずがない。詩が本人の分身のように大切なものであるならば、おそらくはそうはならなかっただろうに。

 d. 李徴は「名をなす」という結果ばかりにこだわって、どうすればそこに辿り着けるのか、その方法論を検討してこなかった。お金持ちになりたいと願っていて、何もしない人のように。詩と向き合わなかった結果がそこに現れていたのではないだろうか。

 e. 李徴は結局、「己の珠なるべきを半ば信ずる」、「己の詩業に半ば絶望したため」とあるように、最後まで信じ切ることができない人であった。虎になってからも「生き物の定めだ」と割り切りつつも、その現状を認められず悶えている状態にあった。何もかも中途半端に生きている人の詩が「第一流」であるはずはない。

 f. 李徴には、幸せを感じるという感性が欠けていたのだと思う。彼は恵まれた環境で、成功も収めた中にも、幸せを認めることができなかった。実は、自尊心、自分自身を尊重する気持ちも低く、自嘲癖に見られるように卑下する傾向が強い。読む人の心の琴線に触れない詩はきっとつまらなかったに違いない。


 
▼ ②について:幸せとは何なのか?

a. 私の場合、嬉しいことの連鎖だ。ひとつ嬉しいことがあると、次々と次の嬉しいことが思い浮かぶ。例えば、土曜日の夜は、翌日の日曜日を考え、夜更かしを楽しめる、友だちも一緒に楽しむことができる、マンガもゲームもしたいことを、明日のことを気にせずできる。1週間に一度訪れる「明日のことを考えなくて良い日」があるだけで、困難は乗り越えられる。想像している時間が本当に幸せなのだ。

b. 私にとっては、誰かと一緒に笑うことが幸せなのだ。その人と見えない糸で結ばれている気がするからだ。笑うというのは、同じタイミングでその内容や意味を理解しているということなので、一瞬の繋がりを感じるのだ。共感を増やしていくことで、人は幸せになれるのだと思う。広くさまざまな知識を持つことできっと私の幸せは広がっていく。

c. 私にとって幸せとは、毎日を生きているということには尽きる。奇跡的な確率で私を産んでくれた母のおかげで、大過なく過ごせている。どれだけ辛く苦しいことがあっても、私が元気で笑っていたら、母も私もいつか報われて、気持ちが晴れやかになると信じている。不幸に見舞われても、この信念のために私は幸せでいられるのだと思う。

d. 私にとって幸せとは、心の余裕が前提となっている。小さな幸せは至るところにあるが、心の余裕がなければそれらは見落とされてしまう。空腹時にご飯を食べると本当に美味しいが、味わってゆっくり食べるのと、急かされて掻き込むのとでは、幸福の度合いが異なる。貯金が多くあったり、沢山の便利なものを持っていたりするのも、必要なことかもしれないが、どのような状態にあっても心の余裕を失っている人は少なくない。小さな幸せは見落とさなければ必ず見つかるのに。

e. 私にとっての幸せは漫画『ONE PIECE』を読むことだ。物語の壮大な展開や魅力的なキャラクターなど、私の心をワクワクさせてくれる。漫画は暇つぶしに読むものであって、発売日を待って買い続けるなど無駄遣いだと批判する人もいるかもしれない。私はそうは思わない。お金や時間を意識して投じることが、幸せの価値そのものなのだ。そこに無駄遣いなどあり得ない。価値観の違いに、序列をつけるべきではないのだ。


第1学期は、「言葉の概念の周辺にあるもの」に始まり、「そもそも幸福とは何なのか?」「学校に通う私はいったい何なのか?」を考えてもらうことなら始終した。

高1の頃とは異なり、「書く」ことに重きを置いて授業を行なっているので、普段の授業でも短文作成などの課題を多く与えている。添削はかなり大変だが、一部の子たちが一生懸命に取り組んでくれるので、彼らを牽引力として皆を次の高みへ引き上げたいと思っている。

ちなみに、授業では映画教材を時々、援用する。
 映画『ライ麦畑の反逆者 ひとりぼっちのサリンジャー』は、『山月記』の李徴との比較にとても良かった。たとえ報われなくても君は書き続けられるか?というテーマに対して、子どもたちに考えさせることができたからだ。
 また、SF映画『メッセージ』は、発話とは何なのか?を考えさせるきっかけになった。宇宙船が地球に訪れた時に、言語学者ルイーズが雇われ、彼らが地球に何をしに来たのかを探るのだが、こういうくだりがあった。

 What's your purpus on Earth?を聞きたい時に、まず質問とは何かの説明しなくちゃいけない。こちらが聞きたいことには答えて欲しいということを理解してもらう必要がある。次に、your はyouでないことを確認する。個人的な目的を訊ねてもダメ。さらに本能で答えるのではなく、意志を持って回答してもらう必要がある。ひとつひとつ確認していくためには、彼らにこちらの言語を教えていくことが最も近道なのだ。
 
 文章を書く時も同様で、ひとつひとつ確かめながら言葉を重ねていくことが必要なのだ、という話を繰り返ししている。

 以上。とりあえず1学期のまとめでした。

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