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Kokugo_Note 現代文B・国語表現 #48

【長谷川眞理子「コンコルドの誤り」から学ぶこと】 その1

第2学期は、この評論文的エッセイから始めることにした。

高校2年生になると少しずつ、先の進路について考えるようになり、嫌が上でも、親との衝突、モラトリアムの切望、自分探しなどの課題に直面するようになる。

いつまでも子どもではいられないと解った時に、どのようにスタートを切るべきかを思案するようになるのだ。

第1学期に、「山月記」や「幸福について」の中で、《自分はいったい何をしていたら、どのような習慣を維持していることができれば、心が満たされるのか?》を考察してもらった。

この夏季休暇では、瀬尾まいこ『そして、バトンは渡された』を選び、「親子とは何なのか」「友だちとは何なのか」「自分の依って立つところはどこなのか」という気付きが得られることを願って、学校で一括購入して与えることにした。

※   この手法は良くも悪くも選定者の意図が強く反映され過ぎてしまうので、評価は難しいところだが、基本的に進路を検討する上での〈自分の立ち位置〉を確認されてくれるような作品を選ぶことにしている。

そして、第2学期である。
2004年東京大学2次試験の小論文(文科一類)で、同文章が出題されている。
「なぜ人間の思考はコンコルドの誤りを犯しがちなのだろうか?」という著者の問題提起をめぐりあなたの考えるところを、「コンコルドの誤り」の具体例を挙げながら述べよ、という問題だった。

文章を読み進めていくと、すぐに判明するが、これは「何かを止める際に、意思決定を行うときの根拠」について書かれていることが判る。

子どもたちは基本的に、自分は何かに投資をしている、という意識は希薄だ。
自腹を切って学費を払っている高校生は稀であり、大抵は親が支払ってくれている。部活動の諸経費や毎月のお小遣い、次の進路の費用などを準備してくれているのは、多くの場合、親である。

お前の好きな道を行きなさい、と親は言うが、それが何か判らないという子どもは多く、毎回のことながら、年に2回ほどの三者面談で尽きることのない話題だ。

こういう時は、保護者が無言の期待を強いていることが多く、4年制大学に進学して、就職できるように資格を取って、楽しく過ごして欲しいというメッセージを時折、感じる。

だから、ひじきを取りながら瀬戸内で漁師になりたいとか、美味しいトマトを作る農家になりたいので、地方で就職するとか、そういう声を子どもは上げることができない。

なぜなら、今まで習い事をさせてきて、部活動にも打ち込ませて、塾に通わせてきたのに、〈それらが継続されないのはなぜか?〉を答えるのは、生活のすべてをおんぶに抱っこの、子どもには難しいからだ。

Webオープンキャンパスで大学のことなど調べてみて、やはり大学進学は考えられないと判断しても、、やはり4年生大学くらいは出ていないとダメだと思うな、父さんは、、、母さんもそう思うわ、、、となってしまうのがオチである。

そういう話で、なるべく先々のことを考えないように、とりあえず学校に来て、授業は時々真剣に聞いたりして、友だちとの会話やランチを最優先して、お洒落をしたり、放課後に遊びに行く話をしたりする、のである。


第2学期に、この文章「コンコルドの誤り」を勉強するのは、この流れを断ち切り、「親と対峙して、自分の立ち位置を確かめて、今、手元にある選択肢を数え上げ、将来への展望を想像してみる」という意図がある。

父ちゃん母ちゃんが、なぜ「今までの投資」にこだわってしまうのかという「親に対する理解」を経由して、自分の進路を考えてみるきっかけになれば良いと思う。







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