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Kokugo_Note #56 高3現代文B・国語表現

前回の投稿から随分、日が経ってしまった。
束の間だが、ひと息つくことができるので、振り返りをしてみたい。

高2の第3学期は、芸術をテーマとした。

 長谷川眞理子「愛づる」、岡本太郎「絵はすべての人の創るもの」、小林秀雄「美を求める心」の3本を扱い、MoMAの対話的鑑賞法をもとに、実際に絵画の分析を楽しんだ。

 参考文献としては、鈴木有紀さんの『教えない授業 美術館発 正解のない問いに挑む力の育て方』、末永幸歩さんの『13歳からのアート思考』、日本文教出版の美術の教科書を取り上げた。

 すべての文章に通底することは、「愛するとは何なのか?」という問いに尽きる。
 理解するでもなく、受け止めるでもなく、宙ぶらりんの状態のまま、どちらにも定着せず、伴走し続けて見守るという姿勢を「愛する」と定義できるのではないか、という長谷川さんの主張を皆で検討してみた。
 
 愛する、愛されるというのは、他者に対する期待が膨らんだり縮んだりする行為なのだと思う。一方で、それらから離れてしまうと、「人それぞれ」と割り切ることになり、他人の身の上話には興味がないね、という冷たい対応になってしまう。反面、それらとの距離を詰め過ぎてしまうと、共依存に陥ってしまいがちになり、お互いに息苦しくなってしまう。

 複数の、宙ぶらりんの状態に耐えるのは、難しい。英国の19世紀の詩人ジョン・キーツが発見したと言われる、negative capability という概念がそれに当たる。箒木蓬生さんの定義では「事実や理由を性急に求めず、不確実さや不思議さ、懐疑の中にいられる能力」を指す。

 ひとつひとつケリをつけて前に進みたいと思うのが人の常だが、そのために私たちはますます混迷した社会を築いてしまっているのではないか、新たな発想を生み出せずに狭いパイの奪い合いに始終している不幸を見て見ぬふりしているのではないか、という反省によるのだろう。

 この年度の第1学期に見田宗介「幸福について」を扱った。目的地に辿り着くまでが幸福なのであって、目的地に到着することが幸福ではないのだという趣旨のことが述べられていた。固定観念に落ち着いてしまう、既存の枠組みに分類してしまうことが、幸せを阻害していることに気付くべきだということについて、子どもたちに実体験を振り返ってもらったが、確かにそうだなあという声もあれば、一方で、いや目的地に到着したあとにも、また新たな目標が見つかるので、幸せはずっと続くのだという声もあった。

 忙しい忙しいと言われる高校生であっても、まだ子どもたちは自由の裁量が大きな生活を送っているので、してみたいことがまだまだ山のようにあるのかもしれない。臆病な大人たちとは違って、チャレンジを恐れない子どもたちの未来は明るい。失敗は経験値を積むことにしかならないので、前向きに進めるように、サポートを惜しまずにしていきたいと思う。

 というような話にまとめて、学年末考査を終えたのでした。

後日談。
 第3学期は新型コロナの第6波が直撃して、どのクラスも複数名を欠席が出たため、リモート授業が中心となり、その後、高校入試や卒業式、修学旅行、体調不良などのイベント?が相次ぎ、バタバタしながら3月を終え、新年度の4月を迎えた。4月は新しく赴任された先生方や新課程の導入、新しい部署の仕事などなど、怒涛のラッシュに呑まれて、ろくに息もつけない日々を過ごした。
 読書ができないのがいちばん辛いが、今は少し楽しむことができている。

 バッタ博士の新刊書前野ウルド浩太郎(2022)『孤独なバッタが群れるとき』光文社新書 は相変わらず面白い。

 社会学者の朴沙羅さん(2021)『ヘルシンキ 生活の練習』筑摩書房 は、あらゆることはスキルの問題であって、人格や性格の問題ではないという切り口は、人権を考える上の前提となるものだと思った。

 Twitterでお馴染みの木村 幹先生(2022)『韓国愛憎 激変する隣国と私の30年』中公新書 は、木村先生がどうして韓国政治の専門家になるに至ったかを示すドキュメンタリーだ。近くて遠い国のことを知ることができ、とても勉強になった。日本の高校では、韓国や中国の近現代史について学ぶことが殆どないというのも不思議な話だ。

 その他、複数冊を並行読書しているが、またの機会に綴ろうと思う。

 読んでいただき、ありがとうございました!

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