駄文)入試は国語の能力を高めるのか?
時々、文章を配って時間をとって読ませて、それを回収してから問題を解いてもらうことがある。このとき、語彙力がない人は普段よりも正答率が下がる傾向にあるように思う。
ここからわかることは、【点数が取れているということは、その当該の文章が読めているということを保証しない】ということではないか。すなわち、テストの点数は読解力をそのまま表していない。いわゆる入試テクニックに支えられている部分があるのだろうと予測される。はたしてその状態でよいのだろうか。
主張を先に述べよう。【入試テクニックはテストの点数を伸ばすものであって、力をつけるものではない】ということである。これを理解したうえでテクニックに頼るべきだ。
入試問題や入試への学習教材という大人の準備した「競技会場」でいくら結果を出していても、それが偶然に支えられていたり、大人の言うことを真似るだけでは、将来「登山」をするための力は全く身につかない。大人の準備した「競技会場」で、大人の評価や指導を受け入れているだけでは、その「競技の力」しか身に付かないのだ。
将来、整えられている問題に取り組むことのほうが少ないのだから、テストが解けていればそれでよい、ということではないのである。
では、その整えられていない「登山」を進むためには何をすべきか。大人が準備してくれたわけではない「裏山で遊ぶ」か、自分で工夫して「競技」での結果を伸ばし、結果を反省するか。どちらかをやっていないといきなり「急な山を登る」ことになる。
大人が準備してくれたわけではない「裏山で遊ぶ」というのは、自分の好きなことを好きなように伸ばしていくことである。発見や観察や練習をすることができる。
それならば、自分で工夫して「競技」での結果を伸ばし、結果を反省するとはどういうことか。
その前に、文章が読めているとはどういうことか考える必要がある。【文字通りの情報を読み取り、そして文字以上の情報を読み取ることができている状態】と私は考える。それなら、読み取る情報量が、多くかつ正確であることが望ましい。
しかし、それを測り、確認させ、反省を促すという役割を、現状のテストや問題は担ってくれない。読めなくても、解けるのだから当然だ。
だから、本当に読む力をつけたいのなら、自分の能力を点数で測ろうとするのはやめるべきだ。
問題をひと目見て解けたのかそうではないのか、頭に思い浮かんでいるのかそうではないのかなど、文章が読めているかを自分で確認しなければならないのである。これが、自分で工夫するということである。
入試テクニックはテストの点数を伸ばすものであって、力をつけるものではない。これを理解せずに、受け身でいてはいけないと私は思う。
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