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#5 いにしえのBL、男色とはチョトチガウ

こんにちは、本棚爆発寸前のAmatiです。電子同人誌頒布プラットフォームの実現を強く強く願っています。

前回「土佐日記」のネカマっぷりが読み手にバレてたら面白いなあなんて勢いで書いたのですが、正直なところ、「あんがい女性読者は気付いていたんじゃないかな」って思っています。ほのかな違和感って歴史には残らないものでしょう?

今回はBLと男色の歴史について、常より考えていたことを書いてみようと思います。
たぶんめっちゃ間違ってると思う。ツッコミは優しめにお願いします。

BL文化は半世紀以上前からあるんだってば

さて昨今BLコンテンツの商業的な成功例が増え、

「なぜ女性はBLが好きなのか?→抑圧された女性性の開放だ!」

とかいうしゃらくせえ説を見る機会もまた増えているように思います。
半世紀前はともかく、現代はどうなんでしょうね?私の知る限り、多くの腐女子は性的な抑圧を自覚するよりはるか以前に、男どうしの絡み合いに目覚めているように思うのですが。
「性への抑圧」がドミナントなものとしても、それをそのまま腐女子文化のアンサーとするのは、個人的には反対です。

ただし、大人の腐女子活動を「社会的抑圧からの開放」と捉えることについては大声でイエスと叫びたい。それはまた別の機会に。(わりと本連載のサビです)

それで「いにしえのBL」ということで『源氏物語』『とりかへばや物語』まで遡っていたのですが、マジでキリがなくなってきたのでざっくり削除しました(5000字…)
古典芸術における性表現についてはきっと頭のいい人がいっぱい研究しています。なので、賢くない私は10年刻みでBLのメインストリームを振り返ってみようと思います。

70年代から10年代までのBLコンテンツ、こんなに変わった

BLという言葉が生まれる以前にも「耽美」「ジュネ」「やおい」など、それに類する娯楽を表現する言葉はありました。
(なお、以下の作品は基本的に、ナマナマしい絵はありません。ちんちん苦手でも読めるので安心してね☆)

70年代、BLが「ジュネ」で「耽美」で「禁断の世界」だったころ

ここを「始まり」にしていいと思います。いわゆる「花の24年組」と言われる作家たちが、少女漫画に革命を起こしたころの作品がこれら。(いっぱいあるけど抜粋)

ヨーロッパ。ギムナジウム。美少年。
70年代のマンガ好きな女の子たちは逆立ちしても覗き見ることのかなわなかった世界を舞台に描かれる、めくるめく耽美の世界。たまんねえ

『パタリロ!』では、美少年だけが暮らす殺し屋育成寄宿学校やら、男性妊娠やら。現代の同人誌でもい~っぱい見かけるシチュエーションが満載です(歓喜)

80年代、「泥臭い生と魂の救済」を描いた作品

美しく罪深い、耽美な世界で生きて死ぬ美少年の世界から一転、舞台はアメリカ・ニューヨークのスラム街に移ります。ニューヨーク怖いところばい…

『BANANA FISH』は孤高の獅子のような少年「アッシュ」を中心にした、いのちの物語。大人に踏みつけられても折れない、泥に汚れても強く生きる美しさが幅広い層に支持され…っていうか彼を見守る日本人のバディ「英二」が、夢女子・腐女子を区別なくアッシュにブチ落としました。

アッシュの魅力は語りだすと止まらないので、古い映画『スタンド・バイ・ミー』で世界中の女子をトチ狂わせた少年「リバー・フェニックス」くんの写真をご参照ください、と書くにとどめます。

で、これすごく重要なんだけど、未読の方は文庫版のあとがきを読んではいけません。信じられないほどにネタバレ満載です。

同じようなネタバレは『カラマーゾフの兄弟』でもかまされました。名作なら誰でも結末を知っていると思わないでほしいな…

90年代、同性愛者の「性と生」を描いた名作

『赤ちゃんと僕』で天使のような少年を描いてくれた羅川真里茂さんの次作が、ゲイを真っ向から描いたものでした。

これはニューヨーク市警「ケイン」と天涯孤独の青年「メル」の物語。
ケインはホモフォビックなゲイ。メルがマジで天使。リアルタイムで読んでいた(10代の)頃は「心がひりつく愛の物語」だと思っていたのですが…なんか今読むとケインお前さ、苦悩するのはいいんだけど、メルに八つ当たりしすぎだよ…

ケインは傷ついた過去・メルは孤独を、相手の愛で癒していきます。同性愛に偏見をもつ家族や同僚、友人たちも傷つき、苦しんでいる。困難を一つずつ乗り越えていった時間が「愛の結晶」のかたちに昇華していく流れは、思い出すだけで涙腺が緩みます。

さて、本作と、先述の『BANANA FISH』には共通点があります。それは、「これはBLではない」と言われることがあるということ。気持ちはよっく分かるのですが、「これはファミコンじゃなくてプレステ!」みたいな話だからさ…

それに、本作もたしかに「同性愛のリアル」を描いてはいるのだろうけれど…同性愛者ってこんなに暗い過去を背負って、苦悩して、傷つけあってる人たちばっかりなの?平穏な生活とかムリなの?吉良吉影なの?

と思っていたら、ゼロ年代の名作にぶん殴られました。

00年代、同性愛者の「生」を食から描く

これが連載第一回目のコラムで紹介した「ゲイへのレプリゼンテーションとして機能するBL作品」です。
初めて読んだときの衝撃は忘れられません。

すごいな、と思っているのが、ここで「セクシャルマイノリティであることに苦悩するゲイカップル」という描写が激減していること。そして、性虐待の描写がなくなったことです。

ジルベールもマライヒも、アッシュもメルも性虐待の被害者です。同性愛にどこかしら「可哀想さ」がつきまとっていたのですね。それをザックリ切り捨てたのが本作。
現実の社会では、同性愛への差別や偏見はなくなっていません。とくに日本はひどい有様です。しかし、社会的な抑圧を表現から(不自然にならない程度に)排除し、「誰しも寄り添い合って生きている」というストーリーを作り続けることで、現実の差別や偏見も薄れ、消えていくんじゃないでしょうか。

それが文化的な社会のありかただし、私はそうあってほしいと思います。

渋谷に住んで、美味しいご飯をつくって食べて、年齢を重ねていくゲイカップルの物語(フィクションのなかで二人がちゃんと歳をとり、「初老」に差し掛かっているのもなにげに凄いこと!)。このまま老いと死まで描いてほしい。

10年代①、生活感や実体感がより近づく

商業BLの成功例が増え、作品のバリエーションも増えました。シミルボンで知って読んだのが、これ。すごく良かった。

「ささやかな幸せ」を絵に描いた餅にしないために、互いを尊重しあって暮らす男性カップル。どちらの尊厳も踏みつけず、自分を犠牲にせず、「二人の生活」を守るために寄り添いあう日常を描く、ほのぼのBLです。夫婦のありかた、人と人がともに生活するうえで大切なことが、とても丁寧に語られています。

本作がBLというカテゴリで出されているのも現実のゲイ文化への誠意だと思うのです。やっぱり現実とは違うんだよ、これはファンタジーなんだよ、という名目でこのような世界を描くのは優しいと思う(腐女子だからBL作品の肩を持ちがち)

10年代②、男の娘とメスお兄さん

また、もう一つ強く推したいのは、「リアルBLお兄さんたち」の活躍です。
現在、セクシャリティを隠すことなく活躍する性的少数者のタレントがいます。それも、自虐も他虐もない表現で。

顔出し活動でメディアでも有名なのが、「男の娘(おとこのこ)」大島薫くん。

これで男だぜ!?すごくねえ!?これでいて声はしっかりオトコなのがまたギャップあってイイ!

そして、私の大好物メスお兄さんの代表格として強く強く推したいのが、すず屋。さん。「顔から下だけ」の写真で有名な方です。

大ッッッッッファンです!この曲線!肌!各自お好みの推しの顔でお楽しみください!

Twitterで不定期にアップされる写真や動画がかなり腰に来ます。自分が男なら抜いてた。っていうか生えてきそうな気がする。文章投稿でも、腐女子が知りたいBLファンタジーの「本当のところ」をチラ見せで教えてくれたりもする。

お二人とも洗練された表現で、腐女子のツボをおさえた情報発信をしてくださるので、男性器を持っていない私にとっては師父っていうか神みたいな存在。

男色文化とBL文化って。

さてお二人をはじめ、SNSには「腐女子が喜ぶリアルBLお兄さん」が少なからずいらっしゃいます。
皆さんサービス精神旺盛でニーズを分かってらっしゃるため、つい腐女子は彼らに甘えて「ファーーーーーリアルBLタマンネーーー(๑´ڡ`๑)」という気持ちになってしまう。

しかし忘れてはならないのが、現代の日本社会において、まだまだ同性愛に対する偏見はキツイ、ということ。マイノリティ側のサービス精神に甘えて傲慢になってしまわないように気をつけないとね。
…という話になると必ず「日本は性に寛容だった」という論が出てきます。織田信長の小姓・森蘭丸を代表に、戦国武将や寺僧コミュニティでの男色をして「日本は性や男色に開放的だった」という話。

しかし、個人的には「そうかなあ…なんかちがくなーい?」という気持ちなんですよね…

長くなったので一旦切ります。
次回は「男色とBLの違い」と「国外のBL事情」について書こうと思います。

<<#4 面倒くさい腐女子の話
>>#6 日本と世界の男×男エッチ事情


投稿日 2017.10.27
ブックレビューサイトシミルボン(2023年10月に閉鎖)に投稿したレビューの転載です

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