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私はバチがあたるのだろうか

「恵まれてる人間は、頑張らなきゃバチが当たる」
「世の中には色んなことで困っていて、本当に大変な思いをしている人が沢山いる。だからそうでない人間は、感謝して一生懸命に生きなくてはいけない」

わたしはこういう言葉を聞くたび、自己肯定感がゴリゴリと削られ、自信がどんどん小さくなり、自分自身の未来が不安でいっぱいになる。

「あぁじゃあ私は心身ともに擦り切れるまで頑張らなきゃいけないんだ。擦り切れ果てたら戻る場所もお金もあるから、その分、擦り切れて、ボロボロにならなきゃダメなんだ、、!」  と、本気で思ってしまうからだ。

例え、現状すでにキャパオーバーだとしても、
「本当に私はギリギリまで努力している?していないと、恵まれているくせに、絶対にバチが当たるぞ!人生終わりだぞ!」 と大慌てしてしまう。

そして自分自身に追い詰められた私はどんどん壁に追いやられて、あっという間にペラペラのぺちゃんこになる。

こういう時、多分わたしは現状すでに全力で色んな事をやっていて、さらに頑張る隙間は、全然ないのだが、それでも私は、「甘え」「怠け」「恵まれているくせに」と自分を休みなく責めるので、仕方なく必死になって自分の外側に、臨時のキャパを付け足す。そして、苦しくて消えてしまいたくなりながら、奮闘する。
(消えてしまいなんて言ってはいけない、愛されているくせに罰当たりめ!と、そこでも私は自分に追い打ちをかける。)

ずっと、そうやってやってきた。が、今は何故か、もう全然頑張れないモードになっている。ちょっと前までやる気がたくさんあったのに、今は、全然頑張れない。というより頑張りたくない、が正しいかもしれない。

たぶん、「適切な頑張り方」があるんだと思うけど、それをまだ見つけられていない。やっぱり、力の注ぎ方が分かっていないんだと思う。

学生時代、何年も必死に頑張った結果がうつ病だった。
だから、「自己否定」を要因として、頑張ろうとするのは、すごく怖い。絶対良くないことになる。

ずっと、当たり前のように考えてきたこういう言葉たち。
「大事なものを失ってから気付く前に、ちゃんと頑張らなきゃ、バチが当たるかもしれない。」
「神様が見ているから(私はカトリックだ)、感謝して、ちゃんと頑張っていかなきゃ、大変なことになるかもしれない。」

これって、本当なのだろうか。
手を抜いたり、適当に生きたり、誰かに全力で甘えたり、誰かに迷惑をかけたりは、そんなにダメなことなのだろうか。

恵まれている分際で、頑張らない生き方をしたり、悪いことをしたら(遅刻する、嘘をつく、ズル休みする、人の気持ちをあまり考えずに発言する)、神様が見ていて、わたしは沢山バチが当たるのだろうか?

前の記事の通り、どれだけ苦労したからといって、必ず素晴らしいものが待っているとは、わたしは最近、どうしても思えない。

必死になって振り絞ったところで、エネルギーが足りていない時は、多分無理なのだ。
たまに本当に、水を絞りきった雑巾のようになって、カラカラに乾いてしまう。

今はその時なのかもしれない。
そういう時は、それを認めて、自分を甘やかしてもいいのだろうか。何も心配せず、未来のためではなくたった今の楽しさを最優先してもいいのだろうか。

そんなこと、怖くて一度もやれたことがない。(私は、自分以上はないのではというくらいの、心配性)

どこまで自分が頑張ってるかは目に見えないから厄介だ。自分のキャパがメーターみたいに、目に見えたらいいのになぁ。気が抜けない毎日は、しんどいな。

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