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誰かのせいを空になげる

皆さんは身の回りのあれこれを誰かのせいにしたことはありますか?

僕はあります。

『あの人がこうしてくれなかったから』
『この環境がよくない』

でも、そう思った時はだいたい鏡を見るように弱い自分が浮き出てきて、悔しくて泣きたくなる。
あの人とこうできなかったのは自分だし、自分もこの環境の一部、できることが少なからずあったことがわかる。

エネルギーを外に向けまくっていることでよかった学生時代は、遅刻しそうな時も「おかんが朝起こしてくれなかったから」と言えたかもしれないけど、さすがにもう大人。

他責と内省を脳内反復横跳びさせながら、おい頼むぜってなったり、ってことは全然できてねえなってへこんだり、どうしたら良いのか周りに相談したりする。

誰かのせいにしたり、陰謀論を信じたり、わからない情報を確かだと思い込むことで救われることもある。

昔の人が疫病をたたりのせいにしたり、奇妙なあれこれを鬼のせいにしたりしていたのもそうかもしれない。

でもそれはほどほどに空に投げといて、自分の内側に矢印を向けることも大切にしたい。

不可抗力なことは別として、今いる環境は自分の選択の元でできているはずだから、何かのせいにしまくっていると、自分の選択を否定していることになりそうというか。自分の外に求めることしかできなくなりそうというか。

そんな時に上川町の外は大雪でマイナス10度。
雪かきをしないと身動きも取れないし、暖房を入れなければ死んでしまう。

この理不尽の上を自分の足で立つこと。
近所の人と雪かきしながら「また降ったねえ~」とお互いにスコップを動かしながら、やれやれと笑い合うこと。

誰のせいにもできない理不尽を目の前にしたときには、ここからの自分の選択しかない。決めることは辛いけど明るい。

そりゃ雪の降らない年中プラス気温の土地で暮らしたいと何度思ったかわからないけれど、この過酷な環境が自分の中に矢印を向けるきっかけをくれているのかもと思ったら雪かきもつらくなくなった。(ウソ)


変化は常だし、その都度ふんわりとでも自身の選択がついてまわっていると思う。

自分で決められないことは嫌、決めないことは楽、決めることは負荷、誰かにゆだねることが自分の精神を保つ術でもあるけれど、それでも自分の選択に適度に責任をもって"ここならできる"をやってみる1年にしたい。2024も頑張るぞー!

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