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★恐怖に立ち向かうということ


僕はずっと、

誰かの役に立つことをやろうと頑張ってきました。
誰かが喜んでくれることをやろうと頑張ってきました。

誰かに褒められることをやろうと頑張ってきました。

そして
誰かに嫌われないように頑張ってきました。

小さい子供でも、その子がなにかをしたときに
お礼を言ったり喜んだりすると喜んだりはにかんだりします。

僕らにはもともと「喜ばれると嬉しい、褒められると嬉しい」という感情が発生するようになっているのでしょうね。

だから、誰かの役に立つこと、喜ばれること、助けてお礼を言われることっていうのが嬉しくて、そしてそれは「喜んだ側、助かった側」にとってもうれしいことで、

だからこそそれが「報酬というお礼」の発生する「仕事」として成り立つのだと思うのです。

で、まぁ、これはこれでいいことなのですが、、、

これがこじれると「問題」が発生するわけです。

役に立ったのにお礼がない、
がんばったのに、喜んでくれない、
いいことしたはずなのに、褒めて(認めて)もらえない、、、

という沼です。

このあたりから「がんばる教」に入信です(笑)

役に立ったのにお礼がない、
がんばったのに、喜んでくれない、
いいことしたはずなのに、褒めて(認めて)もらえない、、、

からの

「もっと頑張らなければ」
「見返してやる」
「認めてくれない人(価値の分からないやつ)はバカだ嫌いだ」

と、拗れていくわけです。

もしかしたら、そもそもの気持ちはお母さんに対するものだったりします。

こういうこじれとともに、恐怖も作り出されていきます。

それは「ほめられる」ことで生まれる恐怖です。

「がんばって褒められた」としたら、それは嬉しかった。
でも、「頑張らなくなったらもう褒められない」という恐怖です。

これが「愛されない恐怖」ですね。

もう「がんばるのがやめられない」「もっと頑張らなければならない」の沼から抜け出せません。

これは「嫌われる恐怖」にも近いかもしれません。

この恐怖から抜け出すには、
この「呪い」から目覚めるには

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