父 人生を楽しんでいる人 4 父の活動

(読了目安12分)

前回から続き、ネパールでNGO活動をする父の活動内容についてです。


☆JICA職員にならず活動しました

父が活動している地域の多くは「車が入れないところ」です。
以前、日本のお金を有効に使う方法のひとつとして、「JICA(ジャイカ・国際協力機構)」の現地職員になり、その給料も全部ネパールのために使おうとしたことがありました。


しかし・・・話が進むにつれ、父はどうしてもあきらめざるをえなかったんです。


それは、活動できる地域が、「車が入れるところ・電話があるところ」に限定されていたからだそうです。
これらは、緊急時にJICA職員を守るための必要条件でした。
つまり、良く言えば「職員の命を守るため」、悪く言えば「職員に死なれたら困る」ということです。
しかし父にとって、車が通れて電話がある場所は「テレビやパソコンが欲しい」というニーズもあり、「すでに開発された場所」に思えたんだそうです。


雪崩事故のあと父が見た山奥の村々は、「外国人を見るのが初めて」という村ばかりで、電気・ガス・水道・トイレもなく、豚と人間が一緒に寝るような村もありました。
そんな村人たちが求めていた支援は命に直結するようなもので、「テレビが欲しい、パソコンが欲しい」という内容ではなかったんです(山奥の村人はパソコンという単語さえ知らないかもしれません)。


結局父はJICA職員にはならず、車では入れない村を重点的に視察してまわりました。


以前、父の活動についてNHKの番組制作会社から取材の申し込みがあったとき、父の活動地域があまりに奥地のため、取材を断念したことがあります。

車が入れない奥地でしたから、

「歩きでは重い機材を運べない」
「緊急事態になにもできない」
「電話が通じない」
「コストがかかりすぎる」
「ヘリが着地できる場所がない」

・・・こんな理由だったんです。

そのときマスターが思ったことは、「本当の奥の奥にある村は取材対象にならない」、つまり、「世の誰からも知られることはない」ということでした。


さて、そんな奥の奥のそのまた奥の村人たちは、まず字が書けませんし、英語も話せませんから、自分たちの窮状を誰にも伝えることができず、悲惨な状況をそのまま受け入れる生活をしています。
極論すると、自分の子どもが大ケガや感染症で苦しみ息絶えていく姿を、なすすべもなく受け入れるわけです。


現在のネパールは携帯電話が普及していますが、父が活動を始めた当時、電話がある場所まで歩いて何時間、または数日かかる場所にある村では、日本人には想像できない悲劇があったようです。
父はそんな現状を見て、「一番奥の村に行き、同じ食卓を囲み、直接ネパール語で話し、困っていることを打ち明けてもらう・・・」というスタイルをとるようになりました。
結果的に、命に関わる問題の解決につながりますから、返ってくる愛の大きさも半端ではなかったようです。
村人たちが喜ぶ姿を見て、父もうれし泣きすることがよくあるようです。


※JICA後日談
JICAの理事長が「緒方貞子」さんだったころ、父は、ネパールにあるJICAの事務所での講演を頼まれ、それを受けました。
その後、何度も講演に呼ばれました。
JICAとのかかわりは、職員ではなく「講演者」という形で実現しました。


父が活動する山岳地帯には、こんな村々が点在します
(この村は二階建ての家があるので最貧困の村ではありません)

ネパール山奥の村



豚の頭で遊ぶ子 裸足です 
(右の女の子は写真を撮ってもらえると知り、着替えてきたそうです)

豚の頭で遊ぶ子供たち




父は子供と遊ぶのがなによりの楽しみだそうです

村の子どもたち




貧しい家庭とそのふとん 
一枚を一家全員で使いますが、つぎはぎだらけで、べったりとして重たかったそうです

貧しい家庭の布団1


貧しい家庭の布団2




☆自分1人で歩くことにしました

父が住みはじめた地域の山奥の村は、車が通れる道がない場所にありました。
車道がある場所は、通常はほとんど同時に電気も通りますから、父の考え方では「ある程度開発が終わっている場所」だったんです。
ですから、父は車が入れないところ、つまり歩いてしか行けないところをメインに回ることになり、ネパールに住み始めた当初、案内や通訳をしてくれるネパール人と一緒に歩きながらNGO活動をしていました。


山歩きは身の危険もありますから、「案内役兼通訳をつける」、それは当然といえば当然のことでした。


まず、「案内役」が必要なのは、道がわからないからです。
地図もないですし、標識もありません。
道を書いてもらってももちろん正確ではないです。
それは、教育が不十分で、うまく説明する言葉もなく、書くことができないからです。


それから、歩道は日本みたいにきれいに整備されているわけではなく、終始悪路ですから、転倒してケガをする可能性もあります。
また、時間帯や場所によっては野生動物に襲われる危険もあります。
大型の動物も怖いんですが、ヘビ、サソリ、ムカデ、ヒルなんかが手ごわいそうです。
ネパールの山奥で、道に迷い電話もない状態は命の危険さえあり、そんなとき、1人より2人の方が、お互いに生き残れる確率が高いということです。
父の話を聞いてからは、初めに書いた「JICA」が、「電話と車道がないところに職員を派遣しない」という理由も納得できました。


次に、「通訳」が必要なのは、全く言葉が通じないからです。
ギリギリ英語が話せる人がいても、その英語が正しいとは限りません。
肝心なところで誤解を防ぐため、また、できるだけ円滑なコミュニケーションを取るために通訳が必要になります。


父は、ネパールに住んで数年間は、「お伴(おとも)」をつけながら山奥を何時間も歩き続けましたが、いつまでも「お伴」を雇うことはありませんでした。
数年間かけて道を覚え、やはり数年間かけて言葉を覚え、自ら直接、多くの人と関わるようになったんです。


マスターも好きなことはいくらでもできますが、父のネパールにかける情熱は、マスターには実感できません・・・ただただ「すごい情熱」としか表現できないんです。
しかしこれは、愛する努力以外のなにものでもないんです。
現在の父の幸せそうな姿を見ると、本当にそれがよくわかります。


ネパール語を覚えてからは、できる限り自分の力で歩くようにしたようです。
そうすることで地域の人たちからの信用度が上がっていきましたし、「オレも一緒に行くよ」と、お金に関係なく自ら同伴する人も増えていきました。
また、民家を通り過ぎるとき、「おう!お茶でも飲んでいきな」と声をかけてもらえるようになり、覚えた言葉で会話もでき、お茶を飲む気にもなるわけです。


ネパール語を覚えてからは、急速にネパール人の信用を集めた父でしたが、それはみなさんも想像できると思います。
前回も書いたように、仮にみなさんが住む地域に、突然「宇宙人」が来たとします。
その宇宙人が、日本人の「通訳」をつけ、宇宙語で会話しながら歩いているより、日本語を習得した宇宙人が「やあ!こんちわー!なんか困ってることない?」、なんて言いながら1人で歩いてる方が、声をかけやすく信用できると思います。
「この宇宙人、本気で日本のことが好きなんだな、私たちを助けるつもりなんだな」って。


困っている相手から「本当のニーズ」を聞き出すために、父がやったのはそれなんです。
そして、「本当のニーズ」が叶った時の村人たちの喜びはとても大きく、その村人たちの喜びは、大きな愛となって返ってきます。
いま、父は基本的に1人で歩いていますが、ネパール語が話せなかった昔と違い、父を慕ってくれ、一緒に歩いてくれるネパール人はたくさんいるようです。
つまり、情熱が周囲に伝わり、周囲が自分の意思で協力してくれるようになったということです。
また、「案内役兼通訳」としてではなく、活動の関係者として一緒に歩くネパール人も増えました。
道中は常にネパール語です。
以下、父の日常写真です


裁縫です
自分のことは自分でね

裁縫中の父



はじめはおびえていた子どもたちも笑顔で接してくれるようになりました
村の子供たちと軒下で一緒に寝る日もあるそうです

ネパールの子どもたち



☆「お礼・日本での報告会」をしています

現在、父の活動は主に日本人からの資金援助で支えられています。
支援金の使途の説明や、ネパールの現状を伝えるため、年間2ヶ月間は日本の各地で講演会を開き、自分の活動の報告をします。
小中高校、大学、それから、一般の大人の集まり、小規模では数名、大規模では数百名の集まり、日本記者クラブなんかで講演をすることもあります。
(コロナ禍では活動を控えました)


父は、お金を寄付してくれた人・団体に対して、手書きのはがき、もしくは手紙でお礼をしています。
手書きのはがきを読んだ人が、その丁寧さを感じ取ってくれ、次も支援しようと思ってくれる場合が多いということです。
報告や管理のために、「誰からいくらもらった」という記録は持っていますが、全ての人に同じように感謝しているようです。


また、「講演料・謝礼金」がなくても、講演依頼を受けることにしています
(交通費などの必要経費はいただいています)。
これも前回書いたことですが、以前、講演依頼者から「謝礼金は出せないんですけど、なにか他のことで要望があればできるかぎりのことはさせていただきます、講演後、お昼ご飯はこちらでご馳走させていただきます」
という相談があったんです。


その当時はマスターがスケジュール管理をしていて、父に「その条件で依頼を受けるか?」と尋ねると、父からの答えはこうでした。

「いいよ、それじゃ、お昼にしょうゆラーメン一杯食べさせてもらえるかなあ?」


父はお金を稼ぐために講演を受けるわけではないので、しょうゆラーメンで嬉しいですし、依頼主のコストは最小限ですし、講演に来てくれた人が父の話を聞いて迷惑さえしなければ、それは「愛」です。


学校にて
東京を中心に講演

学校でネパールの現状を伝えます


ネパールの帽子をかぶって講演




個人的な集まりにも参加

外国人ともおしゃべり




ホテルの大広間でも

右側の壇上で話します



ホテルの大広間でも父はスーツを着ません 
手前はマスターの妻(2002年当時)です

スーツを着たがらない父





☆裏話 歓迎されると鶏が犠牲になる

ネパールに住み始めた当初、行く先の村々で「歓迎」されていた父でした。
ネパールの村で「歓迎」と言えば、貴重な動物性蛋白源である「鶏」です。
貧しい村ほど、「大きな出費」になってしまいますが、初めての外国人を迎える村としては、最大限がんばるわけです。
もちろんその鶏1羽が、日本からの支援で100羽分になって返ってくるだろうという、村人の欲や期待があるからなんでしょう・・・
一方の父なんですが、肉はあまり食べません。
食べられるんですが、できれば避けたいと思っています。


昔の手紙にはこうあります。
「ぼくが村を訪問するたびに歓迎され、鶏が犠牲になるんです。ありがたくいただきますけど、どうしたもんでしょうか・・・」


そして近年、その内容が嬉しそうなものに変わりました。
簡単に書くと以下のようなものです。
「ぼくが村を訪問しても鶏が犠牲になりません。村人の一員として認めてもらえたみたいで嬉しいです!」


「歓迎されることは嬉しい、でも歓迎されないことの方がもっと嬉しい」・・・


これはマスターも似たようなことを感じています。
ちょっとニュアンスは違うんですが、誕生日とか、クリスマスとか、正月とかいろいろありますよね。
今のマスターにとって、生きていることがすでに特別なことなので、「特別な日」、という観念が薄いんです。


なにかの「記念日」がたしかに大切な時期もありました。
でも歳を取るほどにその感覚が薄れていき、他の日も同じように価値があるものになっていくんです。
言ってみれば毎日が記念日、もっと言えば、人間の一生が全部記念日として認識できるようになってきました。


父が鶏の悲鳴を聞かなくてすむようになったということは、父が「特別な人」ではなくなったということですから、鶏にとっても、ネパール人にとっても、父にとってもいいことなんじゃないかと思います。


父が車で乗り付けて、壇上から日本語しか話さない人だったら、「形式的な歓迎の儀式」はいつまでも続いたかもしれません。


ムダに鶏が殺されないこと・・・これも「愛」です。


ただ、この「愛」にたどりつくには、ここまで書いてきたように、お金を正しく使う知恵、ネパール語を覚える努力、活動地域を考える知恵、1人で歩く勇気など、愛する努力が必要だったわけです。


みなさんの人生もある意味「歓迎されなくなった時」からが本番です。
「歓迎されなくなる」というのは、「非日常」が「日常」へと変わり、当初の刺激がなくなってきたときです。
恋愛、結婚は、初期の刺激がなくなってからが本番ですからね、忘れないでください。
恋愛初期の「非日常」による刺激だけを求めたら、知恵のないまま歳をとり、一生愛にたどりつけません。
一見平凡な現実の中で、知恵を使い、自分の責任で自分を幸せにすることが大切です。
愛はみなさんの中にあります。

歓迎の食事
歓迎されると鶏が1羽犠牲に・・・

歓迎用の豪華な食事(村人は普段は肉を食べません)




余談ですが、ネパールの子供は野鳥を捕獲して食料にします。

15歳の子が野鳥をさばいています





今回は以上です。
次回以降も以下のようなテーマで続きます。

☆日本人奥様たちのお買い物
☆平均年収が上がるということは・・・寄付したお金はどこへ行く?
☆多重請求
☆王様を超えたとき
☆村に電気が入ると
☆内乱が続くネパールで
☆警察官の死体が
☆肋骨を6本折っても
☆愛し続けるとどうなるか 父の場合

・・・

投稿タイトル一覧は以下です。


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