過換気症候群

(読了目安5分)

以前、20代半ばのK子さんから、「不思議な霊体験があったんです」と、以下の話を聞きました。



1年前に海外に行ったときのことです。

知人の男性が運転する車が前、私が運転する車が後ろという状態で田舎道を走っていたとき、だんだん身体がしびれてきたんです。

手足が動かなくなってきたので危険を感じ、前の車に合図をして車を路肩に停めました。

暫く休んでいたら治ったんですが、あれって霊現象だったんでしょうか。



K子さんはワーキングホリデーで海外に滞在した経験があり、事情があって車を運転していたところ、上記のような「しびれ・手足の不自由」を体験したそうです。
車を停めると、前を走っていた男性はK子さんを心配し、しばらくの間一緒にいてくれたそうですが、そのとき、「霊」というキーワードを使ってその状況を説明しようとしていたんだそうです。


K子さんは

「その場に差し掛かると、徐々に身体がしびれてきて、車の運転が難しくなった」

「霊に取りつかれたのかもしれない」

「彼がいなかったらどうなっていたことか」

「あれが霊現象だとしたら、初体験です」

・・・こんなことを言っていました。

マスターがその話をK子さんから聞いていたとき、その場には、マスターの知人、C子さんがいました。
マスターはK子さんの話を聞きながら、この件はC子さんが回答できることがわかったので、C子さんに話をふりました。

マスター
「ねえC子、この話、なにが起こったかわかるかな?」


C子さん
「はい、過換気症候群(かかんきしょうこうぐん)だと思います」

マスター
「うん、そうだね」




K子さんは「霊現象」の可能性を考えていたようでしたが、話を聞いていたマスターとC子さんは、話の途中から「過換気症候群(かかんきしょうこうぐん)」を疑っていました。
過換気症候群は、「過呼吸」と呼ばれることもあり、簡単に言えば、「過剰な呼吸による異常な身体状態」です(詳しくは検索を)。
精神的な緊張が原因で通常の呼吸が荒くなり、呼吸が過剰な状態になります。


過換気症候群になると出てくる症状の一つに、「四肢のしびれ」があり、手足がしびれてしまい、徐々に動かなくなっていきます。
K子さんはこの状態を体験したわけです。
(通常は10分~20分で治ります)


過換気症候群になった理由は、当時のK子さんの状況を想像すれば理解できます。
外国という慣れない土地、しかも人が少ない田舎道を、別々の車とは言え、現地の男性と2人で走っていました。

「まだ目的地に着かないのか」

「このままどうなるんだろう」

など、K子さんが不安になるのは当然で、K子さん本人もその状況を「運転中は不安でした」と言っていました。
実はマスターも20代のときに一度だけ、大腸の検査の前に過呼吸を体験したことがあり、K子さんの症状から病名を予想したC子さんも、20代に頻繁に経験していたものでした。
10代、20代の人に多く見られる現象だということですが、不安を感じれば誰にでも起こる可能性があります。


結局、K子さんお連れの男性も本質的な原因はわからず、霊と言う言葉を使って説明しているうちに、K子さんの症状は治っていったということでした。
K子さんの頭には「霊現象」というイメージだけが残り、日本に帰国してもずっと気になっていたそうです。


さて、ここでマスターがいつもみなさんに伝えているように、「自分が理解できないこと」を「霊現象」と解釈してしまうのはとても危険です。
仮に、K子さんの連れの男性が全面的に霊現象だと信じてしまう人なら、現場で慌ててしまい、後日、除霊や心霊グッズなどに頼ってしまったかもしれません。
身体に異常を感じる度に当時のことを思い出し、「あの時にとり付いた霊がまだ出ていかない、どうにかしないと!」とパニックになることもありえます。
また、連れの男性が悪知恵のある人だったら、「この辺りは心霊スポットだから、きっとなにかが憑依したね、ぼくが除霊してあげる」と祈り始め、K子さんには「祈りによって命拾いした」と思わせて信用を得た後、お金や身体を求めることになったかもしれません。
K子さんの経験不足や無知が、K子さんを愛から遠ざけてしまうわけです。



◎「不明」の大切さ


前回投稿の「解離性同一性障害」の話も合わせ、「無知」は不安・霊・超常現象などに結びつき、愛を遠ざけてしまいます。
「霊だ、神だ」と結論を急ぐ前に、今の人類の知恵で徹底して研究し、それでもわからないことは、「不明」として未来への課題にすることが知恵です。
結論を急がず「不明」とすることで、その現象の研究の余地が生まれ、いつも書くように、昔は「不安」の象徴だった皆既日食が、現在は「娯楽」になったわけです。


不思議な現象を、理論的に解明する努力は、愛をそそぐ努力とも言えます。
一方で、理論的に解明する努力を、「霊や神を冒涜する行為」と考える人もいます。
しかし、もし霊や神がいるなら、一生懸命考える人間の知恵や努力を見て、冒涜とは思わないはずです。


物理的なものにせよ心理的なものにせよ、理解できないことがある場合、結論を急がず「不明」とし、まずは自分の「無知」に目を向けてみてください。
自分の無知に目を向け、考え続けることが、愛に近づくということです。


・・・

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