宗教 7 古い経典は現代まで正確に伝わっているか
(読了目安8分)
◎古い経典は現代まで正確に伝わっているか
みなさんは、「昔の教えは尊い」なんて考えていませんか?
現在の生活に不満や不安があると、「自分」や「未来」に目を向けるのではなく、「過去の知恵」を妄信してしまう人がいます。
しかし過去の知恵というのは、人類が「金縛りは悪魔が胸に乗ってきたから起こる」「地震は大ナマズが暴れるから起こる」「化石は神が命を吹き込まなかったもの」などと本気で考えていた時代のものです。
もっと昔になれば、さらにひどいものばかりです。
昔の知恵が全て間違っているわけではありませんが、知恵は、経験の積み重ねで洗練されていくものです。
わかりやすく「通信手段」で例えれば、「のろし」→「伝言」→「手紙」→「電話」→「携帯電話」→「パソコン」→「スマホ」と進化してきました。
人類の「知恵」そのものは、トータルで言えば、現代の方が優れていることは間違いありません。
つまり、現在「愛されない」と悩んでいる人は、過去の知恵よりも、今の知恵を学ぶ方が、愛にたどりつきやすいということです。
・・・
今回は、現代語に翻訳された、「宗教の古い経典」についての話です。
まず、マスターが書いているこのnoteについてですが、ほとんど同じ時代に生まれて同じ教育を受けた日本人同士でも、読んだときの解釈は同じではないですよね。
読む人によって、同じ文章が違った意味を持つことがあるんです。
ですから、たとえ現代の文章であっても、「著者の意図することが正確に伝わらない」ということが起こります。
少しさかのぼり、500年前の日本の文献について考えてみましょう。
500年前の日本の文献を、現代の日本人の学者が翻訳した場合、担当する学者・研究者の経験次第で、様々な訳文になることは想像できますよね。
それに加え、ひとつの単語に対していくつもの類義語があったりしますから、訳文の大筋は同じだとしても、極論すれば、10人で訳せば10種類の訳文ができることになります。
ではそれが、外国の、しかも数千年前の経典ならどうでしょうか。
仮に3000年前のインドの経典があったとして、その本意が、現代の日本人に伝わると思いますか?
まず、経典は3000年前のものそのものではなく、経典を書き写す「写本」という作業の積み重ねを経てコピーされています。
この「写本」で書き写しの誤差が出るのは当然です。
そして現代のインド人が、数千年前の経典を正確に訳すことができるかどうか・・・
これはほぼ不可能です。
やはり10人で訳せば10種類の訳文ができることになります。
そして、新しく出来上がった経典の訳文を日本語に訳すときに、また大きな問題にぶつかります。
「日本語が堪能なインド人」が日本語に訳すのか・・・
それとも
「インド語が堪能な日本人」が日本語に訳すのか・・・
ということです。
これだけで状況が大きく変わります。
あなたが日本語で書いた手紙を、英語が得意な日本人が英語に訳した場合と、日本語が得意なイギリス人が英語に訳した場合・・・
そうなんです、両者が訳した文章が一致するわけがありません。
必ず「ズレ」が生じることがわかると思います。
これも極論ですが、ちょっとした解釈や文化の違いで、本来と全く反対のことを書いてしまう場合もありえるんです。
初めに書いたように、生まれながらに同じ言葉を話す現代人同士でも、現代語でのやり取りに誤解が生じます。
過去の経典を外国語に訳す作業がいかに統一性のないものになるか、きっとみなさんも容易に理解できると思います。
つまり、3000年前のインドの経典を現代の日本語に訳した場合、経典を書いた教祖は、全く違うことを言っていた可能性が高いんです。
◎信じる者は救われる・・・
上記は、経典だけでなく、他の書物にも当てはまることで、昔の文献に関しては、過去になるほど、そして外国のものほど信憑性がありません。
ですから、古い経典は「読む人が信じたいように信じる」となります。
訳された経典を心から信じることができれば、数千年前の教祖が全然違うことを言っていたとしても、あなたは幸せになれます。
教祖や、教祖が書いた経典があなたを幸せにするのではなく、あなたの中にある「信じる力」が、あなたを幸せにするわけです。
「他人はあなたを幸せにすることができない」
↓
「人は自分の力で幸せになるしかない」
↓
「世の中には幸せな人がいる」
↓
「人は自分の力で幸せになれる」
ということです。
特に最後の、「自分の力で幸せになれる」というのがポイントです。
これをわかっているか、わかっていないかで、人生に差が出ます。
以前投稿した「遠隔ヒーリング」もそうでしたね。
たとえば今、ヒーラーが地球上のすべての人に「ヒーリングパワー」を送信しても、あなたがそれを知らないなら、あなたは愛を感じ取れません。
しかし遠隔ヒーリングを予約した場合、予約時間に、集中して「ヒーリングパワー」を感じようとすることで、ヒーラーからのパワーを信じることができ、癒される人が出てきます。
「たとえそのとき、ヒーラーが他のことをしていても」です。
ということは、あなたの中にある「信じる力」があなたを癒すわけで、「古い経典(昔の知恵)」があなたを幸せにするわけではないんです。
つまり、あなたにとっては「古い経典」の正確性などはどうでもよく、その経典を信じる気になるかどうかが全てなんです。
これが、「信じる者は救われる」ということです。
・・・が、しかし、ここから先に「愛」があります。
愛とは、「私もあなたも周りも楽しい」という状態ですから、仮にあなたが古い経典や文献にのめりこみ、1人でなんとか自分を癒すことができても、それはあなただけの問題であって、「愛」ではありません。
「自分癒し」だけでは、酔っぱらいと同じです。
まして「あなたもこの経典を読んでみなさい」なんて押し付けてしまったら、他人にお酒をすすめる酔っぱらいと同じです。
愛は、自分を癒した先にあります。
自分癒しを終えて、愛をそそげるようになったとき、「長く愛される人」になるわけです。
さて、不正確にしか伝わらない昔の経典や文献にのめりこみ、「そこに本質がある・これこそ真理だ」と信じている人に、知恵のある人は近づくでしょうか・・・
唯一信じていいことは、「人間の不完全性」です。
古い経典は、不完全な人間が作ったものですし、不完全な人間が翻訳したものです。
また、現代までその内容が正確に伝わるはずはありません。
あなたを幸せにするのは、古い経典ではなく、あなた自身だということを忘れないでください。
◎昔の教祖は純粋な利他主義だったか
前々回の「宗教 5」と一部かぶるんですが、もう一度書いておきますね。
宗教の教祖は、純粋な利他主義だと信じたいですよね。
大昔に死んでしまった教祖の素顔は誰にもわかりませんから、マスターの想像になりますが、きっとはじめは利他、やがて利己になっていく教祖が多かったと思います。
現代の多くの人と同じパターン、ということです。
ただ、時代をさかのぼるほど、現代より記録に残りにくいため、昔の教祖の方が、実物より美しく描かれたまま、その姿が長く信じられている場合が多いように思います。
教団が出版する教祖についての文献、または絵画などは、教祖を信じてきた周囲の人たちが書くわけですから、悪く書く人はいませんし、その宗教でお金を集め、飲み食い、または遊んでいたであろう幹部たちにとって、悪く書くことは自滅行為です。
そんな事情から、「教祖は生涯利他主義だった」という記述ばかり残ってしまうかもしれません。
教祖が生きている間なら、自分のことを「利他主義者」と書いてくれる人をかわいがりたくなりますしね。
よく言われていることですが、組織の長になる人は、大きく二つに分かれます。
ひとつは、信者の前では大変美しい言葉を並べているが、プライベートでは、信者の悪口や不平不満が絶えない人。
もうひとつは、信者の前でもプライベートでも、言行が一致している人です。
たとえば、利他主義の教祖なら、お酒は飲みません。
いざというときに自分が酔っていたら、動けないですし、判断力が鈍り、助けられる信者も助からない可能性があるからです。
お酒を飲まないことによって多くの人が救われるのは事実ですから、人を救いたいなら自分は飲まないはずです。
信者には、家の長である人もいますよね。
もし家の長がお酒を飲めば、子どもたちが病気や怪我のときに、思考力や行動に問題が出ますから、そんなことにならないためにも、教祖は見本になる必要があるわけです。
しかし、・・・実際は、飲みながら愚痴を言う組織の長も多いみたいですよ。
マスターなりにそんな「長」を見ていますが、人からも聞いたことがあります。
あるきっかけで、愛と平和を唱える団体の中枢部で、数ヶ月間生活した女性がいたんです。
マスターはその女性の言葉が印象的でした。
「マスター、あの団体、私が行った初日だけは良かったんですけどねえ・・・」
つまり、歓迎されたその日だけは楽しく過ごしたんですが、その後は、団体のトップのお酒と愚痴に付き合うことが多くなった、ということです。
これが、在家信者にはわからない教祖の一面です。
昔の宗教の教祖は、カメラや動画がある現代とは違い、人の「記憶・視覚・思い込み」などで表現され、とても神秘的な人物になっている場合がほとんですが、やはり教祖も一人の人間です。
利他主義を生涯通し切った教祖は少なかったんじゃないかと思います。
次回は、「教祖の悩み」「宗教じゃないと病気は治らないのか」などのテーマで書く予定です。
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