鉄壁__2_

「安全」と「不自由」

絶対的な安全だけど、めっちゃ不自由な生活と

絶対的に自由だけど、めっちゃ危険な生活とだったら

どちらを選びますか?

ってところでおそらく私たちは生きていると思います。

そして、この答えは、

何を「安全」ととるか何を「自由」ととるかで変わってきます


今、私たちの生活は安全でしょうか?

毎日不安を煽るようなニュースばかり、年金問題や○○詐欺。事件に横領。ゴシップや将来性はないという仕事。働き方改革や保障内容の変更、見直し。明日が必ず今日と同じようにくるのだろうか?

このような生活は安全と言えるでしょうか?


今私たちの生活は自由でしょうか?

毎日決まった時間に起き、会社に行き、働く。帰宅してご飯を食べて、一日の疲れを流してから就寝。そして繰り返し

このような生活は自由でしょうか?


記事の書き方に悪意があるような感じがしますが、事実、そのような感じで私たちを取り巻く環境と、その環境につつまれた生活スタイルは少なくないと思います。

では、冒頭にお伝えした究極的な安全な環境を考えてみましょう。

まず、私たちの生命は保証されています。どこに出かけてもSPのような方がついてきます。そして、モノを食べる時も毎食、チェックを通され、危険が無いかの確認をしたものだけ目の前に並びます。

会社なども上司、部下、同僚、などとの人間関係は事細かにチェックされ、全ての事象にマニュアルがあり、その通りにするとまず、ミスはおきません。

そして、万一のミスが無いようにマニュアル外のことが発生した場合はSPにて持ち帰り、試行錯誤し、安全なものだけ私たちはノウハウとして実行するよう言われるのです。

もちろん自由はありません。

安全優先の生活だからです。


おぉ・・・。

書いていてどこかの映画みたいな設定だと思いました。


ここまで考えて思うのは、「安全」と「自由」って逆のモノだと思うんです。

よく言われるのは「好きの反対は嫌い?無関心?」ということがあります。

言葉上では「好き」の反対は「嫌い」でしょうが、そうではない、と。

人間のこころの上での話なので無関心が正しいのではないか、と。

これと一緒で

「安全」の反対は「危険」ではなく「自由」

「自由」の反対は「不自由」ではなく「安全」

となります。

ですから、私たちが「危険」を感じているということは自由を手に入れる前触れであるということです!

逆にいうと「不自由」だなと感じることは「安全」を手に入れているということ。

ものの捉え方の話ではありますが、私たちの価値観は人それぞれあって、どなたの価値観も「自由」ですが、

それを相手に分かってもおうとした場合には、安全圏から出ないといけないという、なんともあちらを立てれば、こちらが立たず、みたいな構図になっています。

安全を望みますか?

自由を望みますか?


あなたが今日笑うことで
子ども達に明日への希望を届けよう
こころと言葉 礒村 博之
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虐待に関する電話はおよそ4分に1件。来年から児童養護施設の対象の児童が在宅支援になることもあり、さらに発見することが難しくなります。教育と虐待。線引きは明確ではないでしょうが、可能な限り関わっていきます。