27歳春-おわりに
桜舞い散る3月の終わりに、彼のことを思い出したのは偶然だった。
家族にご飯をつくろうと冷蔵庫を開けて、椎茸を眺めていた。肉詰めにしようかしら、そう考えたときにふと、思い出した光景があった。
冬のある日、斜めに切り取られた不思議な間取りの台所。流しの前のスペースに、窮屈に置かれたダイニングテーブル。その上に並べられた料理。不格好で、茶色いものばかりの、だけど精一杯の気持ちがこもった心尽くしの料理の中に、うずらの卵を乗せた椎茸のステーキがあった。
21歳の誕生日に、当時付き合っていた大好きだった彼が作ってくれたご飯だった。
思い返せば不思議な出会いだった。
導かれるように、何かに呼び寄せられるように彼と出会った。
自分の心に思い描いたものが、言葉にすることでそのまま伝わる感覚。
そして彼が紡ぎ出す言葉がしっくりと落ち着くこと。
どこかで生き別れた伴侶と再び出会ったような、かつてどこかで深く心を交わしたことがあるような、そんな出会いだった。
24歳と27歳で結婚しようという約束。
離れていてもつながっていると指輪をはめつづけて凹んでしまった薬指。
彼と生きていくのだと信じて疑わなかった。
東京を離れる彼を見送ったあの日も、寂しくて擦り切れそうになって歩道橋から空を眺めたあの日も、彼の赴任地の小さな家で一人ぼっちで彼を待っていたあの日も、寝たまま起きて来なくなった彼を待っていたあの日も。
大喧嘩をして、きっと君に会えるのは最後だねと銀座ペンギンを泣きながら抱きしめたあの日も。
これからも彼と生きていく。だからいまは、心の折れてしまった彼を私が引っ張って行かなくては。自分一人で立ってすらいなかったのに、彼の分まで背負い込もうとした。そんなことを彼は望んでいなかったのに。
21歳のまだ社会に出てすらいない未熟で幼い私の決意は、彼の心にはとても耳障りだったのだろう。
私たちを繋いでいた言葉が、同じ言葉を紡ぐ人間としての絆が成り立たなくなっていたのはいつからだったのだろう。
ずっと考えていた。
言葉でお互いを伝え合ってきた私たちが、いつから言葉にするのをやめてしまったのだろう。
悩みつづけて疲れ果て、どうしていいか分からなくなった私は一番してはいけないことをした。
それは、一人で抱えて一人で終わらせてしまうことだった。
彼に聞くこともできず、話すこともできずに終わらせてしまった私の恋は、数年間ずっと心に燻っていた。
どうして?
その一言が言えなかったがために。
新しい恋に進むこともできず、こんなのではいけないと思って心に蓋をして記憶を海に沈めてしまった。
それから数年。
いま私の薬指には、小さな石の光る指輪がはめられている。
指輪を買ってあげよう。
芝浦の薄暗い秘密基地のような家で、二人で布団にくるまりながら私の薬指を摘んで呟いた彼の声が蘇る。
道は別れてしまった。
きっと交わることはもう、ないのだろう。
それでもあのとき東京で、彼との未来を信じた私は紛れもなく心から彼を愛していた。
並んで指を絡めて、冬の匂いを吸い込んだあの日。
遅く起きた日、窓から差し込む朝日に目を細めながら、布団に包まれて抱き合った朝。
桜色に染まる日吉で写真を撮った別れの春。
蒸し暑い夜、コンビニでアイスを買って坂を上った帰り道。
赤く染まる山を車で駆け抜けた秋。
人生で100%の恋をした。
そんな日々だった。
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