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雲の中のおっさんが空から見てる

家族で「茶の味」という映画を見ていて、自分の子供の頃の不思議な感覚を思い出した話です。

この映画の中で、小学生の女の子に「でっかい自分が自分を観てる」という感覚があり、悩んで(?)いる…というプロットが描かれています。

小学校の朝礼のシーンで、校庭の端っこにでっかい「女の子」が座っている、列の中には女の子自身が退屈そうに並んでいる、という描写があり、「これ!わかる!」と思いました。


僕の場合は雲の中のおっさん

僕の場合は保育所のときなので、多分4歳か5歳ぐらいのときです。

保育所の横に芋畑がありました。

僕は独りで、芋畑の横を通る道にしゃがみこんで、道端の草むらで遊んでいました。小さいバッタを見つけたり、カマキリを捕まえたりして。

そのときふと空を見えげました。

すると雲が割れていました。ぱっくり。

その雲の割れ目には、でっかい白人のおっさんがいました。ニコニコしながらこっちを見ていました。おっさんの横にも誰か(友達? 奥さん?)が居た気がしないでもないですが、はっきり憶えているのはおっさんだけです。

おっさんは、ちょっとギリシャ(?)風の格好をしていました。

これだけ聞くと「え、それすごい怖いじゃーーん」と思うかもしれませんが、当時の自分は全然怖くなかったです。あと、こうしてときどき思い出してもやっぱり全然怖くない。

おっさんは雲の中でなにをしてるわけでもないんです。ただこっちをみているだけ。いや、ビシバシ目線を感じるわけでもない。ただそこの居る感じですね。監視されているという感覚は全然なかったです。


父親に話したら

この体験そのものというよりも、この体験がきっかけで、ある疑問が頭に思い浮かんでしまいました。一語一句は明確に思い出せませんが、次のような趣旨のことを4,5歳のボキャブラリーで父親に話しました。

俺:「自分は誰かが観ている劇や映画の登場人物なのではないか?」

わかりますかね?この感じ。自分自身が視点の中心で不思議なおっさんが雲の中に現れたのではなく、おっさんのほうが視点の中心で、自分は対象物のひとつであると考えたわけですね。

小さいときの記憶ですが、それに対する父親の回答は次のものでした。

父:「それは自我が確立されてないから、そう思うんだ。」

とのこと…。自分がした質問より、こっちのほうがクリアに、完全に、父親の言った言葉の通りそのまま憶えています。

こうして思い返すと、子供に「自我」とか通じねぇだろと思うわけですが、とにかく彼はこう言いました。


父親の「無解説」

父はそれ以上長々と説明しませんでした。「自我ってのはな…」みたいな感じの説明は全然なかった。まぁ適当な説明が思いつかなかった、というのが本当のところでしょうけど(笑)

とにかく父親からは「自我」がなんなのかということを教えてもらえませんでしたので、幼少時代の僕にとって「自我」とは単なる謎ワードでした。

それと雲の中のおっさんのこともありました。

おっさんが観ていることと、「自我の確立がなんたら」ということは、どうも関係があるらしい…というイメージが幼少の自分の中に芽生えたわけです。

おっさんは雲の中にいるから(不思議ではあるけど)その存在についてははっきりわかるわけです。

ところが「自我の確立」「おっさんと劇と自我の関係」などになると、さっぱりわからんわけです。そもそも最重要ワードの「自我」がわかってないですから。


「自我」って結局なんだよ!?

それからしばらくして、多分中学生のときだと思いますけど、「自我」の定義を学校の授業で習いました。「自己イメージ」とか「自己同一性(アイデンティティ)」とか、そういう周辺知識もいっしょに習って、「自我」がいきなり「なんだ」という感じよりも、哲学や心理学へのイントロダクション的な授業だったと思います。そう、あのなんだかわかったようなわからないような煮えきらない授業…。

テストで点数を取るために一通りは暗記しましたけど、考え方的には全くと言っていいほど納得してませんでした。

当時の僕は「ここに載ってる説明じゃ、雲の中のおっさんの存在が全然説明できないじゃないか!」と思ったんです。

相当悶々としましたね。「わかんねー」「なに言ってんだこいつら」「わかるように説明しろよ!」みたいなね。すごくイライラしながら教科書を読んだ記憶があります。

これは今だから言えるんですけど、それが逆に良かったと思うんです。

中学生当時に教科書に載っているような薄っぺらで表面的な説明で「ああ、自我ってそういうことね」みたいに納得しちゃったら、それ以上勉強しなかったよ思うんです。だから、当時は相当悩んだ、幼少の頃からの謎ワードがそのままなーーんも解決されなくて。でも、最初はそれでよかったんだと思います。

その後、この疑問を解消し、悶々を吹き飛ばすために、10代、20代、30代…とそれぞれのステージでいろんな勉強をしました。

そして40代になった今、やっぱり自我がなんなのかわかってないです(笑)。


消えた雲の中のおっさん

幼少の自分の上に現れた雲の中のおっさんとはしばらく会っていません。

多分、小学生の途中で、もうおっさんは見なくなったと思います。いつの間にか。

ただ「自分は誰かが観ている劇や映画の登場人物なのではないか?」という疑問、自己イメージの背景、もしくは、単純に感覚…、これはずっとありましたね。あ、今でもあります。

子供のころはそうやってこっちを観ているのはおっさん、ないし、おっさん達、というか、おっさんが住む世界の人達…みたいな感覚でした。

この構造は小学生のときから10代にかけてのどこかで消えてなくなってしまった。

10代後半、20代、30代は、「昔はそういう世界観を持っていた」という自覚はあるものの、基本的にはそれを否定して生きてきました。

自分は自分なんだ

という感覚ですね。

ある意味、教科書通りに「自我を確立」していたんだと思います。


問題は「誰が観る」のか?

でもその自分が置かれている「舞台」が必要だと思うんです。つまり自分が「前景」であるための「背景」が在るという理解を得るようになりました。だから、視聴者が雲の中のおっさんではなくなっただけで「自分は誰かが観ている劇や映画の登場人物なのではないか?」という感覚は残り続けたわけです。

ここにきてさらなる問題が発生しました。

誰がそれを観ているのか?

ということです。おっさんが不在になったからこそ浮き彫りになった問題です。

しばらくの間、「自分で自分を俯瞰している」というのを暗黙の了解としていました。ところが、これではどうもエビデンスに欠けるんですよ。なんのエビデンスかというと、この世界が存在するエビデンスです。

ちょっと大袈裟かもしれないですが、自分は自分の中から出れませんので、これは由々しき問題です(笑)。

というわけで目下この問題について自分なりに理解を深めようと思って取り組んでおります。

その取り組む過程でかなり面白い本に出会いまくってるのですが、一度に紹介することが難しいので、引き続きnoteの中で書籍レビューのような形で紹介していければと考えています。

***

まさか40歳超えて、子供時代に抱え込んだ問題が解決するどころかこじれるとは思いもしませんでした…。

それくらいこの「自我」とか「世界の存在」という分野は面白い問題が豊富に転がっているドメインだということですね。

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2019-11-18 追記: 続編を書きました。


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