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はじめて借りた夕焼けの部屋

はじめて部屋を借りたのは18か19歳のとき、もう20年以上前です。

東京は杉並区、丸ノ内線 南阿佐ヶ谷駅と井の頭線 浜田山駅のちょうど間ぐらいの場所感でした。23区内なのにどの駅にも遠い場所…。ちょっとした僻地…いやさ、落ち着きのある住宅街の真ん中にあったあの部屋でした。その部屋は確か201号室でした。1階に2部屋、2階に2部屋の合計4部屋しかない小さなアパートの角部屋でした。(全部屋が角部屋なんですけど。)

部屋はワンルーム+ロフト。細長くて、決して広々とはしてなかったですが、ロフトがある分、天井は高く造られていました。

アパートの目の前が公園で、毎日午後になると小学生が集まりだして夕方まで騒いでいました。そして横隣は銭湯でした。夕方から湯殿が閉まる時間(多分23時ごろだったかと)までふんわり人が行き交う気配がありました。大きなお風呂に響く「カコーーーン」という音もよく聞こえてきました。

そんな環境だったので、家にいると周りに人が暮らしている感じがずっとあり、一人で居ても全然寂しくありませんでした。

当時の僕は毎日スポットが変わる現場仕事をしていて、朝出るときもあれば夜出かけるときもあり、時間帯はかなり不規則な生活をしていました。それでもなぜかうまく夕方の4時前後は決まって部屋にいました。ある意味その夕方4時が、不規則な一人暮らしの時間において、唯一の軸のようになっていたと思います。

だからなのか、あの部屋を思い出すと夕焼けのイメージなんです。野郎の一人暮らしですから、特に料理という料理もしない。コンビニで買ったなにかを軽くつまみながら、「今日の現場はどこだっけ?」なんつって夕焼けの外を眺めてる。そんなイメージが頭の中に残っています。

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僕はどこに引っ越しても、その物件の大家さんとは気持ちよく挨拶を交わすぐらいの距離感でお付き合いしたいタイプです。それは初めて借りた部屋でもそうでした。

その部屋の大家さんは、アパートから100メートルくらい先にある蕎麦屋のご夫婦でした。蕎麦屋さんでお蕎麦を食べたことはないと思うんですが、大家さんに会いに月に一度は必ず伺ってました。

なぜ毎月わざわざお伺いしていたのか。

当時僕はまだ未成年でしたから、部屋の契約自体は母親がやってくれたんですね。うちの家庭はちょっと複雑な面があるんですが、母親は当時一時的にシングルマザーで、田舎街でスナックを経営していました。僕はといえば、父親と板橋のぼろアパートで楽しくやっていたのですが、まぁいろいろあって父親とのコンビも一時解散することになります。
僕は学校に席を置きながらアルバイトで生活していたので、都内で住めるところが必要。というわけで、母親が休みの日に上京して、不動産屋さんといっしょに物件を探してくれたんだと思います。

「思います」というのはつまり僕は部屋探しをしてないんです。

母親が部屋探しをしてくれている、というのは知ってましたが、ある日突然に「住む部屋決めておいたから」と連絡をもらった記憶があります。それで住むことになったのが南阿佐ヶ谷のアパートだった、というわけです。

最初は母親が家賃を半分払ってくれるはずでした。でもまぁそこは所詮、口約束。親子なんで「案の定」って感じですけど、いつの間にか(しかも結構早々に)家賃は全額僕が払うことになりました。

そこで困ったことが…。

元々の契約だと、大家さんの口座に母親の名義で家賃を振り込む、という支払い方法だったんだと思うんです。ところがこっちとら未成年のクソガキですから、金を稼ぐ方法はそれなりでしたけど、お金を払う方法となるとてんでわからない。「銀行振込? なにそれ、食えんの?」そんな感じだったわけです。

そういった経緯があり、毎月の家賃は直接大家さんに手渡しをしていました。大家さんも今思うといい人ですよね。そこ変にマニュアル人間な人たちじゃなくて助かったなぁと思います。

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7万いくらの家賃をポケットにしまって、蕎麦屋さんまでの短い道を歩いた感触を今でも憶えています。全然大したことじゃないんですけど、はじめての一人暮らし、はじめて家賃を自分で稼いだお金で払う感覚…そういうのがいろいろ合わさって、ちょっと大人になった感じを踏みしめながら歩いていた気がするんです。

はじめて借りた部屋って、自分が成長してきた記憶の中に欠かせない存在ですよね。自分の場合、クソガキからちょっと大人になる瞬間を思い出すとき、あの部屋と、母親と、大家さんと、ポケットの中の家賃がフラッシュバックします。なんか素朴だったなぁ、と。

そのアパートには多分2年弱住んでいたと記憶します。更新しなかったと思うので。

一人暮らしの小さなワンルームから巣立った後、今度は逆に家族を召喚し、間取りの広いマンションを借りて住み始めました。
住む環境も大きく変わりましたけど、僕の働く環境も変わっていきました。20代前半は数年かけて、徐々に肉体労働/現場作業系から頭脳労働/IT系へと職種を移行していきました。
そして26歳のときに自分にとっては大きな転職の機会を迎え、不動産関係の、しかもお金周りのシステム開発をする仕事に就くことになります。家賃を大家さんに手渡ししていた頃の自分からしたら考えもしなかった仕事です。

「銀行振込の仕方がわかんなかったら直接手渡しちゃえばいいじゃん」

という考え方だった人間が、ですよ。不動産屋さんと銀行の担当者さんとの間に入ってシステムのコンサルをするまでになるんです。もう不思議ですよね、人間て。

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そういう自分の成長の起点があの部屋の記憶にあるような気がします。

僕は結構引っ越しをたくさんしてます。この話に書いた南阿佐ケ谷のアパートから始まって、武蔵野市、大田区、横浜市、もう一回杉並、そんでもう一回横浜、と、あっちこっち行って、今は江東区に落ち着いてます。
引っ越しと自分自身の成長は無縁ではなく、やっぱりなにか環境を変えたいという思いが高まると、「場所を変える」というのは安直ではありますが確実に変化できます。お金はかかりますけど…。

引っ越しとちょくちょくリンクしながら何度か転職して、様々な企業で経験を積ませていただきました。そういった経験を全部集約して独立し、ここ7年ほどはフリーランスでシステムエンジニアをやっています。年齢も40代に突入しました。

そしてまた変化のときを迎えているように感じます。
システム系以外の仕事にもトライし始めました。

そんな中、これまでやってきた仕事とこれからやりたい仕事の間でうまくバランスが取れないことがあって悩んでました。割と悶々したものが頭の中にありながら、スキマ時間を使って #はじめて借りたあの部屋 というお題でこの投稿を書いてみました。
最初は気晴らし程度に思いつきで書きはじめてみたのですが、書きはじめると結構いろんな情景が頭の中にプレイバックされて、楽しく書けました。意外と憶えてるもんだねぇと思いました。

若かった頃を思い出すと、ほんとに些細なことも初めてづくし、やることなすこと大変だったよなぁと思います。あんなナイーブ(単純バカ)な脳みそでよくやってたなぁと。

そこからしたら、今の自分の悩みは「贅沢な悩み」だなと思えました。若い頃ってできるかどうかわからないことで悩むじゃないですか、未熟ですから。でも今のおっさんになった自分を、初心にかえって俯瞰的に観て思ったんです、できることとできることの間で「どっちがいいかなぁ」と悩んでるだけじゃん!と。もうそんなのやれることからどんどんやれば良い。そしたらいつか終る。そんな当たり前のことに改めて気付かされました。そのことだけでも、この文章を書いてみてよかったと思います。


SN

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